◆セビリア, Sevilla, إشبيلية
闇のなかに薄く、ひとつの白い輝点が浮かんでいる。茫洋とした光の点は次第に明るさと大きさを増し、おぼろげに何かの形を成しはじめる。それが何であるかを意識するより早く、白い光は上下と前後左右の6方向に細い支索を一本ずつ、まっすぐに伸ばしていく。その輝点の形状が白い鍾乳石でかたどられた龍の赤子のようだと感じた刹那、赤子の嘴が大きく開きだす。視界は突如フィードバックを始め、6方向へと伸びた白い光線の先には同様の龍の赤子のような白い輝点がそれぞれに浮かびあがり、みな大きな両の瞳を覆い隠さんばかりに各々の嘴を開き切ろうとしている。気づくとそうして続々と現れてゆく無数の白い輝点が互いに連関し、連関しつつ光量を増していく光景が、視野の果てまで広大に展開されていた。

ムデハル様式(Mudéjar)による建築装飾をみていくと、その完成度の高さに圧倒される。完成度という言葉では、あるいは誤解を生むかもしれない。どの時代、どの様式による建築物であれ水準の高い作例もあれば低い作例もあり、ある様式と別の様式とのあいだに絶対的な優劣などあるはずもないのだが、それでもたとえば北方のゴシック建築やバロック建築などには時代と地域に制約された‘限界’のようなものをよく感じる。石炭や石油の恩恵とは無縁の人々にもしアール・ヌーヴォーの家具や工業製品を初めて見せたなら、きっとグロテスクとしか受けとられないのではないか。良いものは掛け値なしに良いのだが、その植物様の造形が醸す優雅さの下地にはどこか神経症的な音色が響くことも否みがたい。だから完成度というよりは普遍性、なのかもしれない。ムデハル様式の意匠はどれも表面的には間違いなくイスラム風なのだけど、そのデザインの核となる原理は時代を越えてどの場所に顔をのぞかせても不思議はない、というような。
たとえばセビリアのアルカサル内部、大使の間を蔽う天井装飾 [上画像]。セビリアのアルカサルは中世スペイン王室の宮殿で、レコンキスタによりこの街がキリスト教勢力のもとに‘奪還’されたあと、カスティーリャ王ペドロ1世の命により建てられた。興味深いのはキリスト教勢力によって建造されたにも関わらず、初期のアルカサルに見られる建築様式はイスラム色をとても強く示しているという点だ。そこには取り立てて何らの政治的配慮や思惑があったとは思われない。カトリックを庇護する名目と己の領土的野心のためにこの都に至った王ですらも、その地に育まれた果実の魅力を選びとらざるをえなかったのだ。こうしてレコンキスタのあと展開されるキリスト教建築とイスラム教建築との融合スタイルが今日ムデハル様式と通称され、アンダルシアからアラゴン地方にかけて多くの傑作例が現存する。

それにしてもセビリアは、海から遠い。スペインの大航海時代を代表する街ゆえに海港都市のイメージをもつひとも多そうだが、実際には大西洋に開けるカディス湾からグアダルキビール川を90kmほど遡った土地にある。帆船にとって蛇行する河川を90km遡るというのは、それだけで日数をとられる航程だったろう。現在でも大航海時代の気分を味わおうと真昼にセビリアを出る水上バスへ乗ろうものなら、外洋へ出る頃にはとうに夕暮れどき近くなる。大西洋の落日を見るにはいい。
これほどの内陸に大西洋航路の基幹港が維持された理由としては、まず防衛上の利点が考えられる。スペインの国土で最も中南米に近いイベリア半島南西岸は、航路網においてヨーロッパ世界全体でも一番の要衝であるジブラルタル海峡にほど近く、沿岸部の港が繁栄すれば外敵に狙われる可能性も俄然高くなる。また新大陸交易を主導したカスティーリャ王国は当初グラナダのイスラム王朝を服属させて保護し、西隣ポルトガル王国の矛先を北アフリカへ[→link]、東隣アラゴン王国の牙をバレアレス諸島へと向けさせたが[→link]、こうした緊張関係の中では交易拠点もできるだけ旧来の国土、つまりイベリア半島北中部に近くあるべきだった。現にグアダルキビール川の河口にほど近い海港カディスの沖合は幾度も海戦の舞台となったため、この港はのちスペイン王国最大の軍港へと成長してセビリアを守ることになる。また平時においてカディスは実質的な流通を多く中継し、セビリアの代港のような役割も果たしていく。
セビリアを出航し、両岸に延々と田園風景を眺めてカディス湾へと至ったガレオン船の水夫たちは、突如開けた大海原を前にしてこれから始まる航海への期待と不安をあらたにしただろう。アステカやインカとヨーロッパ文明との衝突はここから始まったし、ラテンアメリカの原住民とヨーロッパ人と、さらには象牙海岸や奴隷海岸から運び出された黒人奴隷たちとの混淆による新たな文化の発生にも、それはやがて連なっていくことになる。
ところでセビリアのアルカサルにおいて、スペイン人はもともとイスラム王朝の宮殿があった場所に改めてイスラム様式の宮殿を建てた。その同じスペイン人が一世紀のちインカやアステカの寺院や宮殿の礎石の上に、純ヨーロッパ風のキリスト教会を続々と建てていく。この姿勢の違いは何だろうか。あるいは中南米のコロニアル様式として知られるそれらの建築群にも、アラブの余韻が微細に入り込んでいるということはありうるか。その辺りは今後の課題とするが、ともあれこうして思念を巡らせ始めると次第に止め処もなくなっていき、やがて文化とは要するに何なのかという根本命題へと辿り着く。いつものことだ。もちろんそこに、答えはない。というより簡単に言葉にできた解答などあったとしても、言葉の様態とて文化の所産であるかぎり恐らくはフェイクだろう。ただ一つ確かなことは、己にとってその答えはまさに、あの茫洋とした白い輝点を龍の赤子と感覚させた何者かのうちにあるということだ。
ついに外洋へ出た。以後は大西洋岸の港を巡る。

闇のなかに薄く、ひとつの白い輝点が浮かんでいる。茫洋とした光の点は次第に明るさと大きさを増し、おぼろげに何かの形を成しはじめる。それが何であるかを意識するより早く、白い光は上下と前後左右の6方向に細い支索を一本ずつ、まっすぐに伸ばしていく。その輝点の形状が白い鍾乳石でかたどられた龍の赤子のようだと感じた刹那、赤子の嘴が大きく開きだす。視界は突如フィードバックを始め、6方向へと伸びた白い光線の先には同様の龍の赤子のような白い輝点がそれぞれに浮かびあがり、みな大きな両の瞳を覆い隠さんばかりに各々の嘴を開き切ろうとしている。気づくとそうして続々と現れてゆく無数の白い輝点が互いに連関し、連関しつつ光量を増していく光景が、視野の果てまで広大に展開されていた。

ムデハル様式(Mudéjar)による建築装飾をみていくと、その完成度の高さに圧倒される。完成度という言葉では、あるいは誤解を生むかもしれない。どの時代、どの様式による建築物であれ水準の高い作例もあれば低い作例もあり、ある様式と別の様式とのあいだに絶対的な優劣などあるはずもないのだが、それでもたとえば北方のゴシック建築やバロック建築などには時代と地域に制約された‘限界’のようなものをよく感じる。石炭や石油の恩恵とは無縁の人々にもしアール・ヌーヴォーの家具や工業製品を初めて見せたなら、きっとグロテスクとしか受けとられないのではないか。良いものは掛け値なしに良いのだが、その植物様の造形が醸す優雅さの下地にはどこか神経症的な音色が響くことも否みがたい。だから完成度というよりは普遍性、なのかもしれない。ムデハル様式の意匠はどれも表面的には間違いなくイスラム風なのだけど、そのデザインの核となる原理は時代を越えてどの場所に顔をのぞかせても不思議はない、というような。
たとえばセビリアのアルカサル内部、大使の間を蔽う天井装飾 [上画像]。セビリアのアルカサルは中世スペイン王室の宮殿で、レコンキスタによりこの街がキリスト教勢力のもとに‘奪還’されたあと、カスティーリャ王ペドロ1世の命により建てられた。興味深いのはキリスト教勢力によって建造されたにも関わらず、初期のアルカサルに見られる建築様式はイスラム色をとても強く示しているという点だ。そこには取り立てて何らの政治的配慮や思惑があったとは思われない。カトリックを庇護する名目と己の領土的野心のためにこの都に至った王ですらも、その地に育まれた果実の魅力を選びとらざるをえなかったのだ。こうしてレコンキスタのあと展開されるキリスト教建築とイスラム教建築との融合スタイルが今日ムデハル様式と通称され、アンダルシアからアラゴン地方にかけて多くの傑作例が現存する。

それにしてもセビリアは、海から遠い。スペインの大航海時代を代表する街ゆえに海港都市のイメージをもつひとも多そうだが、実際には大西洋に開けるカディス湾からグアダルキビール川を90kmほど遡った土地にある。帆船にとって蛇行する河川を90km遡るというのは、それだけで日数をとられる航程だったろう。現在でも大航海時代の気分を味わおうと真昼にセビリアを出る水上バスへ乗ろうものなら、外洋へ出る頃にはとうに夕暮れどき近くなる。大西洋の落日を見るにはいい。
これほどの内陸に大西洋航路の基幹港が維持された理由としては、まず防衛上の利点が考えられる。スペインの国土で最も中南米に近いイベリア半島南西岸は、航路網においてヨーロッパ世界全体でも一番の要衝であるジブラルタル海峡にほど近く、沿岸部の港が繁栄すれば外敵に狙われる可能性も俄然高くなる。また新大陸交易を主導したカスティーリャ王国は当初グラナダのイスラム王朝を服属させて保護し、西隣ポルトガル王国の矛先を北アフリカへ[→link]、東隣アラゴン王国の牙をバレアレス諸島へと向けさせたが[→link]、こうした緊張関係の中では交易拠点もできるだけ旧来の国土、つまりイベリア半島北中部に近くあるべきだった。現にグアダルキビール川の河口にほど近い海港カディスの沖合は幾度も海戦の舞台となったため、この港はのちスペイン王国最大の軍港へと成長してセビリアを守ることになる。また平時においてカディスは実質的な流通を多く中継し、セビリアの代港のような役割も果たしていく。
セビリアを出航し、両岸に延々と田園風景を眺めてカディス湾へと至ったガレオン船の水夫たちは、突如開けた大海原を前にしてこれから始まる航海への期待と不安をあらたにしただろう。アステカやインカとヨーロッパ文明との衝突はここから始まったし、ラテンアメリカの原住民とヨーロッパ人と、さらには象牙海岸や奴隷海岸から運び出された黒人奴隷たちとの混淆による新たな文化の発生にも、それはやがて連なっていくことになる。
ところでセビリアのアルカサルにおいて、スペイン人はもともとイスラム王朝の宮殿があった場所に改めてイスラム様式の宮殿を建てた。その同じスペイン人が一世紀のちインカやアステカの寺院や宮殿の礎石の上に、純ヨーロッパ風のキリスト教会を続々と建てていく。この姿勢の違いは何だろうか。あるいは中南米のコロニアル様式として知られるそれらの建築群にも、アラブの余韻が微細に入り込んでいるということはありうるか。その辺りは今後の課題とするが、ともあれこうして思念を巡らせ始めると次第に止め処もなくなっていき、やがて文化とは要するに何なのかという根本命題へと辿り着く。いつものことだ。もちろんそこに、答えはない。というより簡単に言葉にできた解答などあったとしても、言葉の様態とて文化の所産であるかぎり恐らくはフェイクだろう。ただ一つ確かなことは、己にとってその答えはまさに、あの茫洋とした白い輝点を龍の赤子と感覚させた何者かのうちにあるということだ。
ついに外洋へ出た。以後は大西洋岸の港を巡る。



























