Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
天穹と絢爛
◆セビリア, Sevilla, إشبيلية
 闇のなかに薄く、ひとつの白い輝点が浮かんでいる。茫洋とした光の点は次第に明るさと大きさを増し、おぼろげに何かの形を成しはじめる。それが何であるかを意識するより早く、白い光は上下と前後左右の6方向に細い支索を一本ずつ、まっすぐに伸ばしていく。その輝点の形状が白い鍾乳石でかたどられた龍の赤子のようだと感じた刹那、赤子の嘴が大きく開きだす。視界は突如フィードバックを始め、6方向へと伸びた白い光線の先には同様の龍の赤子のような白い輝点がそれぞれに浮かびあがり、みな大きな両の瞳を覆い隠さんばかりに各々の嘴を開き切ろうとしている。気づくとそうして続々と現れてゆく無数の白い輝点が互いに連関し、連関しつつ光量を増していく光景が、視野の果てまで広大に展開されていた。

AlcazarSeville

 ムデハル様式(Mudéjar)による建築装飾をみていくと、その完成度の高さに圧倒される。完成度という言葉では、あるいは誤解を生むかもしれない。どの時代、どの様式による建築物であれ水準の高い作例もあれば低い作例もあり、ある様式と別の様式とのあいだに絶対的な優劣などあるはずもないのだが、それでもたとえば北方のゴシック建築やバロック建築などには時代と地域に制約された‘限界’のようなものをよく感じる。石炭や石油の恩恵とは無縁の人々にもしアール・ヌーヴォーの家具や工業製品を初めて見せたなら、きっとグロテスクとしか受けとられないのではないか。良いものは掛け値なしに良いのだが、その植物様の造形が醸す優雅さの下地にはどこか神経症的な音色が響くことも否みがたい。だから完成度というよりは普遍性、なのかもしれない。ムデハル様式の意匠はどれも表面的には間違いなくイスラム風なのだけど、そのデザインの核となる原理は時代を越えてどの場所に顔をのぞかせても不思議はない、というような。

 たとえばセビリアのアルカサル内部、大使の間を蔽う天井装飾 [上画像]。セビリアのアルカサルは中世スペイン王室の宮殿で、レコンキスタによりこの街がキリスト教勢力のもとに‘奪還’されたあと、カスティーリャ王ペドロ1世の命により建てられた。興味深いのはキリスト教勢力によって建造されたにも関わらず、初期のアルカサルに見られる建築様式はイスラム色をとても強く示しているという点だ。そこには取り立てて何らの政治的配慮や思惑があったとは思われない。カトリックを庇護する名目と己の領土的野心のためにこの都に至った王ですらも、その地に育まれた果実の魅力を選びとらざるをえなかったのだ。こうしてレコンキスタのあと展開されるキリスト教建築とイスラム教建築との融合スタイルが今日ムデハル様式と通称され、アンダルシアからアラゴン地方にかけて多くの傑作例が現存する。

mudejarwall

 それにしてもセビリアは、海から遠い。スペインの大航海時代を代表する街ゆえに海港都市のイメージをもつひとも多そうだが、実際には大西洋に開けるカディス湾からグアダルキビール川を90kmほど遡った土地にある。帆船にとって蛇行する河川を90km遡るというのは、それだけで日数をとられる航程だったろう。現在でも大航海時代の気分を味わおうと真昼にセビリアを出る水上バスへ乗ろうものなら、外洋へ出る頃にはとうに夕暮れどき近くなる。大西洋の落日を見るにはいい。
 これほどの内陸に大西洋航路の基幹港が維持された理由としては、まず防衛上の利点が考えられる。スペインの国土で最も中南米に近いイベリア半島南西岸は、航路網においてヨーロッパ世界全体でも一番の要衝であるジブラルタル海峡にほど近く、沿岸部の港が繁栄すれば外敵に狙われる可能性も俄然高くなる。また新大陸交易を主導したカスティーリャ王国は当初グラナダのイスラム王朝を服属させて保護し、西隣ポルトガル王国の矛先を北アフリカへ[→link]、東隣アラゴン王国の牙をバレアレス諸島へと向けさせたが[→link]、こうした緊張関係の中では交易拠点もできるだけ旧来の国土、つまりイベリア半島北中部に近くあるべきだった。現にグアダルキビール川の河口にほど近い海港カディスの沖合は幾度も海戦の舞台となったため、この港はのちスペイン王国最大の軍港へと成長してセビリアを守ることになる。また平時においてカディスは実質的な流通を多く中継し、セビリアの代港のような役割も果たしていく。

 セビリアを出航し、両岸に延々と田園風景を眺めてカディス湾へと至ったガレオン船の水夫たちは、突如開けた大海原を前にしてこれから始まる航海への期待と不安をあらたにしただろう。アステカやインカとヨーロッパ文明との衝突はここから始まったし、ラテンアメリカの原住民とヨーロッパ人と、さらには象牙海岸や奴隷海岸から運び出された黒人奴隷たちとの混淆による新たな文化の発生にも、それはやがて連なっていくことになる。
 ところでセビリアのアルカサルにおいて、スペイン人はもともとイスラム王朝の宮殿があった場所に改めてイスラム様式の宮殿を建てた。その同じスペイン人が一世紀のちインカやアステカの寺院や宮殿の礎石の上に、純ヨーロッパ風のキリスト教会を続々と建てていく。この姿勢の違いは何だろうか。あるいは中南米のコロニアル様式として知られるそれらの建築群にも、アラブの余韻が微細に入り込んでいるということはありうるか。その辺りは今後の課題とするが、ともあれこうして思念を巡らせ始めると次第に止め処もなくなっていき、やがて文化とは要するに何なのかという根本命題へと辿り着く。いつものことだ。もちろんそこに、答えはない。というより簡単に言葉にできた解答などあったとしても、言葉の様態とて文化の所産であるかぎり恐らくはフェイクだろう。ただ一つ確かなことは、己にとってその答えはまさに、あの茫洋とした白い輝点を龍の赤子と感覚させた何者かのうちにあるということだ。

 ついに外洋へ出た。以後は大西洋岸の港を巡る。
 
 
dusk


 
2008.08.01 * 北東大西洋編 * CM:1 * TB:0 * top↑
フェデリコという情熱
◆シラクサ, Siracusa, سيراقوسة, Συρακοῦσαι
 およそひとの生きるところには、あまねく物語が息づいている。神話が世界の輪郭をすべて明らかにした時代から、内面の問題が個々人の物語として細分化され意識化される近代へ。語られる言葉の響きこそ多種多様だが、そこには古今東西を問わず通底している型らしきものがある。C.G.ユングはこれを集合的無意識を基底とする元型イメージの発露とし非科学的だと批判を浴びたが、このとき批判者たちが身を置いた“科学”の視座なり立場なりを、ユング当人がそれら批判者ほどに信奉しきっていたかは謎である。重要なのは説明の作法なのか、語られる内実か。


 中世後期のシチリアで育った神聖ローマ皇帝でシチリア王のフェデリコ2世は、その類稀な教養や知的好奇心の奔放さ、研ぎ澄まされた合理的思考や外交感覚に秀でた諸々の施策から“世界の驚異”と讃えられ、しばしば“王権に座った最初の近代人”と評される。けれども私見の範囲で言えば、これら知性や合理性の有りようをもって近代人の証とするのはどこかおかしい。近代以降‘知’の基盤となった科学とは、ある面では神話の読み換えでしかないからだ。
 このことから彼をして“王座の最初の近代人”たらしめる根拠を探すなら、むしろフェデリコ2世が生きた物語の内に目を向けるほうがふさわしく思われる。中近世から近現代へと至る過程とはすなわち人々が独自の物語を希求しはじめ、あるいは強いられ、魂の孤立を深めていく過程でもあったからだ。そして事実、彼を育んだシチリアは当時の地中海世界において最も物語に満ちた土地の一つであり、フェデリコ2世がそこで近現代人に先んじて周囲の環境世界とは隔絶した己の在りようを見出していたとしても何ら不思議はない。

 この王が為した具体的な事績についてはネットを探せばいくらでも拾えるので、主なものを幾つか挙げるに留めておく。イスラムへの深い理解に基づいて、数ある十字軍の歴史のなかで唯一エルサレムを無血開城し[1228]、時のイスラム世界最大の権力者アル・カミールとはアラビア語による自然科学に関する交信によって友情を深めた。フェデリコを反教者と罵り破門すら行ったローマ教皇の勢力を巧妙に抑え、ドイツの諸侯に対しては関税権や裁判権のほか多くの権限を認め[1220]、のち500年に及ぶプロイセン一帯の領邦的性格を決定づけた。中世ヨーロッパで初の国家法典となる‘皇帝の書(Liber Augustalis, シチリア法典)’を定め[1231]、各都市の有力者を集めて帝国議会を開催[1240]。この議会運営の手法はのちにシモン・ド・モンフォールによる英国議会創設のモデルとなる。またパレルモには動物園を持ち、キリンを飼い、鷹の飼育に関する詳細な著作を遺した。ナポリでは今日に続くナポリ大学を創設。彼本人は9ヶ国語を話し、7ヶ国語の読み書きができたという。ごく簡略に述べてもこれだけの量になる。おそるべし。

cefalu

 皇帝フェデリコのゆりかごとなったシチリア島は、先史の時代より異なる集団同士が出遭う文明の交差点であり続けた。のちのローマ文明に連なるエトルリア人が北方からこの島に辿りついた前古代において、そこではすでにフェニキア人とギリシア人が凌ぎを削っていた。その後も西方からゲルマン系のヴァンダル族[→link]、東方からビサンツ帝国、南方からイスラムの流入と支配を受け入れたこの島は、11世紀には遠くバルト海から到来したノルマン人の支配下に入り、フェデリコ2世が玉座についた12世紀末にはまさに異文化混淆の極地といった様相を呈していた。幼少時から市井を歩くのを好んだというこの王は、そこで世に流布された無数の偏見に先んじて各々の文化文明の魅力と欠点を見抜く眼差しをごく自然に獲得したのであろう。皇帝位を得ながらも多くの権限を諸侯に委譲し、教皇に破門されたまま十字軍を起こして稀有の成功を収めるという、一見奇妙でその実巧みなバランス感覚もこの環境下では無自覚のうちに養われたに違いない。

 異なる文化、異なる価値観のせめぎあう場所において、ひとは初めて他者の存在を深く知ることになる。合理的思考とはすなわち客観性への志向を意味するが、他者との葛藤なしにはそもそも客観的視座の獲得など為し得ない。さらに言えばそれなしにはどのような物語も、またいかなる法体系も成立することはない。(その必要がない。) 南仏プロヴァンスの地に11世紀、トルバドゥールと呼ばれる愛を歌いあげる叙情歌の形式が生まれのちのヨーロッパ文学の礎となったことは過去に述べたが[→link]、直接の語源であるオック語の‘trobador’はアラビア語の‘tarrab(歌うこと)’に由来するという説がある。説の当否はともかく南仏のオクシタニア文化圏がイスラムの強い影響下にあったイベリア半島のカタルーニャ文化圏との親縁性をもったことを考えても[→link]、そこで生まれた新たな文化がアラブの色彩を滲ませたであろうことにはほとんど疑いの余地がない。当時のフランスや北イタリアからは、先進的な事物に憧れて多くのカトリック教徒の青年がイベリア半島やシチリアの宮廷やマドラサを訪れ、イスラム教徒やユダヤ教徒、ギリシア正教徒などと共に研鑽に明け暮れてすらいたのである。


 とはいえ愛の詩がアラブ由来というのは少し奇異に映るかもしれない。だがイスラムときけば黒いベールやら禁酒やらといったストイックな心象ばかりを抱くことのほうが恐らく表層的というか、20世紀アメリカ的な見方なのだろう。たとえば11世紀イベリア半島の政治家イブン・ザイドゥーンは詩人としても名を馳せ、ときの王女に宛てた恋歌が原因で投獄されたがのち許されて大臣にまでのぼり詰めた。現代においてもその恋と愛のオンパレードぶりが日本ではほとんど受けることのないインド映画が、ペルシャ湾からアラビア海、アフリカ沿岸のイスラム諸国において巨費と最先端技術を投じたハリウッド映画に劣らない(むしろ勝る)人気を現に誇っていたりもする。そこには現代の日本人が、少なくとも私個人が抱えている根本的な見誤りが恐らくある。

 翻ってヨーロッパ文明の展開については、ヘレニズムとヘブライズムとの相克というような文脈でよく語られる。だがこうみてくるとそれもまた、ひどく狭量な視野に基づく偏見なのではないかと疑わしくなってくる。中世最大のキリスト教神学者の一人で没後は列聖もされたトマス・アクィナスが、スコラ学を大成するにあたってイブン・ルシュドの著作に深く影響を受け、また激しく反駁を加えたことはよく知られているが、実際ダンテにしてもゲーテにしても中近世のヨーロッパにおいて鋭敏な感性を湛えた知識人たちはそのいずれもが、己の創造性の根底にイスラムの思想文化が多分に寄与していることを畏敬をもって自覚していた節がある。だからむしろ近代のある段階で、それらは一度‘なかったこと’にされたと考えるのがきっと妥当なのだとおもう。イブン・スィーナーの『医学典範』はラテン語に翻訳され、ヨーロッパの大学では17世紀まで使用された事実がある。ならば彼の立てた思想がキリスト教世界の誰にも影響しなかったとするのはあまりにも不自然だ。真空に浮遊する人間の感覚を説いたスィーナーの存在一般に関する論理はその実、誰もが知るデカルトの命題を嫌でも想起させるものがある。

siciliasat エルサレムに入城したフェデリコ2世は、彼に配慮したイスラム教徒の住民が定時のアザーンをとりやめたことに気づくと 「この街ではイスラムの祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」 と洩らし、現地の官吏を呼び寄せて 「あなた方がわたしたちの国へ来たとき、教会の鐘が鳴らせなくなってしまう」 と不満を述べたという。 宗教とは彼にとってはじめからそのような斟酌を要するものではなく、純粋にこの世界の輪郭を定める手法の一つとして存在していたのかもしれない。
 世界とはこういうものである、と科学は語る。だがそこで語られるもの、たとえば現代にあっては究極的にその論的基盤とされる分子運動や量子力学の支配する世界を、ひとは自らの肉眼で見、己の手指で触れて感得することはない。科学的観測はその最先鋭の領域ではどこまでも観測の域を出ず、いまだ神は神そのものとしてそこで息を潜めているとも言える。
 シチリアの街角を歩き、幾つもの異なる言葉で異なる神に関する物語を日常的に耳にしていた彼にとって、もしかしたら真の神とは諸事諸物にあまねく偏在するように感じられていたのではないか。それら市井に響く祈りの調べの向こうがわに。あるいは自前の動物園へ集めさせた、異国の珍獣たちの瞳の奥底に。

 
2008.07.26 * 東地中海・黒海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
その闇を、静かに
◆ナポリ, Napoli, Νεάπολις
 もとはエーゲ海の小島で暮らす貴族の家に、ラバ4頭分の値で買われた奴隷であった。家の主は近隣でも名の通った開明的な人物で、所有する奴隷たちに対しても周囲の目からは奇異に映るほど寛容な態度をとった。望む者には教えを施し、書庫への立ち入りすら許したのである。奴隷の男はこうして、言葉が黒い曲線の束へと化けた先に息づく、広大な未知の世界を予感した。

 やがて男は毎日買出しへ出る市場である使役人の娘と出会い、一瞬にして恋に落ちる。彼はお世辞にも聡明な頭脳の持ち主とは言えなかったが、商人が娘の名を呼ぶのを耳にした日の夕刻、無礼を押して主人に乞い願い、その名を文字に表す術を学んだ。その晩は眠れず、幾度となく娘の名を地べたになぞり、朝を迎えた。
 そして戦乱が島を襲う。奴隷の所有者はアテネの有力者へと変わり、転売され、さらに転売されたのち、彼の身は遥か西方の植民市ネアポリスの地底に広がる採石場へと移された。男はそこで、深く、さらに深くへと、地中に穴を穿っていた。

masonaneapolis
 
 “暗黒の木曜日”に端を発した先の世界恐慌による影響もまるで匂わせないこの街の喧噪を、数週前に長い放浪の旅から帰り着いた学生は何とも頼もしく感じていた。ちょっとした街角や民家の庭先にローマ時代の遺物が顔をのぞかせることも珍しくないこの街で暮らす人々は、他の街の人間にくらべて持っている時間の尺度がずっと大きく、打たれ強い。それは旅に出て初めて知ったことだった。そのことの意味など思い巡らせながら、学生は街の路地裏を隈なく歩き続けていた。

 幼い頃からあてどもなく歩き回るのが好きな質(たち)ではあったが、最近の彼は少し様子が違っていた。旅の終盤に近隣の町へと立ち寄った際、たまたま入った骨董屋の奥隅で見つけた埃まみれの古文書の束が、学生の歩く姿勢を変えさせた。その朽ちかけた紙束に載る記録の羅列は彼の住む地域にローマ時代、かなり大きな円形劇場が存在したことを仄めかしていたのである。それから学生は街角のちょっとした小道の曲がり具合や坂の勾配、普通なら気にもかけないような石畳の段差のうちに、古代の街並みを見るようになっていた。そしてある日の夕暮れ近く、古くからの商店で賑わうある一角が、丸ごと劇場のアリーナ部分に相当することを突きとめた。周囲からは少し落ち窪んでいるその場所では、わずかに地上にのぞく劇場の通路の石壁が今ある商家の柱の土台となり、観客席の石階段がそのまま穀物倉の基礎とされていることを見出した。
 大学への転科願いをしたため、研究者として生きる決心を固めたのはその夜のことだった。

stairsnapoli

 まさかこの街が、爆撃を受けるとは思ってもいなかった。街の防衛部隊へと配属されたとき、分隊長は内心ほっとしたものだった。そのことで当面は、見知らぬ誰かとこの手で殺し合うような事態は避けられると考えたのである。だが物ごとは、分隊長の予想を遥かに超える速度で進行する。イタリア軍は南方でリビアからエジプトへ、東方でアルバニアからギリシャへと進軍したが、準備不足が祟って早々に前線が崩壊、今では逆に侵攻される憂き目に遭っていた。

 砲撃によって旧知の教会前に大穴があいたとの知らせを受けたのは、街の沖合にイギリス艦隊が姿を現してから間もなくのことだった。穴の底には不自然な空洞が口を広げているという。史上幾度も繰り返されたベスビオ山の噴火によって、この街の地中には出口を失ったローマ時代の貯水槽や遺跡群が往時のまま数知れず眠っていることは、地元の人間ならば誰もが知るところである。実際多くはこの戦時下に掘り返されて防空壕へと転用されてもいたのだが、その教会付近の地下についての情報を軍はまだ把握していなかった。ためにさっそく調査の命令を受けた彼の分隊が、穴の奥で目にしたものは。
 その出来事は分隊長がかつてこの街の孕む謎に対し抱いた情熱を、戦火のもと再び鮮やかに揺り起こすことになる。心中に発した熱はとても激しく、力強く、一度火がついてしまえばもうとどめようのないものだった。彼はこの偶然を深く愛した。

mementomori

 ナポリ大学考古学研究室教授ニコロ・アルジェントにとって、地中レーダーを使用して地下40メートルの奥底に発見した古代の採掘現場に関する研究は、彼の学者としての実績を集大成するものとなっていた。掘削法の分析や放射性炭素による測定から年代としては紀元前5世紀の古代ギリシア植民市時代とすでに確定していたが、いまだ解けない最大の謎はその壁面に残された文字である。ギリシア系の文字であり、そこで使役された鉱夫により彫られた可能性は高いのだが、現在判明しているどの古代ギリシア語の派生パターンともその文字の羅列は符合しない。作業工程に関する記録とする説や、ギリシア語を元として鉱夫たちのあいだで独自に発達した記号だとする説などが浮上するものの、いずれもこの地中深くにわざわざ彫り記す必然性を説明しきってはいなかった。

 ニコロ・アルジェントは最近ひそかにこう考えるようになっている。この文字はこの場所に連れて来られた人物にとってとても大切な、疲弊してなお鑿で刻み付けずにはいられないほど忘れ難く、かけがえのない誰かの名前なのではないか。論的根拠は何もないのだが、どの仮説よりも不思議とこの空想には力を感じた。日射しの傾きかけた午後、木漏れ日のなか研究室への小道を歩いていた教授はふと気がついた。その力は遠い日に、ナポリの街角に古代の劇場を見たときの興奮や、艦砲射撃によってあいた大穴の底で不意に捉われたあの熱情の在りかたと、ぴったりと重なっていたのである。ただ歩くことしか知らない己をこの日々へと導いたその偶然の連鎖に想い至ったとき、彼の両のまぶたは穏やかに閉じられ、互いに組んだ両掌はゆっくりと眉間へ寄せられた。戦争の悲惨を目にしてから半世紀の長きにわたり神を信じずにいた彼が、そうと意識することもなく、静かに祈りを捧げていたのである。

 
2008.07.07 * 西地中海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
石に音楽の流れる
birdnest

◆ピサ, Pisa
 まず大地があり、そこにひとが現れる。ひとは風をふせぐために壁をたて、雨をしのぐために屋根をわたす。はじめは手近な自然物がその材料にあてられる。樹々の豊富な土地では木造の、加工に向いた石材があれば石造の構造物が、こうして次々と生まれてゆく。鳥が枝を集めて巣を編んでいくように、蟻が土を運んで塚山を築いていくように。だから土地が変われば、建物のカタチも変わる。それを自然のこととして、建築の歴史は長く時を刻んできた。蜘蛛は元形を留めない糸へと素材を転化させ、空中に家をつくる。鉄とガラスによる現代都市とどこか似ている。こちらは地球上のどこであれ、おのずと似通ったものになる。

spidernest

 工業の発展によって街を形作るパーツが日々規格化され、画一化されゆく時代になって、古きものがもつその土地ならではの固有性にひとは初めて価値を見出した。ピサの場合、それはまずロマネスク様式の建築群を指すことになる。なぜゴシック様式でもルネサンス様式でもなくロマネスクなのかというと、この様式の流行した11世紀から12世紀が、ほぼそのまま海運国ピサの最盛期に相当したからだ。
 もともと古代ギリシアの植民市としてスタートしたこの街は堅実な発展を続け、11世紀にはコルシカ・サルディーニャ・バレアレス諸島の各港を領有、中世地中海における四大海洋国家の筆頭に称えられるほどの繁栄を謳歌した。だが1284年にメロリア海戦でジェノヴァに屈して以降往時の勢いが甦ることは二度となく、よってそれまでに築いた遺産を超える建造物を生みだすこともなくなった。1509年、稀代の策謀家マキャヴェッリが組織したフィレンツェの国民軍を前にして、都市国家としてのピサの命脈は終焉を迎えることになる。
 
CampodeiPisa

 さてこうして経済力を背景に昇華したこの街の建築様式は、今日では一般に“ピサ・ロマネスク様式”と通称される。その特徴はファサードに重なる小円柱の列や寄せ木細工による装飾など幾つかあるが、他に主なものとして白と黒の大理石を交互に積むことによる縞状の幾何学模様(polychromia)が挙げられる。材質の違いによってモノクロの縞を生みだすこの手法は、近隣のトスカーナ一帯はもとよりライヴァルの海洋国であったジェノヴァやアマルフィにも浸透し、さらには各国がもつ海運力に乗って遠方の植民市へと伝播した。

polichromia

 上画像は左からフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ、中央がジェノヴァのドーリア家旧宅、右がアマルフィのドゥオーモ正面。建築様式としては左がルネサンスからネオ・ゴシックまでの混合様式、右がアラブ・シチリア様式と幅広いが、明色と暗色の石材を交互に重ねて模様をつくる点で共通している。
 またこのように材質の違いを根拠とした本来の手法から、外観のみが採用されて別のスタイルへと発展した例として、教会同士でロケット花火を打ち合う祭りで有名なエーゲ海・ヒオス島のクシスタ模様(xista, 下画像左)がある。先日放送された長寿TV番組“世界ふしぎ発見”では、この様式が一時期この島を支配下においたジェノヴァから伝来したこと、島では黒の地に白の漆喰を塗り型に沿ってはがす独自の手法が発達したことなどが、職人の実演も併せて紹介されていた。こんな文章をここまで読むくらいであれば、観たひともきっといるだろう。吉村先生のエジプト編などもそうだが、この番組は軽いノリのまま時々無駄にマニアックな領域までカメラを突っ込む。油断できない。

xistasinan

 ところでなぜ縞模様なのかということを考えたとき、即座に思い出されたのがマラガの回で扱ったアンダルアのイスラム建築様式だ[→link]。コルドバのメスキータ内観に覗くアーチ(上画像中央)など、色こそ違え原理はほとんど同じに見える。メスキータにしてもアルハンブラ宮殿にしても、アンダルシアの建造物に赤色が多いのはその土壌が赤土を主としていたからだが、同様に考えればモノクロ縞の様式が発達したのはピサやそれが伝播した土地で白と黒の石材が入手しやすかったからということになる。実際、白色に比べて黒色の石材(正確には黒緑色, セルペンティーノ)は生産地が限られたため、同じピサ・ロマネスク様式の影響下にあるトスカーナ州の街でもたとえば内陸で山がちのヴォルテッラなどでは、暗色部を黒ではなく赤色の煉瓦によって代用した縞模様を見ることができる。この手法においてはその土地土地の固有性に加え、正確に再現するには流通の力がモノを言ったというわけだ。
 上画像の右端は現トルコのヨーロッパ側、エディルネにあるセリミエ・ジャーミィ内観。当ブログではすでに幾度か登場している建築家ミマール・スィナンによる、最高傑作との呼び声も高い大モスクだ。スィナン本人は16世紀のひとだが、彼の建築群はそれまでのギリシア・アラブ・ペルシア域において数千年に渡って蓄積されてきた技術・意匠の集大成といった観がある。そこにもこうして件の意匠が顔をのぞかせているということは恐らく、この≪材質の違いを活かした縞模様のアーチ≫の源泉は思いのほか、深い。

ablaq

 上画像左はシリア・アレッポに現存し、今も現役のハマム(沐浴場)。中央は後述するとして、上画像右はレバノン・トリポリにあるマドラサ(モスクに付随する学究施設)。こちらも見るからに現役だ。いずれもアブラク(ablaq)と呼ばれるイスラム世界固有の装飾様式によるものだが、モノクロ縞のアーチに帰結している点でピサのものとよく似ている。アブラク様式はエジプトからアラブ一帯を支配下としたアイユーブ朝、マムルーク朝のもとで発展したが、その起源は11世紀以前のビサンチン美術に帰すると考えられる。要するにその発生もピサ・ロマネスク様式とほぼ同時期なのだ。ここで中世前半のイタリア半島がビサンチン帝国の強い影響下にあったことを考え合わせると、これらの発生源はすべて同じとみるほうがどうも自然に思えてくる。だとすればジェノヴァによる支配以前はビサンチン帝国下にあったヒオス島のクシスタ模様に関する“世界ふしぎ発見”の上記説明は、「誤りとは言い切れないが正確でもない」という可能性も出てくる。徹子さん、どうか長生きしてください。
 上画像中央はアナトリア半島北西部・ブルサのエミール・スルタン・ジャーミィに掲げられたセリム3世を称える銘。明暗二色の細工によって極度に抽象化されているが、「アラーのほかに神はなし、モハメッドは神の代弁者である」と書かれているらしい。インド人もびっくり。いや別にインドは今回関係ない。縞模様を追いかけて、ピサからやたら遠くまで来てしまった。

 さいごにもう一度トスカーナへ戻って終わろう。下画像はピサ近郊の街ピストイアにあるサン・ジョヴァンニ・フォルチヴィタス教会(Chiesa di S.Giovanni Fuorcivitas)外観。中段の小柱列中央の一本だけが黒緑色の柱とされているあたり、洒落ている。ガイドブック風にそう言って済ますこともできるだろうが、実のところ同一パターンが横方向にのみ反復することで間伸びしがちな全体の印象を、この一本の存在が劇的に締めてもいる。ミラノあたりの高級香水ブランドが泣いて飛びつきそうなほどモダンで洗練されたデザインだが、これでも12世紀の建築である。

La chiesa di S. Giovanni Fuorcivitas

 薬師寺東塔の律動的なフォルムを“凍れる音楽”と評したのは明治期に来日した美術史家アーネスト・フェノロサだが、元来この言葉はゴシックの大聖堂を指してシェリングやゲーテといったドイツの知識人のあいだで稀に使われる表現であったらしい。ともあれ建築も音楽も人間精神の純化された顕れである以上、生まれた土地土地のもつ色彩と無縁でいられるはずもない。ロマネスク建築はいわばゴシック建築の前段階に当たるから、シャルトル大聖堂やパリのノートルダム寺院といったゴシックの傑作群がもつアクセントに富む構築性や、天へと突き抜けるような荘厳さがそこにはまだ欠けている。しかし代わりに緩やかで一層落ち着きのある優美な調べを、訪れた者は等しく聴きとることになるはずだ。ピサの教会広場がそこに居並ぶ建築群のサイズにも関わらず控え目にひそやかに感じられるのは、きっとその優しい響きのせいだろう。ただ一つ、斜塔の危うさをのぞいて。

 
2008.07.03 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ジェノヴァ舞武
◆ジェノヴァ, Genova, Zena
AndreaDoria 巨躯であったと伝えられる。ために老いて肉が削ぎ落されてなお、高みから放たれるその眼光は容易に周囲を圧したという。また、寡黙であった。軍議においては終始目をつむり、数十歳は若い発言者たちの献策に耳を傾けるのが常であったが、結局は最後にこの男の発する一言がすべてを決めた。この寡黙な男が戦場でのみ発する咆哮はだが、会戦海域に浮かぶあらゆる軍船の帆を震わせたともいう。生ける軍神であった。
 アンドレア・ドーリア(Andrea D'Oria)。齢八十を超えてなお自ら艦隊を率い、敵船団に当たり続けた男の名前である。

 のちに一国の趨勢を一人で背負うことになるこの男を、母国ジェノヴァはまず手軽な軍人として遇し、そして動乱のさなかマルセイユへと放逐した。まもなく街はフランス国王フランソワ1世の占領下に置かれる。しかしこれに反発してドーリア麾下12隻のガレー船団がフランスからスペインへと寝返ると、ジェノヴァはほぼ自動的にスペインの領下へと入った。1528年のことである。この男が己の軍事的才能によって、ジェノヴァを単身フランスの圧政から解放した形となった。
 この功績を讃えて共和国ジェノヴァは男にドージェ(Doge, 元首)の地位を用意する。だがドーリアはこれを断り、代わりにケンスル(Censor, 監察官)の官職を要求した。古代ローマに由来するこのやや控え目な響きを備えた役職を自らのためだけに復活させたことは、結果的には男に終身独裁者の座を約束した。このとき齢はすでに還暦をこえていた。しかし彼の存在は以後30年にも渡り、当時地中海の過半を占めていたイスラムの人々を恐れさせることになる。
 スレイマン大帝やカール5世が覇を競い、ヴェネツィア共和国や新興国フランスが凌ぎを削った同時代の地中海においても、‘現実的に’その海の手綱を握ったのはハイレディン・バルバロッサ[→link]とこのアンドレア・ドーリア、ただ二人であったとしても恐らく過言とはならない。

medievalgenova

 海洋都市国家としてのジェノヴァの最盛期を、13〜14世紀周辺とする歴史家は多い。たしかにその世紀、ジェノヴァは海外に最も多くの居留地を抱え、ヴェネツィアやピサなど他国の海軍にも多く勝利した。だが仔細に検討すると、この見方はかなり一面的なものであることがわかってくる。実際たとえばジェノヴァが最大勢力を占めた黒海の諸港は15世紀以降次第に失われていくが、これはジェノヴァの国力そのものの衰退というよりも、東方におけるティムール朝の強勢が黒海北東岸のキプチャク・ハン国を圧迫したために起きたシルクロードの“草原の道”から“砂漠の道”への移行を反映したものという色合いのほうが実は濃い。

 その間、ジェノヴァは交易路を武力によって切り拓くのではなく、既存の勢力へとり入ることによって獲得する、より巧妙な外交戦術を身に付けていく。近世スペイン最大の貿易港セビリアなどは、こうしてただジェノヴァ人の手によって発展したと言っても良いだろう。15世紀末、彼らジェノヴァ人は黒海交易からセビリアを起点とした新大陸交易へと活動の主舞台を切り替える。そして16世紀末カリブ海域の銀山が軒並み枯渇すると、今度は中南米の金銀を交易の主軸としていった。スペインによるインカ・アステカへの侵攻は、こうした経済的背景を抜いては語れない。やがて余りに多くを海外商人の手に委ねたスペイン・ポルトガルは、栄光の歴史を残して静かに没落を始めていく。だがそれもまた多くのジェノヴァ商人にとっては恐らく、交易形態の変化を意味したに過ぎないだろう。遠く21世紀現代においても商港としてジェノヴァがイタリア最大の取扱高を誇っていることは、その何よりの証だと言えるかもしれない。利を尊び、名より実を獲り続けた海洋都市国家の息遣いがそこにある。

Azzurrogenova

 さてまだ無名の若き日、一家の所用を兼ねて男はカスティーリャ地方のある街を訪れた。どうしても訪ねておきたい人物がそこには住んでいたのである。快く面会に応じてくれたその人物もまたジェノヴァ出身であることも手伝って、話は長く続いた。不思議なことを言う。と、率直に男は思った。黒海の港で遥か東方から来たらしい異国人の奇特な居姿をすでに目にしていた男からすれば、あらゆる意味で異質な人間がこの世界にはまだ多く存在することは想像に難くない。しかしこの世が球体であるというこの人物の主張がどういうことなのか、やはりよくわからない。ならばすべてが逆様の遠き海原では、たとえばガレーの櫂はどの向きに漕がれるのか。洋上での白兵戦はどのように行われるというのだろうか。そこでは神もまた逆様なのか。そしてそのことに、いったいどういう意味があるというのか。

 面白い。だが、己にはやはり関わりのないことだ。男はそう結論付けた。目下の敵は我がジェノヴァの内部にある。その敵を克服し遂せても、次には近隣のミラノやフィレンツェ、大国フランスやスペインとの鬩ぎ合いが控えている。そのさらに先では、年を追うごとに勢力を増す異教徒の海賊たちとの抗争が我が人生を埋め尽くすことだろう。そうであってほしいと願う。つまりはその結論が欲しくてここに来たのだと、クリストフォロ・コロンボの居宅を辞して男はようやく気がついた。
 晴れやかな日であった。
 
 
2008.06.28 * 西地中海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
螺旋の海
◆カルヴィ, Calvi
 水はまだひんやりとして、思いのほか暗い。沖合に少し出ただけで水底はぐっと深くなり、己の企みが浅はかなものであることはすぐにわかった。といって水草や錆やフジツボの類に覆われているだろうその痕跡をもし見つけたところで、別段どうしようというわけでもない。1794年、20代半ばにして戦列艦アガメムノンの艦長となったホレーショ・ネルソンは、この街を巡る攻防で右眼の視力を失った。戦闘がどのようなものであったのかはよく知らない。ただ、運がよければその時沈んだカノン砲の一つでも見つかるのではないかと期待して、時間つぶしに潜ってみただけだった。

cannonshipwreck

 早々に諦めて海から上がり古い石堤に沿って歩き始めると、浜辺のほうから数人の若者のはしゃぐ声が聞こえてくる。この島の人間があのように高い喚声をあげることは稀だから、どのみちジェノヴァ界隈からバカンスに訪れた裕福な家の子弟らといったところか。そう当たりをつけて3歩と進まないうちに、リグリア訛りの濃いイタリア語のフレーズが耳に飛び込んできた。ジェノヴァ地方の方言である。
 はっきりそうとわかると、途端に不快な感情が湧き起こってきた。彼らとて、ジェノヴァ人がかつてこの島で行った圧政と搾取を知らないわけではあるまい。だとすればそれにも関わらず抑圧者の言葉で騒ぐ彼らの傲岸さを、自分は不愉快に感じているのだろうか。いや、おそらく違う。彼らは知らないのだ。良家の子弟が己の血に潜む陰の歴史を敢えて教わる理由はない。不快に感じているのは結局、いつも通りこの自分に対してなのだろう。歳の幾つも違わぬだろう彼らのように、自分はあけっぴろげに大きく笑うことがない。いつのまにか、無知であることを罪とすら考え伏し目がちに生きるようになっていた。だがそれが良い道行きであるという確信はいまだにない。そう、だからこそ、ああした笑い声はこの身を不安にさせるのだ。わかってはいる。しかしどうにもしようがない。
 気づくと、すでに街の端へと歩き着いていた。いま宿へ戻ってもすることがないと考え、青年は港の埠頭の方角へと足先を変えた。

FlagCorsica 港湾の事務を取り扱っているのだろう小屋の屋根には、小ぶりなコルシカの旗がささやかに舞っている。元はコルシカ独立戦争を戦った独立政府の旗章で、目隠しをされたムーア人の頭を意味したという。サルディーニャ島の州旗もたしか、これとほぼ同様の由来をもっていたはずだ。このあたりの島の歴史とはどこでも、ムーア人の海賊からジェノヴァの武装商人、フランスの革命政府などと姿を変えて存在し続けた外来の脅威に対する抵抗の歴史そのものなのだろう。
 サルディーニャの独立運動はやがてイタリア統一の枢軸となったが、コルシカのそれは結局フランスの支配下に留まった。何が二つを分けたのかと考えれば、要因は様々にあるだろうが一つには島のもつ規模の差が大きいだろう。この島はサルディーニャに比べ、ただ小さいという以上に耕地面積がずっと少なく、従って人も少ない。人々が徒党を組んで求心力を発揮し、外部の勢力に対するためにはやはり相応の規模と内実が必須の要件とならざるを得ない。組織を司る統制はそれゆえに、実効力をつねに前提において構想される必要があるだろう。従って実態にふさわしい帰結に至った否かで判断するなら、コルシカの独立戦争が失敗に終わったとは一概に言えなくなる。それによって何を得たのか、重要なのはこの一点だ。

corsicaisland そういえばコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官には、かのナポレオンの父親がいたはずだ。父親はのちフランス側に寝返り、それがもとでボナパルト一家はコルシカ島を放逐される。ネルソンがこの地で隻眼となる前年、若き砲兵士官のナポレオンは1年だけこの島に任官していたらしい。トゥーロン包囲戦でその軍事的才能を世に知らしめ、24歳にして少将に昇進するのはコルシカ赴任の直後のことだった。しかしこうしてかえりみると、一家のマルセイユ移住がのちの皇帝ナポレオンの誕生につながり、やがてフランスによるコルシカの支配をより強固なものとする素地を形作ったのだから、何とも皮肉な話ではある。とは言えいかに賢明な指導者であれ、自らの施策がもたらす結果について予めその全てを踏まえることなど不可能な話だろう。失政は政治の本質である、という格言を記したのはモンテスキューだったか。いや、違う。社会思想には自信があるつもりだが、古典がかってくるとどうにも記憶が曖昧になってしまう。まだまだ研鑽が足りないな。

 この島で隻眼となってから数年後、カナリア諸島での戦闘により右腕を切断したネルソンは、イギリス地中海艦隊を率いてトゥーロンのフランス艦隊封鎖を試みるが、物量の差もあって失敗に終わる。この失策によりナポレオンのエジプト侵攻への道が開けたが、ために陸軍のアレクサンドリア入城を支援したフランス艦隊はナイル河口においてネルソンの鬼謀に触れ、殲滅の憂き目に逢う。このとき以降フランス海軍内部には‘ネルソン恐怖症’とでもいうべき神話が生まれ、のちのトラファルガーの海戦へと連なっていくことになる。
 トラファルガー沖海戦でも艦隊を指揮したネルソンは、その洋上で生涯を閉じることとなった。彼の操る旗艦は集中砲火を浴びながら突進しフランスの戦列艦に接弦、白兵戦を行いつつ反対側の舷側ではなおも他の敵艦へ向けて片舷斉射を行っていたという。ネルソンを巡る神話はここで、明瞭な輪郭を帯びた伝説となった。一方トラファルガー沖でのフランス側の敗戦と制海権の喪失はナポレオン帝政によるイギリス本土上陸の野望を粉砕し、以降ナポレオンの食指はヨーロッパ東部へと延びていく。
 歴史はかように人間と人間との予期しえぬ連環により進展してきたが、欧州に覇を唱えた人物を生んだ島民の眼差しは至って冷静なものである。このコルシカではナポレオンその人よりも、島の為に生きそして死んだパスカル・パオリの名声のほうが今でもずっと高い。自分たちに何をもたらしたかこそが意味をもつということだ。帝王となった男より、抵抗者であり続けた男を尊ぶ気風。この島自体がそうであるように人間の本質もおそらくは、中世だろうが近代だろうがそう大きく変わることはないのだろう。

corsicasform

 そこまで思考を巡らせたところで、青年は埠頭の先端へとたどり着いた。島のほうを振り返る。海底から山がそのまませり上がるかのように、波を割る急峻な崖の岩肌が直接に峰々へと繋がり、遠く灰雲に霞む山の頂へと通じている。目指す高みがあの霞む彼方にあるとすれば、己の現在地はまさに母なる海原をようやく抜け出たばかりの今ここということになるだろう。そのどこにでもあるような比喩の凡庸さに可笑しくなって、青年はわずかに口角をゆがめた。ようやく二十歳に届こうという年齢のわりに、その笑みはあまりに大人びたものだった。
 コルシカで短い休暇を過ごしたのちスイスでの出稼ぎを終え、国へ戻った彼が社会運動に身を投じるのはこの日より数年後のことである。それから20年近くを経て、世にいうローマ進軍の先頭に彼は立ち、独裁者への道を歩むことになる。名を、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニといった。

 
2008.05.30 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
逆襲の海洋戦闘部族
◆サッサリ, Sassari, Tathari
flagsardinia サルディーニャ島の先史から古代へ至る歴史の大枠をカリアリの回にまとめたので、その続きという感じで。右の画像は現在のイタリア国サルデーニャ特別自治州の州旗である。今回の記事ではこの旗の紋様を起点としたい。
 さて描かれている4人の人物はいずれも同方向へ視線を揃え、白い鉢巻など絞めていかにも気合いが入った様子である。それゆえここに、サルディーニャ島では史上幾度も起きてきた独立闘争における抵抗の魂を読みとるとしてもあながち誤りとは言い切れない。だが直接の由来はまったくの正反対で、元は目隠しをされたムーア人を表した。赤い十字は11世紀に時のローマ教皇から賜与されたものであり、ムーア人らイスラム教徒による侵略からの加護を願ったものである。
 この時期サルディーニャもまたアフリカ沿岸から北上してくるイスラムの抑圧に抗していたが、イベリア半島東端部に発したアラゴン王国が短い間にサルディーニャやシチリアといった西地中海の島々を支配下に収めていけた理由の一つとしては、こうして同じ抑圧の共有があったと言えるだろう。[→link]

 しかし同様にイスラムとカトリックとの綱引きの場となったイベリア半島やシチリアなどと比べると、サルディーニャにイスラムの痕跡を探すことはかなり至難である。平時には宗教上の別よりも即物的な“利”を優先する商人らによる往来が優先されたのがこの一帯の常であったことを考え併せると、これは少し奇妙にも映る。つまりそこには、何らかのサルディーニャに特有の事情が憶測されることになる。端的に言ってしまうなら、ヴァンダル族による蹂躙の過去がそれである。

ruinsardinia

 ヴァンダル族はもともと4世紀の終わり、フン族に追われてヨーロッパ北方から西方に向けて移動を開始したゲルマン人の一派であった。だがライン川を越えてガリアの地へと侵入したのちも、定住の地を巡る争いにおいて同じゲルマン系のフランク族や西ゴート族、さらには土着の民族に対しても敗れ続け、とうとうイベリア半島の南端部へと到ってしまう。ところがこの先はもう土地がないという、まさに土壇場に来て彼らは意外な躍進を見せることになる。造船技術を身につけ、艦隊をもったのである。そしてイベリア半島を支配下に収めんとする西ゴート族による執拗な圧迫から逃れるべく、西暦429年、部族はついにジブラルタル海峡を渡ることを決意する。それはまさに、時の王ガイセリックに率いられたこの部族が海洋戦闘民族へと進化を遂げた瞬間であった。
 それから10年後の439年、北アフリカ沿岸において急速に力をつけたヴァンダル族は、当時の西地中海世界においてローマと並んで最も繁栄していた街の一つ、カルタゴ(現チュニス)へと侵攻する。455年には西ローマ皇帝の後継者争いに乗じてイタリア半島へ上陸、ローマを占拠。このときヴァンダル王国の版図はすでにカルタゴを含むアフリカ北岸一帯に加え、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島を服属させるに至っていた。468年にはヴァンダル族討伐を目的として派遣された東ローマ帝国艦隊を殲滅。これは時のビサンツ皇帝バシリスクスがわずか在位1年で退位を余儀なくされる要因ともなった。

 ところで数十年に渡って内陸を逃亡し続けた彼らヴァンダル族が、どのようにしてこれだけの短期間に島々を圧し東ローマの艦隊を打ち破るだけの海軍力を身に付けたのかについての言及は、一般にあまり為されていないようだ。個人的に探した範囲では「謎に包まれている」という表現以外は皆無であった。それゆえ以下は憶測になるが、理由の半分は彼らの出生にありそうだ。ヴァンダル族の出身は北欧から東欧北部であることが確認されているが、このことから元来の生活環境がのちの時代にはヴァイキングを生んだような洋上技術の発展との親和性が高い土地柄であったと考えられる。そして理由の残り半分は、彼らが飛躍のきっかけをつかんだイベリア半島南端に恐らくある。海洋民族のフェニキア人がこの地に築いた諸港はその後も概ねカルタゴ、ローマへと引き継がれたが、紀元5世紀の古代末期においてこの一帯に依然高い造船技術が保存されていた可能性は高いだろう。素質のある者たちが、技術のある土地を訪れてその才能を開花させたという按配。
 さらに彼らは、カルタゴを首都として王国を開いた。この街の軍港[→link]には、カルタゴがローマの支配下となったポエニ戦争以降も地中海最大の艦隊を擁するに充分なキャパシティが維持されていたから、これを得てヴァンダル族の海軍力は最早盤石の態勢を固めるに至ったはずである。

riversardinia

 しかし洋上の力だけでは己の部族はまとめられても、支配下に置かれた他民族の心がなびくはずもない。事実北アフリカ沿岸において外来のヴァンダル族が土着の人々から急速に支持を集めてローマの支配層を駆逐しえたのは、ガイセリックの軍隊が神の御旗を掲げていたからに他ならない。民族大移動を開始した時彼らゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派を信仰していたが、それはアフリカの北岸域でも広く受容されていた宗派だったのだ。そしてヴァンダル族がその土地に至ったとき、アリウス派はカトリック教会から異端視され迫害、追放という受難のさなかにあった。
 したがってヴァンダル王国による軍事活動は、この地域のアリウス派の人々にとっては己の信仰を賭けた聖戦の意味合いをも兼ね備えたということになる。実際彼らの軍隊は侵攻した異宗派の土地では略奪の限りを尽くし、捕らえた民にはアリウス派への改宗を強く迫った。当時の西地中海沿岸部に生活するカトリックの一般民衆にとって、彼らの存在はいつ海からやってくるかわからない異端の暴虐者そのものとして恐れられたことだろう。
 
 ここで話は思い切り前へと戻るが、現実にヴァンダルによる侵攻と支配を受けたサルディーニャの島民にとって、脅威の源が北アフリカ沿岸にある事態は中世に入っても変わらなかった。カルタゴに居座る‘異端の暴虐者’から、アルジェに巣食う‘異教徒の海賊’へとその頭部で見せる表情を変えることはあっても[→link]、現実に襲ってくる兵士は北アフリカ沿岸のムーア人という心象にずっと変化はなかったと推測できる。公(おおやけ)の旗に目隠しをした敵兵士の首を描くという発想は普通の感覚でいえばあまりに生々しすぎるが、それは所詮意識の深層に刻み込まれた血の記憶を持たない部外者の意見でしかないのだろう。
 ちなみにガイセリックらによるイタリア半島侵攻は示威活動のような側面があり、ローマを開城させると支配下に加えることなく即座に退いたが、このとき行われたローマ市街における破壊略奪行為は、現代の日常生活でもよく使われる“vandalism(公共物の損壊行為、ネット上での荒らし行為etc.)”の語源となった。荒らすだけ荒らして所有せずに去るというニュアンスは、少し可笑しいくらいにそのものだ。記事の小見出しがサッサリである必要性をまったく感じさせないこの開き直りぶりは、我ながらさすがである。もう迷いがない。
 
2008.05.16 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ヌラーゲの宇宙
◆カリアリ, Cagliari, Karalis
cagliari 日本語ではカリャリと表現されることも多いこの地には、天然の良港となる条件のほか東西を近距離で湿地に、中距離で山地に挟まれるという防衛に有利な地勢(右図)も備わっていたことから先史時代より人が住み続けた。西地中海の島々に前インド=ヨーロッパ語族による先史文明の名残りが巨石遺跡として点在することは、バレアレス諸島・パルマの回でも述べた通りである。[→link]
 その後西地中海に到達した海洋民族フェニキア人も、この土地にいち早く目をつけた。紀元前7世紀には彼らによる植民市カラリス(Karalis)が築かれる。街の歴史はこのようにして始まった。

 サルディーニャ島に生きた人々の歴史を一語で表すなら、‘島宇宙’という言葉がふさわしいかもしれない。なにしろこの島はミノア文明を育んだクレタよりも、今日二つの国勢力を島内に抱えるキプロスよりも大きく、また北隣のコルシカ島などとも異なり内陸に十分な平野部を有して大人口を養えたため、島自体が一つの広大な歴史展開の舞台となりえたのだ。しかもシチリア島のごとく殆ど地続きといってもよいほどに絶えずイタリア半島や北アフリカの大勢力に脅かされずに済むくらいには、どの近隣他地域からも距離があった。

Bronzetto この結果古くから多様なルーツをもつ人々が島の各地方に混在する状況が生じたが、その痕跡は現代にも散見できる。たとえばフェニキア語の影響も残すとされるサルディーニャ語は今も島の農村部を中心に話されているが、ほかに島北岸の街サッサリ周辺ではコルシカ語の方言、島西岸の街アルゲーロではアラゴン王国の支配に由来するカタルーニャ語方言、さらにジェノヴァ植民市となった複数の地域ではイタリア語北方方言の一つリグリア語の使用が、高齢層を主な話し手として今日なお確認される。
 またヌラーゲ(Nuraghe)と呼ばれる遺跡群を残した先史時代の人々は、フェニキア人の到来後も内陸に退避する形で長く共生し、徐々に混血化していったと考えられている。遺伝学的な裏付けもあり、今日ではヌラーゲ文明の血を引くことが‘サルディーニャ人’のアイデンティティ形成にも寄与しているらしい。

 当初今回の記事は、ゲルマン系部族のなかでも特異の軌跡を描いて古代後期この地に至ったヴァンダル族の興亡を中心としてまとめる予定だったが、文章量的に無理がありそうなので次回に。代わりといっては何だが、ヌラーゲ遺跡群の造形がなかなか面白かったので、いくつか転載。いずれもwikipediaから。興味があれば詳しくはこちらを[→link]。最近この書き方に慣れたせいか、記事一つあたりの文章量が徐々に伸びる傾向を感じていて、日常的な読み物としてはさすがに長すぎるんじゃないかという気もしてきたので、少しコンパクト化にも注意を払っていこうとぞ思うのであった。
 ともあれエーゲ海やオリエントの古代文明に比して、この地域のそれへの一般における関心は極度に薄い。近年ケルトやヴァイキングなどこれまでややマイナー視されてきた文明・文化圏の文物が静かなブームを呼ぶこともまま見られるようになったが、西地中海の前古代へと光が当たるにはまだ少し時間が要りそうだ。
 それにしてもこの数日の冷え込みよう、これはこれで異常というか異様な気がする。風邪もひいた。

Nuraghe

 
2008.05.14 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ガリア共鳴
◆マルセイユ, Marseille, Μασσαλία
provencegift ‘南仏プロヴァンス’というと、その言葉だけで愛の詩とワインとガーデニングなイメージというか、夢見がちの乙女なムードがムラムラと漂ってくる。日本の場合諸事情により実際に夢見てるのはたいてい乙女でなく有閑マダムなのだけど、昨年には“プロヴァンスの贈り物”(原題“A Good Year”)なんて映画も全国公開されて、いまだこのブームに衰えはないようだ。この作品など、グロテスクで鳴らしたあの“エイリアン”の監督リドリー・スコットが脳まで筋肉だった“グラディエーター”のラッセル・クロウを主演に迎えて完全無欠のラヴロマンスを撮ったなどというものだから、どうしちゃったのご両人とも首をかしげつつ、恥ずかしげもなく一人で上映館へ出かけたのが何を隠そうこの私なのである(照)。いやまあ、期待していたよりいい映画だったけど。
 で。マルセイユは言うまでもなく、そのプロヴァンスの中心都市である。

 なぜプロヴァンスにこうして鼻につくほどの文化的なニュアンスが付随したのかというと、そこには直接的なきっかけとなった仕掛け人や具体的な文物以前の問題として、幾つかの社会的な要因が考えられる。一つには今も昔も文化立国を標榜してきたフランスにおいて、他にない地中海性の風土が強いアクセントとなったこと。二つ目には中世以前のフランスではプロヴァンス地方が紛れもなく文化の最先端地域に属したため、その遺産が心理的にも物理的にも色濃く現代へ余韻を残したこと。そして三つ目。中世の終わりに起きたローマ教皇のアヴィニョン捕囚によって、ルネサンス盛期に至るまでこの地域が現実的にカトリック文化・芸術の中心地となり、学問発展の核となったこと。

 事例の一つとして今回はキリスト教聖歌の展開に着目してみよう。カトリック教会でのミサといえば信徒ならずとも即座にパイプオルガンの調べにのせたグレゴリオ聖歌の響きをイメージするところだろうが、実をいうとこの聖歌の形式が成立したのは意外に新しく、9世紀から10世紀にかけてのフランク王国においてだとされている。キリスト教世界では古くから地方ごとに独自のスタイルをもつ聖歌が歌われてきたが、フランク王国においてガリアの聖歌様式とローマの聖歌様式とが統合されると、大帝国を築いたシャルルマーニュ(カール大帝)はその様式のみを唯一許された聖歌として帝国下への普及を推し進めた。これにより彼の版図である西ヨーロッパ一帯では各地で独自の発展を遂げていた他の様式があらかた淘汰されてしまう。
 ここで少々脇道にそれるが、わずかに残るグレゴリオ聖歌以外の様式例として、イベリア半島のモザラベ聖歌(動画右上)とミラノのアンブロジオ聖歌(動画右下)がある。モザラベ聖歌は‘Mozarabe’の綴りからも推測できるように、イベリア半島においてはアラブ(含ムーア人)の影響が強くローマの権勢が及びにくかったため、アンブロジオ聖歌はミラノの司教区創始者でもある聖アンブロジウス自身の権威のために、各々の様式が結果的に消失をまぬがれた。ちなみに西ヨーロッパ以外のキリスト教会においては当然ながらローマによるこのような抑圧もなかった(または薄かった)ため、多様な聖歌様式が今日もなお維持されている。アフリカン・アメリカンの陽気な合唱や、フィジーの晴天に突き抜けるような歌声を想起するのもいいだろう。

 ともあれ単旋律、無伴奏のグレゴリオ聖歌は、そのストイックに研ぎ澄まされた形式ゆえにのちのヨーロッパにおける絢爛たるクラシック音楽の展開に絶えず霊感を与え続けたが、その発生源がフランク王国内であったことは必ずしも政治的な事情によるばかりでは恐らくない。というのも続く11世紀にもプロヴァンスではトルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちによる叙情歌の形式が生まれ、12世紀には北フランスをへて広く西ヨーロッパに普及するなど、現代風に言うならばモードの発信地のような役割を果たし続けたからだ。その動力源となったのが、地中海を介した異邦からの文化流入であったことは当ブログでこれまでに述べた通りである。
 トルバドゥールは騎士と貴婦人の禁欲的な愛を歌い新たな宮廷恋愛の作法を生みだしたが、たとえばこのとき育まれた愛のモティーフは東でのちのペトラルカに、またこうして磨かれた騎士道のモデルは西でのちのセルバンテスに影響を与え、やがて北のシェイクスピアらを通じて実り大きなヨーロッパ近世文学の系譜へと連なっていくことになる。

 さて伝説は街としてのマルセイユの発祥をこう伝えている。ある朝、エーゲ海を発したフォカイア人の船団が地中海北西部のとある入り江にたどり着き、土着民の首長を訪問した。折しもその日は首長の娘の婿選びを行う祝祭日であったが、いざ婿を決める段になると娘ジプティスは同族の屈強な男たちには目もくれず、なんとフォカイア人の若きプロティスを指差した。こうして決まった二人の結婚が、マッサリアの街の発端となった、と。
 マッサリア(Massilia, Μασσαλία)はマルセイユの古名だが、伝説の時代から返すがえすもこの街は、地中海とガリアの大地という二つの広大な世界の結節点を演じ続けてきた土地なのだ。

 以下は余談。右の動画は、現代的な手法によりグレゴリオ聖歌を直接の音源として使用した一作例。教授の中の人は中学時代からこの手の音楽ばかりを聴く偏屈者へと道を踏み外し始めたが、とりわけEnigmaに関しては当時付き合っていた恋人をして、BGMにいつもこの曲が流れているような人間と評さしめた過去があるだけに感慨もさらに深い。さらに深いのだが実を言うとこのPVは今回が初見で、そのストーリー性を感じさせる出来映えに少し驚いた。
 執筆中の主人公は夢魔に襲われ、気づくと修道士の姿となって廃墟の教会をさまよっている。そして廃墟の暗がりに地獄の門の存在をみとめると、注意深く門前へと足を踏み入れる。突如脳裡を襲う劣情の翳りにしばし戸惑い、扉を開くべきか否かを逡巡したのち、あらためて軽く門扉へと手を触れる。すると見るからに重たげな鉄扉はいとも簡単に間口を開け、その奥にのぞいたものは。

 この映像の冒頭部における、闇に注ぐ斜め上方からの光の構図は恐らくカラヴァッジョを意識したものだろう。より直截には“執筆する聖ヒエロニムス”[1606,右下図]を強く連想させる。カラヴァッジョを巡ってはその破天荒な生き様に引きずられてどうしてもセンセーショナルなイメージばかりが先行してしまいがちだが、純粋に作品の質的な面からみても、いまだ一般に正当な評価を得るには至っていない画家である。このことはベラスケスやレンブラント、フェルメールといった光と闇の魔術師と畏怖される巨匠たちのいずれもが、彼らのほぼ半世紀前を生きたカラヴァッジョの作品群に少なからぬ影響を直に受けているという一点のみをとっても明白なことだと言える。
girolamocarabaggio PVに映し出される主人公の青年は描かれた聖ヒエロニムスに比べてかなり卑近な煩悩に捉われている観もあるが、己の暗部を突き放すのではなく丸ごと呑み込もうとするそのような態度こそがカラヴァッジョの真髄ともいえ、またこのPVの指し示す結末にもつながるようにどこか思える。こうして考え巡らせるとそれはまた、陽光に溢れてフランス北部とは異なる性質をもったオクシタニアの東端に位置し、ブルゴーニュの深い森へもアルプスを背にしたイタリア・ロンバルディア地方へもそう遠くないプロヴァンスの土地が必然的に抱え込まざるを得なかっただろう、相矛盾する諸物に対する鷹揚さ、おおらかさにも重なって見えてくる。
 
2008.05.10 * 西地中海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
       
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