◆サッサリ, Sassari, Tathari
サルディーニャ島の先史から古代へ至る歴史の大枠をカリアリの回にまとめたので、その続きという感じで。右の画像は現在のイタリア国サルデーニャ特別自治州の州旗である。今回の記事ではこの旗の紋様を起点としたい。
さて描かれている4人の人物はいずれも同方向へ視線を揃え、白い鉢巻など絞めていかにも気合いが入った様子である。それゆえここに、サルディーニャ島では史上幾度も起きてきた独立闘争における抵抗の魂を読みとるとしてもあながち誤りとは言い切れない。だが直接の由来はまったくの正反対で、元は目隠しをされたムーア人を表した。赤い十字は11世紀に時のローマ教皇から賜与されたものであり、ムーア人らイスラム教徒による侵略からの加護を願ったものである。
この時期サルディーニャもまたアフリカ沿岸から北上してくるイスラムの抑圧に抗していたが、イベリア半島東端部に発したアラゴン王国が短い間にサルディーニャやシチリアといった西地中海の島々を支配下に収めていけた理由の一つとしては、こうして同じ抑圧の共有があったと言えるだろう。[→link]
しかし同様にイスラムとカトリックとの綱引きの場となったイベリア半島やシチリアなどと比べると、サルディーニャにイスラムの痕跡を探すことはかなり至難である。平時には宗教上の別よりも即物的な“利”を優先する商人らによる往来が優先されたのがこの一帯の常であったことを考え併せると、これは少し奇妙にも映る。つまりそこには、何らかのサルディーニャに特有の事情が憶測されることになる。端的に言ってしまうなら、ヴァンダル族による蹂躙の過去がそれである。

ヴァンダル族はもともと4世紀の終わり、フン族に追われてヨーロッパ北方から西方に向けて移動を開始したゲルマン人の一派であった。だがライン川を越えてガリアの地へと侵入したのちも、定住の地を巡る争いにおいて同じゲルマン系のフランク族や西ゴート族、さらには土着の民族に対しても敗れ続け、とうとうイベリア半島の南端部へと到ってしまう。ところがこの先はもう土地がないという、まさに土壇場に来て彼らは意外な躍進を見せることになる。造船技術を身につけ、艦隊をもったのである。そしてイベリア半島を支配下に収めんとする西ゴート族による執拗な圧迫から逃れるべく、西暦429年、部族はついにジブラルタル海峡を渡ることを決意する。それはまさに、時の王ガイセリックに率いられたこの部族が海洋戦闘民族へと進化を遂げた瞬間であった。
それから10年後の439年、北アフリカ沿岸において急速に力をつけたヴァンダル族は、当時の西地中海世界においてローマと並んで最も繁栄していた街の一つ、カルタゴ(現チュニス)へと侵攻する。455年には西ローマ皇帝の後継者争いに乗じてイタリア半島へ上陸、ローマを占拠。このときヴァンダル王国の版図はすでにカルタゴを含むアフリカ北岸一帯に加え、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島を服属させるに至っていた。468年にはヴァンダル族討伐を目的として派遣された東ローマ帝国艦隊を殲滅。これは時のビサンツ皇帝バシリスクスがわずか在位1年で退位を余儀なくされる要因ともなった。
ところで数十年に渡って内陸を逃亡し続けた彼らヴァンダル族が、どのようにしてこれだけの短期間に島々を圧し東ローマの艦隊を打ち破るだけの海軍力を身に付けたのかについての言及は、一般にあまり為されていないようだ。個人的に探した範囲では「謎に包まれている」という表現以外は皆無であった。それゆえ以下は憶測になるが、理由の半分は彼らの出生にありそうだ。ヴァンダル族の出身は北欧から東欧北部であることが確認されているが、このことから元来の生活環境がのちの時代にはヴァイキングを生んだような洋上技術の発展との親和性が高い土地柄であったと考えられる。そして理由の残り半分は、彼らが一時を過ごしたイベリア半島南端に恐らくある。海洋民族のフェニキア人がこの地に築いた諸港はその後も概ねカルタゴ、ローマへと引き継がれたが、紀元5世紀の古代末期においてこの一帯に依然高い造船技術が保存されていた可能性は高いだろう。素質のある者たちが、技術のある土地を訪れたという按配。
さらに彼らは、カルタゴを首都として王国を開いた。この街の軍港[→link]には、カルタゴがローマの支配下となったポエニ戦争以降も地中海最大の艦隊を擁するに充分なキャパシティが維持されていたから、これを得てヴァンダル族の海軍力は最早盤石の態勢を固めるに至ったはずである。

しかし洋上の力だけでは己の部族はまとめられても、支配下に置かれた他民族の心がなびくはずもない。事実北アフリカ沿岸において外来のヴァンダル族が土着の人々から急速に支持を集めてローマの支配層を駆逐しえたのは、ガイセリックの軍隊が神の御旗を掲げていたからに他ならない。民族大移動を開始した時彼らゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派を信仰していたが、それはアフリカの北岸域でも広く受容されていた宗派だったのだ。そしてヴァンダル族がその土地に至ったとき、アリウス派はカトリック教会から異端視され迫害、追放という受難のさなかにあった。
したがってヴァンダル王国による軍事活動は、この地域のアリウス派の人々にとっては己の信仰を賭けた聖戦の意味合いをも兼ね備えたということになる。実際彼らの軍隊は侵攻した異宗派の土地では略奪の限りを尽くし、捕らえた民にはアリウス派への改宗を強く迫った。当時の西地中海沿岸部に生活するカトリックの一般民衆にとって、彼らの存在はいつ海からやってくるかわからない異端の暴虐者そのものとして恐れられたことだろう。
ここで話は思い切り前へと戻るが、現実にヴァンダルによる侵攻と支配を受けたサルディーニャの島民にとって、脅威の源が北アフリカ沿岸にある事態は中世に入っても変わらなかった。カルタゴに居座る‘異端の暴虐者’から、アルジェに巣食う‘異教徒の海賊’へとその頭部で見せる表情を変えることはあっても[→link]、現実に襲ってくる兵士は北アフリカ沿岸のムーア人という心象にずっと変化はなかったと推測できる。公(おおやけ)の旗に目隠しをした敵の首を描くという発想は現代の感覚でいえばあまりに生々しすぎるが、それは所詮意識の深層に刻み込まれた血の記憶を持たない部外者の意見でしかないのだろう。
ちなみにガイセリックらによるイタリア半島侵攻は示威活動のような側面があり、ローマを開城させると支配下に加えることなく即座に退いたが、このとき行われたローマ市街における破壊略奪行為は、現代の日常生活でもよく使われる“vandalism(公共物の損壊行為、ネット上での荒らし行為etc.)”の語源となった。荒らすだけ荒らして所有せずに去るというニュアンスは、少し可笑しいくらいにそのものだ。記事の小見出しがサッサリである必要性をまったく感じさせないこの開き直りぶりは、我ながらさすがである。もう迷いがない。
サルディーニャ島の先史から古代へ至る歴史の大枠をカリアリの回にまとめたので、その続きという感じで。右の画像は現在のイタリア国サルデーニャ特別自治州の州旗である。今回の記事ではこの旗の紋様を起点としたい。さて描かれている4人の人物はいずれも同方向へ視線を揃え、白い鉢巻など絞めていかにも気合いが入った様子である。それゆえここに、サルディーニャ島では史上幾度も起きてきた独立闘争における抵抗の魂を読みとるとしてもあながち誤りとは言い切れない。だが直接の由来はまったくの正反対で、元は目隠しをされたムーア人を表した。赤い十字は11世紀に時のローマ教皇から賜与されたものであり、ムーア人らイスラム教徒による侵略からの加護を願ったものである。
この時期サルディーニャもまたアフリカ沿岸から北上してくるイスラムの抑圧に抗していたが、イベリア半島東端部に発したアラゴン王国が短い間にサルディーニャやシチリアといった西地中海の島々を支配下に収めていけた理由の一つとしては、こうして同じ抑圧の共有があったと言えるだろう。[→link]
しかし同様にイスラムとカトリックとの綱引きの場となったイベリア半島やシチリアなどと比べると、サルディーニャにイスラムの痕跡を探すことはかなり至難である。平時には宗教上の別よりも即物的な“利”を優先する商人らによる往来が優先されたのがこの一帯の常であったことを考え併せると、これは少し奇妙にも映る。つまりそこには、何らかのサルディーニャに特有の事情が憶測されることになる。端的に言ってしまうなら、ヴァンダル族による蹂躙の過去がそれである。

ヴァンダル族はもともと4世紀の終わり、フン族に追われてヨーロッパ北方から西方に向けて移動を開始したゲルマン人の一派であった。だがライン川を越えてガリアの地へと侵入したのちも、定住の地を巡る争いにおいて同じゲルマン系のフランク族や西ゴート族、さらには土着の民族に対しても敗れ続け、とうとうイベリア半島の南端部へと到ってしまう。ところがこの先はもう土地がないという、まさに土壇場に来て彼らは意外な躍進を見せることになる。造船技術を身につけ、艦隊をもったのである。そしてイベリア半島を支配下に収めんとする西ゴート族による執拗な圧迫から逃れるべく、西暦429年、部族はついにジブラルタル海峡を渡ることを決意する。それはまさに、時の王ガイセリックに率いられたこの部族が海洋戦闘民族へと進化を遂げた瞬間であった。
それから10年後の439年、北アフリカ沿岸において急速に力をつけたヴァンダル族は、当時の西地中海世界においてローマと並んで最も繁栄していた街の一つ、カルタゴ(現チュニス)へと侵攻する。455年には西ローマ皇帝の後継者争いに乗じてイタリア半島へ上陸、ローマを占拠。このときヴァンダル王国の版図はすでにカルタゴを含むアフリカ北岸一帯に加え、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島を服属させるに至っていた。468年にはヴァンダル族討伐を目的として派遣された東ローマ帝国艦隊を殲滅。これは時のビサンツ皇帝バシリスクスがわずか在位1年で退位を余儀なくされる要因ともなった。
ところで数十年に渡って内陸を逃亡し続けた彼らヴァンダル族が、どのようにしてこれだけの短期間に島々を圧し東ローマの艦隊を打ち破るだけの海軍力を身に付けたのかについての言及は、一般にあまり為されていないようだ。個人的に探した範囲では「謎に包まれている」という表現以外は皆無であった。それゆえ以下は憶測になるが、理由の半分は彼らの出生にありそうだ。ヴァンダル族の出身は北欧から東欧北部であることが確認されているが、このことから元来の生活環境がのちの時代にはヴァイキングを生んだような洋上技術の発展との親和性が高い土地柄であったと考えられる。そして理由の残り半分は、彼らが一時を過ごしたイベリア半島南端に恐らくある。海洋民族のフェニキア人がこの地に築いた諸港はその後も概ねカルタゴ、ローマへと引き継がれたが、紀元5世紀の古代末期においてこの一帯に依然高い造船技術が保存されていた可能性は高いだろう。素質のある者たちが、技術のある土地を訪れたという按配。
さらに彼らは、カルタゴを首都として王国を開いた。この街の軍港[→link]には、カルタゴがローマの支配下となったポエニ戦争以降も地中海最大の艦隊を擁するに充分なキャパシティが維持されていたから、これを得てヴァンダル族の海軍力は最早盤石の態勢を固めるに至ったはずである。

しかし洋上の力だけでは己の部族はまとめられても、支配下に置かれた他民族の心がなびくはずもない。事実北アフリカ沿岸において外来のヴァンダル族が土着の人々から急速に支持を集めてローマの支配層を駆逐しえたのは、ガイセリックの軍隊が神の御旗を掲げていたからに他ならない。民族大移動を開始した時彼らゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派を信仰していたが、それはアフリカの北岸域でも広く受容されていた宗派だったのだ。そしてヴァンダル族がその土地に至ったとき、アリウス派はカトリック教会から異端視され迫害、追放という受難のさなかにあった。
したがってヴァンダル王国による軍事活動は、この地域のアリウス派の人々にとっては己の信仰を賭けた聖戦の意味合いをも兼ね備えたということになる。実際彼らの軍隊は侵攻した異宗派の土地では略奪の限りを尽くし、捕らえた民にはアリウス派への改宗を強く迫った。当時の西地中海沿岸部に生活するカトリックの一般民衆にとって、彼らの存在はいつ海からやってくるかわからない異端の暴虐者そのものとして恐れられたことだろう。
ここで話は思い切り前へと戻るが、現実にヴァンダルによる侵攻と支配を受けたサルディーニャの島民にとって、脅威の源が北アフリカ沿岸にある事態は中世に入っても変わらなかった。カルタゴに居座る‘異端の暴虐者’から、アルジェに巣食う‘異教徒の海賊’へとその頭部で見せる表情を変えることはあっても[→link]、現実に襲ってくる兵士は北アフリカ沿岸のムーア人という心象にずっと変化はなかったと推測できる。公(おおやけ)の旗に目隠しをした敵の首を描くという発想は現代の感覚でいえばあまりに生々しすぎるが、それは所詮意識の深層に刻み込まれた血の記憶を持たない部外者の意見でしかないのだろう。
ちなみにガイセリックらによるイタリア半島侵攻は示威活動のような側面があり、ローマを開城させると支配下に加えることなく即座に退いたが、このとき行われたローマ市街における破壊略奪行為は、現代の日常生活でもよく使われる“vandalism(公共物の損壊行為、ネット上での荒らし行為etc.)”の語源となった。荒らすだけ荒らして所有せずに去るというニュアンスは、少し可笑しいくらいにそのものだ。記事の小見出しがサッサリである必要性をまったく感じさせないこの開き直りぶりは、我ながらさすがである。もう迷いがない。