◆モンペリエ, Montpellier, Montpelhièr
ヨーロッパという事象を遙か遠方からの眼差しによってとらえる私たちは、えてしてフランスやイギリス、スペイン等といくつかの要素に分けて考えるきらいがある。各要素はそれぞれに固有の色合いと履歴をもち、その実相は互いに相異なる、というように。そしてそのようにみなしたとき、どうしても要素間の差異のみを過大視しがちになってしまう。だがこれが根本的に誤謬であることは、国であればその国の歴史を眺めることにより直ちに了解できる。フランスの場合、南部オクシタニアの歴史ほどそれに相応しい事例はない。
中世フランス南部の中心都市トゥールーズの起源は古代ケルト人にさかのぼる。街のケルト名トロサは、北部パリのフランス王朝による13世紀の実効支配に至るまで公式にも存続した。このトロサを中心として、東はマルセイユ・モンペリエから西はボルドーまでに影響力をもったのがオック語を話す人々による、いわゆるオクシタニア文化圏であった。古代ローマ帝国崩壊後の地中海世界において文化・文明の成熟度が南高北低の状態を長く維持したことはこれまでにも見てきた通りだが、それは現在のフランスに相当する地域内においても同様だった。フランス王朝の首都パリがまだシテ島周辺にようやく城下町を形成しはじめた頃、高度に発達した社会制度を抱えたイベリア半島にほど近いトロサはすでに大規模な交易都市を築いていた。
オック語はフランス北部のオイル語(現在のフランス語)よりも様々な面でカタルーニャ語に近いとされるから、このことも相対的なオクシタニア繁栄の一因であったろう。殊にモンペリエをはじめとする地中海沿岸部は古来よりアラブ世界との交易も盛んであり、またフランス王国が強勢を誇り始めてからも長くバルセロナに本拠を置くアラゴン王国の支配下であったこともある。それゆえドーバー海峡を隔てたブリテン島勢力との抗争こそが焦眉の課題であり続けたフランス北部に成立した王国とは、気候風土から文化・言語、交易の形態までもすべてが違う‘異国’であった。このことを下地として、13世紀オクシタニアを大規模な戦役が襲うことになる。
世に言う、アルビジョア十字軍の侵攻である。
この十字軍はオクシタニアにはびこる異端の徒‘カタリ派’の撲滅を大義とした。しかしたとえば十字軍最初の攻撃対象となったオクシタニア東部モンペリエ近郊の町ペジェにおいては1万人を超える人々が虐殺の犠牲となったが、うちカタリ派信徒はわずかに500名だったとも200名だったとも言われている。またこの戦役を契機としてフランス王朝がオクシタニアを領土に加えたことからも明らかなように、掲げられた大義と実際の思惑との間に相当の距離があったことは疑いようがない。
フランス王家を実力的に凌ぐとも見られたトロサ伯家はこの戦役によって没落を余儀なくされるが、その過程では当時ボルドーを支配下に置いていたイングランドや東のドイツ神聖ローマ帝国、南のアラゴン王国と連携し対フランス大同盟の結成をも画策した。これはフランス王家にとって異端撲滅が、到来しうる窮地に備えローマ教皇を味方につけるための餌に他ならなかったとする所以でもある。
たしかにカタリ派は存在した。だがローマを頂点とするカトリックの教会組織にとって彼らが異端の徒であったのとまさに同じ意味で、カタリ派の論理によれば腐敗したカトリックの教会組織こそが悪魔の象徴そのものだった。今日では悪名高いカトリック世界における異端審問官の制度はカタリ派との抗争のなかで登場したものだが、そもそもカタリ派自体がカトリック聖職者の汚職や堕落への反対運動として興隆した経緯も見過ごされてはならないだろう。この面ではのちのプロテスタントによる宗教改革にも直に通じるものがある。
そういえば来たる大航海時代において、カトリック教会はプロテスタント運動による失地を中南米やアジアへの布教活動によって回復しようと試みたが、この時最前線の一翼を説教者修道会、通称ドミニコ会が担っていた。そのドミニコ会の創始者ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセスは、まさにアルビジョア十字軍が到来する直前のオクシタニアにおいて孤高の足跡を残した修道士であった。堕落した教会組織とは一線を画したカトリックの本領を説く者として、一人街角に立ったのである。
現在のモンペリエは、カトリックの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のスタート地点としても知られているが、ピレネー山脈を抜けて長く東西に横たわる巡礼路の歴史は遠く10世紀までさかのぼる。巡礼路の整備がイベリア半島においてはレコンキスタの展開と、ピレネー山脈以北においてはカタリ派との抗争と連動して進められたことは想像に難くない。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに祀られる十二使徒の一人聖ヤコブは、レコンキスタの気運高まるなかで‘ムーア人殺しのヤコブ(Santiago matamoros)’の異名で呼ばれたという。異端審問官の任に就くことの多かったドミニコ会士が庶民から恐れられ、‘イエスの番犬(Domini canis)’と名指されたのにどこか似ている。いずれにしてもなんと皮肉な呼び名だろう、と思えるのは気のせいか。
ヨーロッパという事象を遙か遠方からの眼差しによってとらえる私たちは、えてしてフランスやイギリス、スペイン等といくつかの要素に分けて考えるきらいがある。各要素はそれぞれに固有の色合いと履歴をもち、その実相は互いに相異なる、というように。そしてそのようにみなしたとき、どうしても要素間の差異のみを過大視しがちになってしまう。だがこれが根本的に誤謬であることは、国であればその国の歴史を眺めることにより直ちに了解できる。フランスの場合、南部オクシタニアの歴史ほどそれに相応しい事例はない。
中世フランス南部の中心都市トゥールーズの起源は古代ケルト人にさかのぼる。街のケルト名トロサは、北部パリのフランス王朝による13世紀の実効支配に至るまで公式にも存続した。このトロサを中心として、東はマルセイユ・モンペリエから西はボルドーまでに影響力をもったのがオック語を話す人々による、いわゆるオクシタニア文化圏であった。古代ローマ帝国崩壊後の地中海世界において文化・文明の成熟度が南高北低の状態を長く維持したことはこれまでにも見てきた通りだが、それは現在のフランスに相当する地域内においても同様だった。フランス王朝の首都パリがまだシテ島周辺にようやく城下町を形成しはじめた頃、高度に発達した社会制度を抱えたイベリア半島にほど近いトロサはすでに大規模な交易都市を築いていた。オック語はフランス北部のオイル語(現在のフランス語)よりも様々な面でカタルーニャ語に近いとされるから、このことも相対的なオクシタニア繁栄の一因であったろう。殊にモンペリエをはじめとする地中海沿岸部は古来よりアラブ世界との交易も盛んであり、またフランス王国が強勢を誇り始めてからも長くバルセロナに本拠を置くアラゴン王国の支配下であったこともある。それゆえドーバー海峡を隔てたブリテン島勢力との抗争こそが焦眉の課題であり続けたフランス北部に成立した王国とは、気候風土から文化・言語、交易の形態までもすべてが違う‘異国’であった。このことを下地として、13世紀オクシタニアを大規模な戦役が襲うことになる。
世に言う、アルビジョア十字軍の侵攻である。
この十字軍はオクシタニアにはびこる異端の徒‘カタリ派’の撲滅を大義とした。しかしたとえば十字軍最初の攻撃対象となったオクシタニア東部モンペリエ近郊の町ペジェにおいては1万人を超える人々が虐殺の犠牲となったが、うちカタリ派信徒はわずかに500名だったとも200名だったとも言われている。またこの戦役を契機としてフランス王朝がオクシタニアを領土に加えたことからも明らかなように、掲げられた大義と実際の思惑との間に相当の距離があったことは疑いようがない。
フランス王家を実力的に凌ぐとも見られたトロサ伯家はこの戦役によって没落を余儀なくされるが、その過程では当時ボルドーを支配下に置いていたイングランドや東のドイツ神聖ローマ帝国、南のアラゴン王国と連携し対フランス大同盟の結成をも画策した。これはフランス王家にとって異端撲滅が、到来しうる窮地に備えローマ教皇を味方につけるための餌に他ならなかったとする所以でもある。
たしかにカタリ派は存在した。だがローマを頂点とするカトリックの教会組織にとって彼らが異端の徒であったのとまさに同じ意味で、カタリ派の論理によれば腐敗したカトリックの教会組織こそが悪魔の象徴そのものだった。今日では悪名高いカトリック世界における異端審問官の制度はカタリ派との抗争のなかで登場したものだが、そもそもカタリ派自体がカトリック聖職者の汚職や堕落への反対運動として興隆した経緯も見過ごされてはならないだろう。この面ではのちのプロテスタントによる宗教改革にも直に通じるものがある。そういえば来たる大航海時代において、カトリック教会はプロテスタント運動による失地を中南米やアジアへの布教活動によって回復しようと試みたが、この時最前線の一翼を説教者修道会、通称ドミニコ会が担っていた。そのドミニコ会の創始者ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセスは、まさにアルビジョア十字軍が到来する直前のオクシタニアにおいて孤高の足跡を残した修道士であった。堕落した教会組織とは一線を画したカトリックの本領を説く者として、一人街角に立ったのである。
現在のモンペリエは、カトリックの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のスタート地点としても知られているが、ピレネー山脈を抜けて長く東西に横たわる巡礼路の歴史は遠く10世紀までさかのぼる。巡礼路の整備がイベリア半島においてはレコンキスタの展開と、ピレネー山脈以北においてはカタリ派との抗争と連動して進められたことは想像に難くない。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに祀られる十二使徒の一人聖ヤコブは、レコンキスタの気運高まるなかで‘ムーア人殺しのヤコブ(Santiago matamoros)’の異名で呼ばれたという。異端審問官の任に就くことの多かったドミニコ会士が庶民から恐れられ、‘イエスの番犬(Domini canis)’と名指されたのにどこか似ている。いずれにしてもなんと皮肉な呼び名だろう、と思えるのは気のせいか。