◆マラガ, Málaga, مالقة
カナンの地を発した古代の海洋民族フェニキア人は“ヘラクレスの柱”に達したことで、その後の歴史展開において地中海世界をひとまとまりの圏域としていわばフォーマットする役割を果たしたが、マラガは彼らによって築かれ栄えた、イベリア半島における最も初期の港の一つである。

交易を生業としたフェニキアの民は当初シドンやティルスといった地中海東端の本拠地近隣で産する物資を商ったが、やがて港市がアッシリアなど外来勢力の支配下に置かれると、特にレバノン山脈下の鉱山群から採掘していた各種金属の需要が帝国の版図拡大に比例して増大した。そこで新たな供給源を求めて西方へと目を向けた結果、カルタゴを経てイベリア半島の鉱山群にその活路を見出すことになる。スペインの鉱業は現代でも世界有数の規模を誇り、世界市場を形成する鉱物のほぼ全種が国内に存在するとも言われている。その大半がイベリア半島南端部を走るネバダ山脈やセビリア北方のモレーナ山脈に集中するから、この一帯に開かれた交易港が早くから繁栄したのも自明の理といえるだろう。‘マラガ’の名は古代フェニキアの言葉で塩を意味する‘マラカ’に由来し、この港で魚が塩漬けにされたことによるという。この場合の塩とは主に岩塩を指すが、考えてみると岩塩もまた立派な鉱物に類している。

ところでフェニキア人の時代カルタゴとイベリア半島の港をつないだのが北アフリカ沿岸ルートであることは前回にも述べた通りだが、中世の始め、まったく同じルートを辿って新たな思潮がこの地域を一色に染め上げてゆくことになる。イスラムの興隆がそれである。とりわけイベリア半島においては、アブド・アッラフマーン1世による半島のイスラム勢力統一と侵入したフランク王国軍の撃退によって基礎の固まった後ウマイヤ朝下での学芸の発展が目覚ましく、この発展がのちのヨーロッパ世界に寄与した影響の底知れなさについて疑義を唱えることは殆ど不可能とすら言える。イスラムの興隆についての記述がヨーロッパ世界への言及に帰結するこの物言いはイマイチこなれた感じがしないかもしれないが、現実的に考えればむしろその違和感にこそ両者を無前提に‘別モノ’と捉えてしまう先入観の息吹が聴き取れる。たとえばシャルルマーニュ率いるフランク王国の軍隊がピレネー山脈以南に侵入したのはサラゴサ(イベリア半島北東部の都市)のアミール(イスラムにおける首長の意)が後ウマイア朝に抵抗して発した援軍要請がきっかけとなっていて、ある立場をとれば異教徒の軍隊を招き入れるなど無節操にもほどがあるということになるけれど、その立場とは果たして万人を納得させるほどのものなのか、あらためて考えるとよくわからなくなる。

そういえば中世スペインの英雄エル・シドは、時代的な文脈からレコンキスタの騎士として描かれる一方で、イスラム世界での信望も厚かった。中世イベリア半島の中枢都市コルドバはマドリッドがまだ村でパリがようやく4万の人口を数えた時代に50万の人々を養う大都市となったが、そこではイスラム教徒に限らず多くのキリスト教徒やユダヤ教徒もまた文化の振興や学術の発展に直に携わっていた。アルジェの回でハイレディンの後継者にはキリスト教やユダヤ出身の海賊も多くいたことに触れたが、逆に中世のキリスト教勢力においてイスラム出身の軍人が指揮官の地位にまで昇る例がどれほどあったかを考えると、どちらが閉鎖的もしくは陰険な社会であったのかも、必ずしも世間で流布されているイメージの通りではないことが見えてくる。シャルルマーニュが行ったスペイン遠征は古フランス語による叙事詩“ローランの歌”のモデルとなったが、ここで主人公ローランを敗死させたのは結局味方内の怨恨による謀略だった。のちの中世ヨーロッパ社会はこれを十字軍の応援歌としたが、よってイスラムの側から見れば惨めな自滅の歌にも聴こえそうではある。こう書くと一方へ無闇に肩入れしているように映るかもしれないが、そこらへんは半ば自覚的にやっている。根拠の薄さについてはフェアだろうと感じる範囲で逆の立場をとってみる、というだけの話として。

画像1枚目はマラガのアルカサバ。アラブ人のつくった中世の城塞は一般にカスバ(qasbah, قصب)と呼ばれるが、スペインにおける通称はアルカサバ(Alcazaba)となる。アラビア語の定冠詞‘al’が付いた‘al-qasbah, القصبة’のまま一般名詞化したのだろう(たぶん)。グラナダのアルハンブラ宮殿外壁とよく似た外観だが実際ほぼ同時代に同じ構造、材質により建てられた。画像の2枚目はコルドバのメスキータ内観。メスキータはアラビア語の‘masjid, مسجد ’に由来しスペイン語でモスクを意味するが、固有名詞的にコルドバのそれを指すことが多い。3枚目はそのメスキータの外壁。最後の画像(直上)はアルハンブラ宮殿内・二姉妹の間(Sala de las Dos Hermanas)の天井を彩る鍾乳石飾り。マラガの記事に近隣とはいえコルドバやグラナダの写真を含めるのは微妙といえば微妙だが、スペインのイスラム文化に焦点を当てた記事を別に立てる心積りも現状ないので、一応ここで軽くまとめたものとしてお許し願いたい。ってモニターに向かって許しを請う自分もおかしなものだけど、いやこれは読者であるあなたに請うている。でも受話器を耳にあてたままお辞儀してるひとってたまにいるよね、あんな気分かもしれず。って頭さげてはいないんだけど。遺された史料によると、何でもいいから最後にオチをつけないと気が済まないのが2008年春の流行様式であったらしい。
カナンの地を発した古代の海洋民族フェニキア人は“ヘラクレスの柱”に達したことで、その後の歴史展開において地中海世界をひとまとまりの圏域としていわばフォーマットする役割を果たしたが、マラガは彼らによって築かれ栄えた、イベリア半島における最も初期の港の一つである。

交易を生業としたフェニキアの民は当初シドンやティルスといった地中海東端の本拠地近隣で産する物資を商ったが、やがて港市がアッシリアなど外来勢力の支配下に置かれると、特にレバノン山脈下の鉱山群から採掘していた各種金属の需要が帝国の版図拡大に比例して増大した。そこで新たな供給源を求めて西方へと目を向けた結果、カルタゴを経てイベリア半島の鉱山群にその活路を見出すことになる。スペインの鉱業は現代でも世界有数の規模を誇り、世界市場を形成する鉱物のほぼ全種が国内に存在するとも言われている。その大半がイベリア半島南端部を走るネバダ山脈やセビリア北方のモレーナ山脈に集中するから、この一帯に開かれた交易港が早くから繁栄したのも自明の理といえるだろう。‘マラガ’の名は古代フェニキアの言葉で塩を意味する‘マラカ’に由来し、この港で魚が塩漬けにされたことによるという。この場合の塩とは主に岩塩を指すが、考えてみると岩塩もまた立派な鉱物に類している。

ところでフェニキア人の時代カルタゴとイベリア半島の港をつないだのが北アフリカ沿岸ルートであることは前回にも述べた通りだが、中世の始め、まったく同じルートを辿って新たな思潮がこの地域を一色に染め上げてゆくことになる。イスラムの興隆がそれである。とりわけイベリア半島においては、アブド・アッラフマーン1世による半島のイスラム勢力統一と侵入したフランク王国軍の撃退によって基礎の固まった後ウマイヤ朝下での学芸の発展が目覚ましく、この発展がのちのヨーロッパ世界に寄与した影響の底知れなさについて疑義を唱えることは殆ど不可能とすら言える。イスラムの興隆についての記述がヨーロッパ世界への言及に帰結するこの物言いはイマイチこなれた感じがしないかもしれないが、現実的に考えればむしろその違和感にこそ両者を無前提に‘別モノ’と捉えてしまう先入観の息吹が聴き取れる。たとえばシャルルマーニュ率いるフランク王国の軍隊がピレネー山脈以南に侵入したのはサラゴサ(イベリア半島北東部の都市)のアミール(イスラムにおける首長の意)が後ウマイア朝に抵抗して発した援軍要請がきっかけとなっていて、ある立場をとれば異教徒の軍隊を招き入れるなど無節操にもほどがあるということになるけれど、その立場とは果たして万人を納得させるほどのものなのか、あらためて考えるとよくわからなくなる。

そういえば中世スペインの英雄エル・シドは、時代的な文脈からレコンキスタの騎士として描かれる一方で、イスラム世界での信望も厚かった。中世イベリア半島の中枢都市コルドバはマドリッドがまだ村でパリがようやく4万の人口を数えた時代に50万の人々を養う大都市となったが、そこではイスラム教徒に限らず多くのキリスト教徒やユダヤ教徒もまた文化の振興や学術の発展に直に携わっていた。アルジェの回でハイレディンの後継者にはキリスト教やユダヤ出身の海賊も多くいたことに触れたが、逆に中世のキリスト教勢力においてイスラム出身の軍人が指揮官の地位にまで昇る例がどれほどあったかを考えると、どちらが閉鎖的もしくは陰険な社会であったのかも、必ずしも世間で流布されているイメージの通りではないことが見えてくる。シャルルマーニュが行ったスペイン遠征は古フランス語による叙事詩“ローランの歌”のモデルとなったが、ここで主人公ローランを敗死させたのは結局味方内の怨恨による謀略だった。のちの中世ヨーロッパ社会はこれを十字軍の応援歌としたが、よってイスラムの側から見れば惨めな自滅の歌にも聴こえそうではある。こう書くと一方へ無闇に肩入れしているように映るかもしれないが、そこらへんは半ば自覚的にやっている。根拠の薄さについてはフェアだろうと感じる範囲で逆の立場をとってみる、というだけの話として。

画像1枚目はマラガのアルカサバ。アラブ人のつくった中世の城塞は一般にカスバ(qasbah, قصب)と呼ばれるが、スペインにおける通称はアルカサバ(Alcazaba)となる。アラビア語の定冠詞‘al’が付いた‘al-qasbah, القصبة’のまま一般名詞化したのだろう(たぶん)。グラナダのアルハンブラ宮殿外壁とよく似た外観だが実際ほぼ同時代に同じ構造、材質により建てられた。画像の2枚目はコルドバのメスキータ内観。メスキータはアラビア語の‘masjid, مسجد ’に由来しスペイン語でモスクを意味するが、固有名詞的にコルドバのそれを指すことが多い。3枚目はそのメスキータの外壁。最後の画像(直上)はアルハンブラ宮殿内・二姉妹の間(Sala de las Dos Hermanas)の天井を彩る鍾乳石飾り。マラガの記事に近隣とはいえコルドバやグラナダの写真を含めるのは微妙といえば微妙だが、スペインのイスラム文化に焦点を当てた記事を別に立てる心積りも現状ないので、一応ここで軽くまとめたものとしてお許し願いたい。ってモニターに向かって許しを請う自分もおかしなものだけど、いやこれは読者であるあなたに請うている。でも受話器を耳にあてたままお辞儀してるひとってたまにいるよね、あんな気分かもしれず。って頭さげてはいないんだけど。遺された史料によると、何でもいいから最後にオチをつけないと気が済まないのが2008年春の流行様式であったらしい。