◆アルジェ, Algiers, الجزائر
この街を拠点とした著名な海賊を、幾人かまず挙げておく。いずれも大航海時代のヨーロッパ人を震撼させたバルバリア海賊の頭目たちである。生没年と出生地を併記。

ウルージ・レイス, Oruç Reis, Arrudye Barbarossa
1474-1518 レスボス島(エーゲ海)
ハイレディン・バルバロッサ, Hızır Reis, Hayreddin Barbarossa
1478-1546 レスボス島(エーゲ海)
カーチャ・ディアブロ, Aydin Reis, Cachi Diablo
? -1534 カラマン地方(アナトリア半島)
ドラグト, Turgut Reis, Dragut
1485-1565 ボドルム島(エーゲ海)
シナン・パシャ, Sinan Reis, Sinan Pasha
? -1553 出生地不明(ユダヤ人)
ウルグ・アリ, Uluj Ali Reis, Giovanni Dionigi Galeni
1519-1587 カラブリア(南イタリア)
英字名は一番目がオスマンサイドでの呼称、二番目がヨーロッパサイドにおける通称もしくはヨーロッパ名。彼らをはじめシチリア島以西のアフリカ北岸を根城とした海賊たちを、同時代のヨーロッパ人はバルバリア海賊と呼んで怖れ、また蔑んだが、とりわけアルジェはバルバロッサ兄弟による制圧後西地中海における海賊の最大拠点となった。
このことがヨーロッパ世界において脅威であった理由はその地勢にある。まず第一にこの一帯はローマやナポリを含む南イタリア以東の地中海世界にとって、ジブラルタル海峡へ抜ける最短ルート上に位置したこと。たとえば海洋都市国家ヴェネツィアの大西洋への道を閉ざしたのは距離そのものよりもバルバリア海賊の存在であったといっても過言ではない。そして第二にハイレディンの策謀によりこの地がオスマン帝国へ差し出されたことで、イスラム世界における対キリスト教世界最前線の軍事拠点が地中海の出口付近に堂々と築かれてしまったこと。もともとバルバリア海賊の活動範囲はブリテン島のテムズ河を遡ってロンドン近郊で略奪行為を働くほどに広かったから(イギリス人女性はイスラム世界で性的奴隷として高く売れ、男性は漕ぎ手として優秀だった)、規模が大きいとはいえ単なる海賊の根城として駆逐する前にアルジェをオスマン帝国の庇護下に置かれてしまったことは、近世の地中海におけるヨーロッパ勢力による最大の失態だったと言って良い。これにより、ナポレオンの登場まで地中海世界の制海権はどちらかといえばオスマン帝国の手に委ねられる。キリスト教勢力が主導権を保てたのは‘ヴェネツィアの庭’と称されたアドリア海を除けばイタリア半島北部西岸一帯の、地中海全体からみればほんのささやかな‘断片’に過ぎなくなった。
ところで彼ら頭目たちのオスマンサイドでの呼称を注視すると、‘Reis’の文字が全員に共通することに気づいていただけるだろう。オスマン世界においてレイスとは提督を意味し、個人名に連なるそれは尊称的なニュアンスを持っている。つまり彼らはオスマン帝国の正規海軍における海将たちでもあった。一方からみた海賊が敵対する他方からは英雄的な軍人として称えられるケースはヨーロッパ世界内でもエリザベス1世治下のフランシス・ドレイクやルイ14世治下のジャン・バールなど稀ではないが、ここに挙げたバルバリア海賊の面々の特質は、自ら意図して外部からオスマン帝国の覇業に加わったところにある。
バルバロッサ兄弟のウルージがアルジェを陥落させた時点でのアフリカ北岸は、チュニスのハフス朝をはじめ多くのイスラム系独立勢力が割拠する状態で、それぞれに地中海北岸のヨーロッパ諸国も巻き込んで合従連衡を繰り広げていたから、ヨーロッパ勢力のつけ入りかた次第では西地中海をキリスト教世界の内海とするチャンスも恐らくあった。実際スペイン王で神聖ローマ皇帝も兼ねたカルロス1世(カール5世)は一度アルジェを陥落させるまでに至ったが、ウルージの首を獲ったことで満足したのがいけなかった。一代で“バルバロスの大王”にまで昇りつめた兄ウルージ以上の恐るべき素質を、弟のハイレディンが秘めていることを当時のヨーロッパ社会はまだ知らなかったのだ。
冒頭の画像(上右)はハイレディンの肖像画。ターバンの上の王冠は一国の王者であることを示唆し、鎧の白い三日月紋はイスラムの守護者を意味するとともに、月の内側の紋章(詳細不明、三角形は“肥沃な三日月地帯”に由来?)と相俟って恐らくオスマン帝国の臣下であることを暗示してもいる。ただ‘赤ひげ’を意味するバルバロッサの名の通りにこの絵は描かれているものの、彼がスレイマン大帝の命に応じてイスタンブルに参じたとき、すでに老いて白くなった髭が一層威厳を強めていたともいう。とすれば二枚目の肖像画(左)のほうが写実に近い可能性もある。一枚目のそれより知謀に長けて冷徹な風格を湛えている。もともとバルバロッサと呼ばれたのは兄ウルージが先で、ハイレディンの髭はそれほど赤くなかったとも言われる。槍を携えた勇猛な姿は、窮地の味方を救援すべく踵を返して突撃し、敵軍に囲まれて戦死を遂げた兄にこそふさわしいのかもしれない。
敵対するジェノヴァ海将アンドレア・ドーリアの動向に注意を払い万難を排して行われたハイレディンのイスタンブル訪問と大帝への謁見は無言のうちに周囲を圧し、帝国の高官たちをその立ち居振る舞いによって納得させた。これにより彼は帝国全体の海事を切り盛りするカプダン・パシャの職を任される。それは己の手で再構築し自ら率いた艦隊によって、兄を殺したカルロス1世の意を汲むスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇による連合艦隊を破るプレヴェザの海戦の、6年前の出来事だった。
さて今度は冒頭に挙げたバルバリアン・パイレーツの首領たちのリストのうち、出生地の項に着目しよう。“北アフリカのイスラム海賊”という言葉から、多くのひとはアラブ人や土着民族であるベルベル人の海賊をイメージするのではないか。しかし実際には、御覧の通りそれに該当する人物はリスト上皆無なのだ。バルバロッサ兄弟は幼少時をサロニカ近郊で過ごしたこともあるらしく、父親はオスマン帝国の騎士であるという他にキリスト教徒だったとする説もある。カーチャ・ディアブロ(悪魔殺し、の意味)の出生地であるカラマン地方とは現在のトルコ・シリア国境に広がる平野部を指し、伝統的にユダヤ人の多い地域。ウルグ・アリはレパントの海戦で負けたオスマン側にあって唯一隊列を保ったまま帰還した勇将だが、幼い日南イタリアの漁村で海賊に攫われて奴隷から成りあがったことでもよく知られている。少年時の名はジョヴァンニであった。‘イスラムの抜き放たれた剣’と恐れられたドラグトはエーゲ海ボドルムの出身、‘ムスリムの魔法使い’の異名をもつシナン・パシャの正体はユダヤ人であった。こうした例からは、彼らバルバリア海賊が極めて多彩な背景をもつ男たちの集団であったことが窺えよう。
勇猛さで名を轟かせたウルージ・レイスは一方で4、5ヶ国語を自由にあやつり、悪魔殺しのアイディンは冷静な戦況判断により劣勢から幾度もヨーロッパ勢力を敗走させてハイレディンを助けた。ここからみえてくるのは粗野で飲んだくれな海賊という画一的なイメージからはほど遠い、精強たる一個の軍団の姿影である。またアルジェの一般市民にとって彼らは大量の収奪品を市場に供給してくれる存在でもあったから、同胞への虐殺を繰り返すキリスト教勢力や民からの搾取によってのみ生きながらえる在来君主にもまして、長きに渡って信頼に値する統治者であり続けたことだろう。そこに広がるのは、数百年にわたりバルバリア海賊に振り回され続けた西欧社会からはちょっと想像もつかないような豊かな世界だったのかもしれない。
ちなみに現在のトルコ共和国海軍の歴史をネットで検索すると、ほとんどのページがオスマン帝国海軍の歴史に接続した形で書かれている。ケマル・アタテュルクによるトルコ革命は軍制の様式はともかく、軍の実態をそれほど大きく変革するものではなかったようだ。そしてオスマン帝国の海軍史において、冒頭で掲げられるのは大抵の場合ハイレディンその人の名前である。オスマン朝最大の建築家ミマール・スィナンの設計によるハイレディンの墓廟はイスタンブル近郊に今もあり[→link]、艦隊が金角湾を出港する折りには墓前へ向けて空砲を撃ち戦勝の祈りを捧げるならわしが、彼の死後後世まで続くオスマン帝国海軍の伝統となった。
さいごに日本の歴史参考書などでもよく登場する、バルバロッサ兄弟の二人揃った肖像画を挙げておこう。(本当は四兄弟) 教育界のおじさんたちが、ここまでヨーロッパ視点にこだわる理由は不明である。

なんというイケメン。
この街を拠点とした著名な海賊を、幾人かまず挙げておく。いずれも大航海時代のヨーロッパ人を震撼させたバルバリア海賊の頭目たちである。生没年と出生地を併記。

ウルージ・レイス, Oruç Reis, Arrudye Barbarossa
1474-1518 レスボス島(エーゲ海)
ハイレディン・バルバロッサ, Hızır Reis, Hayreddin Barbarossa
1478-1546 レスボス島(エーゲ海)
カーチャ・ディアブロ, Aydin Reis, Cachi Diablo
? -1534 カラマン地方(アナトリア半島)
ドラグト, Turgut Reis, Dragut
1485-1565 ボドルム島(エーゲ海)
シナン・パシャ, Sinan Reis, Sinan Pasha
? -1553 出生地不明(ユダヤ人)
ウルグ・アリ, Uluj Ali Reis, Giovanni Dionigi Galeni
1519-1587 カラブリア(南イタリア)
英字名は一番目がオスマンサイドでの呼称、二番目がヨーロッパサイドにおける通称もしくはヨーロッパ名。彼らをはじめシチリア島以西のアフリカ北岸を根城とした海賊たちを、同時代のヨーロッパ人はバルバリア海賊と呼んで怖れ、また蔑んだが、とりわけアルジェはバルバロッサ兄弟による制圧後西地中海における海賊の最大拠点となった。
このことがヨーロッパ世界において脅威であった理由はその地勢にある。まず第一にこの一帯はローマやナポリを含む南イタリア以東の地中海世界にとって、ジブラルタル海峡へ抜ける最短ルート上に位置したこと。たとえば海洋都市国家ヴェネツィアの大西洋への道を閉ざしたのは距離そのものよりもバルバリア海賊の存在であったといっても過言ではない。そして第二にハイレディンの策謀によりこの地がオスマン帝国へ差し出されたことで、イスラム世界における対キリスト教世界最前線の軍事拠点が地中海の出口付近に堂々と築かれてしまったこと。もともとバルバリア海賊の活動範囲はブリテン島のテムズ河を遡ってロンドン近郊で略奪行為を働くほどに広かったから(イギリス人女性はイスラム世界で性的奴隷として高く売れ、男性は漕ぎ手として優秀だった)、規模が大きいとはいえ単なる海賊の根城として駆逐する前にアルジェをオスマン帝国の庇護下に置かれてしまったことは、近世の地中海におけるヨーロッパ勢力による最大の失態だったと言って良い。これにより、ナポレオンの登場まで地中海世界の制海権はどちらかといえばオスマン帝国の手に委ねられる。キリスト教勢力が主導権を保てたのは‘ヴェネツィアの庭’と称されたアドリア海を除けばイタリア半島北部西岸一帯の、地中海全体からみればほんのささやかな‘断片’に過ぎなくなった。
ところで彼ら頭目たちのオスマンサイドでの呼称を注視すると、‘Reis’の文字が全員に共通することに気づいていただけるだろう。オスマン世界においてレイスとは提督を意味し、個人名に連なるそれは尊称的なニュアンスを持っている。つまり彼らはオスマン帝国の正規海軍における海将たちでもあった。一方からみた海賊が敵対する他方からは英雄的な軍人として称えられるケースはヨーロッパ世界内でもエリザベス1世治下のフランシス・ドレイクやルイ14世治下のジャン・バールなど稀ではないが、ここに挙げたバルバリア海賊の面々の特質は、自ら意図して外部からオスマン帝国の覇業に加わったところにある。
バルバロッサ兄弟のウルージがアルジェを陥落させた時点でのアフリカ北岸は、チュニスのハフス朝をはじめ多くのイスラム系独立勢力が割拠する状態で、それぞれに地中海北岸のヨーロッパ諸国も巻き込んで合従連衡を繰り広げていたから、ヨーロッパ勢力のつけ入りかた次第では西地中海をキリスト教世界の内海とするチャンスも恐らくあった。実際スペイン王で神聖ローマ皇帝も兼ねたカルロス1世(カール5世)は一度アルジェを陥落させるまでに至ったが、ウルージの首を獲ったことで満足したのがいけなかった。一代で“バルバロスの大王”にまで昇りつめた兄ウルージ以上の恐るべき素質を、弟のハイレディンが秘めていることを当時のヨーロッパ社会はまだ知らなかったのだ。
冒頭の画像(上右)はハイレディンの肖像画。ターバンの上の王冠は一国の王者であることを示唆し、鎧の白い三日月紋はイスラムの守護者を意味するとともに、月の内側の紋章(詳細不明、三角形は“肥沃な三日月地帯”に由来?)と相俟って恐らくオスマン帝国の臣下であることを暗示してもいる。ただ‘赤ひげ’を意味するバルバロッサの名の通りにこの絵は描かれているものの、彼がスレイマン大帝の命に応じてイスタンブルに参じたとき、すでに老いて白くなった髭が一層威厳を強めていたともいう。とすれば二枚目の肖像画(左)のほうが写実に近い可能性もある。一枚目のそれより知謀に長けて冷徹な風格を湛えている。もともとバルバロッサと呼ばれたのは兄ウルージが先で、ハイレディンの髭はそれほど赤くなかったとも言われる。槍を携えた勇猛な姿は、窮地の味方を救援すべく踵を返して突撃し、敵軍に囲まれて戦死を遂げた兄にこそふさわしいのかもしれない。敵対するジェノヴァ海将アンドレア・ドーリアの動向に注意を払い万難を排して行われたハイレディンのイスタンブル訪問と大帝への謁見は無言のうちに周囲を圧し、帝国の高官たちをその立ち居振る舞いによって納得させた。これにより彼は帝国全体の海事を切り盛りするカプダン・パシャの職を任される。それは己の手で再構築し自ら率いた艦隊によって、兄を殺したカルロス1世の意を汲むスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇による連合艦隊を破るプレヴェザの海戦の、6年前の出来事だった。
さて今度は冒頭に挙げたバルバリアン・パイレーツの首領たちのリストのうち、出生地の項に着目しよう。“北アフリカのイスラム海賊”という言葉から、多くのひとはアラブ人や土着民族であるベルベル人の海賊をイメージするのではないか。しかし実際には、御覧の通りそれに該当する人物はリスト上皆無なのだ。バルバロッサ兄弟は幼少時をサロニカ近郊で過ごしたこともあるらしく、父親はオスマン帝国の騎士であるという他にキリスト教徒だったとする説もある。カーチャ・ディアブロ(悪魔殺し、の意味)の出生地であるカラマン地方とは現在のトルコ・シリア国境に広がる平野部を指し、伝統的にユダヤ人の多い地域。ウルグ・アリはレパントの海戦で負けたオスマン側にあって唯一隊列を保ったまま帰還した勇将だが、幼い日南イタリアの漁村で海賊に攫われて奴隷から成りあがったことでもよく知られている。少年時の名はジョヴァンニであった。‘イスラムの抜き放たれた剣’と恐れられたドラグトはエーゲ海ボドルムの出身、‘ムスリムの魔法使い’の異名をもつシナン・パシャの正体はユダヤ人であった。こうした例からは、彼らバルバリア海賊が極めて多彩な背景をもつ男たちの集団であったことが窺えよう。
勇猛さで名を轟かせたウルージ・レイスは一方で4、5ヶ国語を自由にあやつり、悪魔殺しのアイディンは冷静な戦況判断により劣勢から幾度もヨーロッパ勢力を敗走させてハイレディンを助けた。ここからみえてくるのは粗野で飲んだくれな海賊という画一的なイメージからはほど遠い、精強たる一個の軍団の姿影である。またアルジェの一般市民にとって彼らは大量の収奪品を市場に供給してくれる存在でもあったから、同胞への虐殺を繰り返すキリスト教勢力や民からの搾取によってのみ生きながらえる在来君主にもまして、長きに渡って信頼に値する統治者であり続けたことだろう。そこに広がるのは、数百年にわたりバルバリア海賊に振り回され続けた西欧社会からはちょっと想像もつかないような豊かな世界だったのかもしれない。
ちなみに現在のトルコ共和国海軍の歴史をネットで検索すると、ほとんどのページがオスマン帝国海軍の歴史に接続した形で書かれている。ケマル・アタテュルクによるトルコ革命は軍制の様式はともかく、軍の実態をそれほど大きく変革するものではなかったようだ。そしてオスマン帝国の海軍史において、冒頭で掲げられるのは大抵の場合ハイレディンその人の名前である。オスマン朝最大の建築家ミマール・スィナンの設計によるハイレディンの墓廟はイスタンブル近郊に今もあり[→link]、艦隊が金角湾を出港する折りには墓前へ向けて空砲を撃ち戦勝の祈りを捧げるならわしが、彼の死後後世まで続くオスマン帝国海軍の伝統となった。
さいごに日本の歴史参考書などでもよく登場する、バルバロッサ兄弟の二人揃った肖像画を挙げておこう。(本当は四兄弟) 教育界のおじさんたちが、ここまでヨーロッパ視点にこだわる理由は不明である。

なんというイケメン。