今回はアデンを拠点にアフリカ東岸にて鳥類。

まずは馬みたいな鳥を求めていざソファラ。

キーニャって通称みたいだけど、どこで使われてるものなんでしょ。少し検索してみたけど見つからず。まぁとりあえず鳥は発見。

◆ダチョウ
馬のような速さのヒミツは、蹄のような脚指の爪にある。かつてはアラビア半島でも草原を疾走する姿が見られたようだが、アフリカ北岸とともに砂漠化して以降、その棲息域はアフリカ中部及び南部に限定。
直径10cmを超える卵のサイズは現存の鳥類で最大となるほか、生物の細胞としても最大らしい。胚分割が始まる前の卵の中身は確かに細胞の数としては一個だ、これはデカイ。生物中最大の細胞が鳥類のものというのも意外よね。
◇Ostrich, 脊索動物門 鳥綱 ダチョウ目 ダチョウ科

次は何と、そのダチョウの卵が大好物な鳥でござい。

◆エジプトハゲワシ
マッサワ北の上陸地点にて発見。エジプト沿岸というとアレクサンドリアやナイル河口のある地中海側のイメージが強いが、海岸線の長さとしては紅海側のほうがずっと長い。当然動植物の生態もより多様となるわけで、古代エジプトからこの地で見られる生物のなかには、エジプト神話に取り込まれたものも多くいる。絵文字にもなり、崇められもしたエジプトハゲワシはその顕著な例の一つ。
それはそうと、卵を割ろうとするエジプトハゲワシの動画発見。ドイツ語の説明が聞こえるけれどここがドイツの動物園なのか、他の場所でたまたまガイドがゲルマン魂を炸裂させているのかは不明。
◇Egyptian Vulture, 脊索動物門 鳥綱 タカ目 タカ科

うしろの遺跡っぽいのは何?って話だけれど、またそのうち。
さてひさびさにジパング編。

●本願寺顕如と本願寺
顕如本人についてまだ書いてないことに気がついた。顕如は1543年生まれ。よって当初のシナリオ1555年開始の時点では若干12,3歳。顔グラフィックが一生変わらないのが可哀想な気もするけれど、前年の1554年に父証如が39歳で入寂し門跡の地位を継いだため、時代考証的に間違っているわけではない。
門跡とは朝廷からの勅許により認められた各宗派の長の地位を言う。宗教の世界での官位と考えればわかりやすい。本願寺派の門跡の地位が、国内の他宗派に比べても有力な存在になったのは顕如の祖父蓮如の代からであり、実を言えば顕如の代に至っても浄土真宗各派を完全に統べていたわけではない。以前に書いたように、顕如の元から下間の僧が一向宗の統率役に派遣されても、働きが悪ければ下からの突き上げで追い出されていたのはそのためだ。歴史上の王族に比して親鸞を太祖とするならば、蓮如は中興の祖、第11代の顕如が最盛期を築いた世主とも言える。
この時代この地位に生まれたことの特異性は様々にあるが、一つ例を挙げるなら、本願寺家に伝わる書庫の自由な閲覧が可能だったことがある。一つ面白い話としては、今では親鸞に関する最もよく知られた文献の『歎異抄』、実はこの時代、そのアナーキーな思想により浄土真宗の内部においてすら禁書扱いをされていたのだが、顕如ほどの中枢にいる人間だけは閲覧できた。街の図書館などない時代である。自家に代々受け継がれた書庫があり、アーカイブ的な知識を得られたことは、社交外交の場において非常に大きなアドバンテージとして効いただろう。
妻如春尼は三条、細川、六角の家系に出自があり、実姉は武田信玄の正室。戦国時代の縁戚関係は非常に複雑で、よく知られた「お市」などのように、わかり易い敵対構図の網目に翻弄された人生などむしろ稀かもしれない。多くは本人にもわけがわからなくて、いちいち感情を乗せる気にもならなかったんじゃないかとも思う。
ちなみに織田信長と敵対する過程において、その方針を巡って顕如は長子教如とも対立し、石山本願寺を出ることになる。このあと顕如の遺志により門跡を継いだ三男准如の流れが現在の西本願寺、教如の流れを汲むのが東本願寺。これはあまりに強力な一向宗の結束力を恐れた徳川家康の策謀により、東西に分派されたものである。

上画像は1565年のもので、紀伊の鈴木家が四国に向けて水軍を発し、三好家が淡路島南沖で応戦を始めている図。元々は九州の争乱に伊予の河野家が援軍を出し、その隙を土佐の長曾我部と讃岐・阿波の三好が突こうとした事態に端を発している。兵を四国に送ったため、畿内の三好の兵力が落ちたので、頼廉の部隊を堺港に向けて出してみた。(上画像上端)

その後讃岐には備前から浦上家も兵を出したため、三好の軍隊はもはや畿内に戻る余裕をなくし、堺港および岸和田城が本願寺の手に。結局伊予は長曾我部が奪り、手隙の土佐攻略に出た三好の軍隊も伊予からとって返した部隊との挟み撃ちに遭い壊滅。長曾我部はその勢いを駆り阿波の勝瑞城を落とし、四国をほぼ勢力下に収めた。
この間、九州は北の大友、南の島津にほぼ二分、毛利が史実通り中国地方の攻略を始め、西日本の大勢は固まってきた。東日本についてはまた今度。

まずは馬みたいな鳥を求めていざソファラ。

キーニャって通称みたいだけど、どこで使われてるものなんでしょ。少し検索してみたけど見つからず。まぁとりあえず鳥は発見。

◆ダチョウ
馬のような速さのヒミツは、蹄のような脚指の爪にある。かつてはアラビア半島でも草原を疾走する姿が見られたようだが、アフリカ北岸とともに砂漠化して以降、その棲息域はアフリカ中部及び南部に限定。
直径10cmを超える卵のサイズは現存の鳥類で最大となるほか、生物の細胞としても最大らしい。胚分割が始まる前の卵の中身は確かに細胞の数としては一個だ、これはデカイ。生物中最大の細胞が鳥類のものというのも意外よね。
◇Ostrich, 脊索動物門 鳥綱 ダチョウ目 ダチョウ科

次は何と、そのダチョウの卵が大好物な鳥でござい。

◆エジプトハゲワシ
マッサワ北の上陸地点にて発見。エジプト沿岸というとアレクサンドリアやナイル河口のある地中海側のイメージが強いが、海岸線の長さとしては紅海側のほうがずっと長い。当然動植物の生態もより多様となるわけで、古代エジプトからこの地で見られる生物のなかには、エジプト神話に取り込まれたものも多くいる。絵文字にもなり、崇められもしたエジプトハゲワシはその顕著な例の一つ。
それはそうと、卵を割ろうとするエジプトハゲワシの動画発見。ドイツ語の説明が聞こえるけれどここがドイツの動物園なのか、他の場所でたまたまガイドがゲルマン魂を炸裂させているのかは不明。
◇Egyptian Vulture, 脊索動物門 鳥綱 タカ目 タカ科

うしろの遺跡っぽいのは何?って話だけれど、またそのうち。
さてひさびさにジパング編。

●本願寺顕如と本願寺
顕如本人についてまだ書いてないことに気がついた。顕如は1543年生まれ。よって当初のシナリオ1555年開始の時点では若干12,3歳。顔グラフィックが一生変わらないのが可哀想な気もするけれど、前年の1554年に父証如が39歳で入寂し門跡の地位を継いだため、時代考証的に間違っているわけではない。
門跡とは朝廷からの勅許により認められた各宗派の長の地位を言う。宗教の世界での官位と考えればわかりやすい。本願寺派の門跡の地位が、国内の他宗派に比べても有力な存在になったのは顕如の祖父蓮如の代からであり、実を言えば顕如の代に至っても浄土真宗各派を完全に統べていたわけではない。以前に書いたように、顕如の元から下間の僧が一向宗の統率役に派遣されても、働きが悪ければ下からの突き上げで追い出されていたのはそのためだ。歴史上の王族に比して親鸞を太祖とするならば、蓮如は中興の祖、第11代の顕如が最盛期を築いた世主とも言える。
この時代この地位に生まれたことの特異性は様々にあるが、一つ例を挙げるなら、本願寺家に伝わる書庫の自由な閲覧が可能だったことがある。一つ面白い話としては、今では親鸞に関する最もよく知られた文献の『歎異抄』、実はこの時代、そのアナーキーな思想により浄土真宗の内部においてすら禁書扱いをされていたのだが、顕如ほどの中枢にいる人間だけは閲覧できた。街の図書館などない時代である。自家に代々受け継がれた書庫があり、アーカイブ的な知識を得られたことは、社交外交の場において非常に大きなアドバンテージとして効いただろう。
妻如春尼は三条、細川、六角の家系に出自があり、実姉は武田信玄の正室。戦国時代の縁戚関係は非常に複雑で、よく知られた「お市」などのように、わかり易い敵対構図の網目に翻弄された人生などむしろ稀かもしれない。多くは本人にもわけがわからなくて、いちいち感情を乗せる気にもならなかったんじゃないかとも思う。
ちなみに織田信長と敵対する過程において、その方針を巡って顕如は長子教如とも対立し、石山本願寺を出ることになる。このあと顕如の遺志により門跡を継いだ三男准如の流れが現在の西本願寺、教如の流れを汲むのが東本願寺。これはあまりに強力な一向宗の結束力を恐れた徳川家康の策謀により、東西に分派されたものである。

上画像は1565年のもので、紀伊の鈴木家が四国に向けて水軍を発し、三好家が淡路島南沖で応戦を始めている図。元々は九州の争乱に伊予の河野家が援軍を出し、その隙を土佐の長曾我部と讃岐・阿波の三好が突こうとした事態に端を発している。兵を四国に送ったため、畿内の三好の兵力が落ちたので、頼廉の部隊を堺港に向けて出してみた。(上画像上端)

その後讃岐には備前から浦上家も兵を出したため、三好の軍隊はもはや畿内に戻る余裕をなくし、堺港および岸和田城が本願寺の手に。結局伊予は長曾我部が奪り、手隙の土佐攻略に出た三好の軍隊も伊予からとって返した部隊との挟み撃ちに遭い壊滅。長曾我部はその勢いを駆り阿波の勝瑞城を落とし、四国をほぼ勢力下に収めた。
この間、九州は北の大友、南の島津にほぼ二分、毛利が史実通り中国地方の攻略を始め、西日本の大勢は固まってきた。東日本についてはまた今度。