◆リューベック, Lübeck, Liubice
かつて神聖ローマ皇帝カール4世はバルト海に面したこの港町を、帝国下における“栄光の5大都市”の1つとして讃えた。他の4都市はヴェネツィアやローマなどいずれも地中海側の諸港であったが、このことからも窺えるように中世のバルト海・北海一帯においてこの街は、他の追随を許さないほどに繁栄を極めて北ヨーロッパにおける都市間交易の成長を牽引した。その顕著な例として知られるのが最盛期には加盟都市200を超えた“ハンザ都市同盟”の結成で、これは元々リューベックとハンブルクが結んだ商業同盟に、それ以前から存在した商人間の組合的なネットワーク(商人ハンザ)が加味されて成立したものだった。

ハンブルクはリューベックから南西に50kmほど内陸を進んだ場所にある。ともに神聖ローマ帝国下において近隣の地方領主による支配を早くから免れて“自由都市”の地位を獲得していた両都市間には、政治経済的にも歴史文化的にも多くの面で類似点がある一方で、対照的な性格もまた多くある。なかでも明瞭な相違点の一つとして、リューベックがユトランド半島の付け根の東側に位置してバルト海に面した海港都市であるのに対し、ハンブルクはエルベ川を下って半島の西側の付け根を経由し、北海へと開けた河川途上の港湾都市だということがある。
エルベ川はヨーロッパを代表する主要河川の一つであり、河川自体の有用性もさることながら北海へと抜けることがイングランドやネーデルラントとの最短の通商路を直ちに想像させるためハンブルクの地の利は理解しやすいが、これに対してリューベックが携える地理上の優位性を即座にイメージすることは、現代的な感覚からは少々難しいかもしれない。だがこの難しさには恐らく、前世紀の東西冷戦によってバルト海の交易圏が長く分断凍結されていたことの残滓が多分に寄与している。
このことの証左として妥当かどうかは微妙だが、第二次世界大戦の終盤イギリス王室空軍の戦略爆撃軍団が最初に爆撃したのがリューベック市街であったことは一考に値するだろう。まったくの憶測だが最初にこの街を潰すことは、当時北欧やポーランドに勢力を広げていたナチス・ドイツのバルト海を経由した補給線を遮断するうえで決定的な意味をもったはずである。だとすればバルト海を通じた海運網の有効性が、大戦後の現代において少なからず潜在化してきたのは確かだ。これに加えドイツ自体の分断政策によって、分断線の真近に位置したリューベックの経済的な命運は戦後長く断たれることとなった。

ともあれ中近世においてはバルト海の存在が実際に、スカンジナビアやロシア、現バルト三国やさらに河川を伝って遠く黒海方面からの産物をもヨーロッパ大陸にもたらしうる非常に豊かな交易網の成立を可能にした。しかしバルト海から北海へ海路のみによって抜けるためにはユトランド半島を大きく迂回せねばならず、その途上では狭い海峡と浅瀬の入り組むコペンハーゲン近海を通過せねばならない。そこはしばしば政治軍事的に封鎖されやすく海賊被害が多い海域でもあったため、半島の付け根に位置するリューベックはいきおいバルト海交易とヨーロッパ大陸内交易との結節点の役割を一手に引き受けることとなった。
またリューベックの繁栄と同時期に活躍したドイツ騎士団は、その最盛期にはドイツ北部からリトアニアへと延びるプロイセン地方を広く領有するに至ったが、彼らの先導によるドイツ人の東方植民運動においても、東へと海路を開くリューベックはその地勢が活きて一大拠点として機能した。この植民運動の展開とハンザ都市同盟の拡張は互いに相乗効果をもたらし、リューベックを起点とする商圏は益々繁栄の一途をたどってゆく。14世紀半ばに始まったこの流れは、15世紀半ば以降ドイツ騎士団の勢力がポーランド・リトアニア連合に押し返され、やがて大航海時代の到来によってハンザ都市同盟の存在意義が次第に形骸化を始めるまで長く続いた。
ところでハンブルクやブレーメンが行政上の正式名において“ハンザ自由都市”の名を今日もなお名乗るのに対し、リューベックがそれを名乗らなくなった直接のきっかけにはナチス・ドイツによる強権政治が絡んでいる。端的にいえばヒトラーがリューベックからのみ名称だけでなく都市単体で州に相当する行政区が認められる地位を奪ったのだが、このハンブルクやブレーメンとの扱いの違いにはかなり恣意的な、もっと言えば彼の私的な好悪感情に由来するものがあったらしい。だが皮肉な話、ヒトラーが執着したアーリア人種優位説の発生過程において、リューベックの果たした功績は非常に大きなものだったと推測される。
というのもこの人種思想はなにもナチスの独創によるものではなく、ナチス政権誕生の母体となったドイツ・ナショナリズムの形成過程で再発見された“ニーベルンゲン叙事詩”に基づくゲルマン民族の英雄伝説が下地にあるのだが、実はナショナリズム興隆の過程で流布された伝説のフレーミングそのものはスカンジナビア半島一帯に古来からある北欧神話の読み換えでしかなかったのだ。なぜそこで“サーガ”や“エッダ”などの北欧神話が採用されたのかという理由に、古代以来の地中海文化に対する大衆的な劣等感や、逸早く市民革命を遂げ国力を増強させたフランスに対する焦燥心を見ることは恐らくそう的外れではないだろう。これらに比べ北欧文化ならば呑み込まれることもないだろうという歪んだ自意識の顕れをそこに読み取っても良いかもしれない。ともかくこの読み換えを可能とした前段階には北欧神話のドイツ文化圏での普及があり、それは北欧への窓口であったリューベックを欠いては考えられない。
こうしたあたり、同時期の日本軍が金科玉条とした大東亜共栄圏の発想にも通じるものを感じさせる。後発近代化国家が、実体が追い付かない分だけ理念先行型の、言い換えればリスクの大きな政治手法に訴えざるをえなかった悲哀をそこに感じてしまうのだが、たとえば上辺の印象のみによって西郷隆盛の“征韓論”や岡倉天心の“東洋の理想”に大東亜共栄圏の思想を連ねる種の語り口と、北欧神話の読み換えを以ってアーリア人の血の優位を説く理屈とまでが何かを通底させて見えてしまうのはなんだかとても滑稽だ。
だがその滑稽さが同時代の人々の眼からはほぼ完璧に覆い隠されたまま、リューベックでは数百年ものあいだ街のシンボルであった教会がたった1日の爆撃によって3つまで損なわれ、世界全体でも至近の100年間は間違いなく史上最も多くの人命が戦争により失われた世紀となった。パレスチナは年を越して今日現在も戦闘の渦中にある。今月誕生するアメリカ新政権はすでにアフガンにおける戦力強化を明言してもいる。人間は確実に進化している。こと殺戮と破壊に関してはその通りだと納得する、2009年初頭である。話がそれた。
ちなみに英語の“love”はドイツ語で“liebe”、リューベックの古名“Liubice”は英語で言うなら“lovely”と同源らしい。愛です。愛。
かつて神聖ローマ皇帝カール4世はバルト海に面したこの港町を、帝国下における“栄光の5大都市”の1つとして讃えた。他の4都市はヴェネツィアやローマなどいずれも地中海側の諸港であったが、このことからも窺えるように中世のバルト海・北海一帯においてこの街は、他の追随を許さないほどに繁栄を極めて北ヨーロッパにおける都市間交易の成長を牽引した。その顕著な例として知られるのが最盛期には加盟都市200を超えた“ハンザ都市同盟”の結成で、これは元々リューベックとハンブルクが結んだ商業同盟に、それ以前から存在した商人間の組合的なネットワーク(商人ハンザ)が加味されて成立したものだった。

ハンブルクはリューベックから南西に50kmほど内陸を進んだ場所にある。ともに神聖ローマ帝国下において近隣の地方領主による支配を早くから免れて“自由都市”の地位を獲得していた両都市間には、政治経済的にも歴史文化的にも多くの面で類似点がある一方で、対照的な性格もまた多くある。なかでも明瞭な相違点の一つとして、リューベックがユトランド半島の付け根の東側に位置してバルト海に面した海港都市であるのに対し、ハンブルクはエルベ川を下って半島の西側の付け根を経由し、北海へと開けた河川途上の港湾都市だということがある。
エルベ川はヨーロッパを代表する主要河川の一つであり、河川自体の有用性もさることながら北海へと抜けることがイングランドやネーデルラントとの最短の通商路を直ちに想像させるためハンブルクの地の利は理解しやすいが、これに対してリューベックが携える地理上の優位性を即座にイメージすることは、現代的な感覚からは少々難しいかもしれない。だがこの難しさには恐らく、前世紀の東西冷戦によってバルト海の交易圏が長く分断凍結されていたことの残滓が多分に寄与している。
このことの証左として妥当かどうかは微妙だが、第二次世界大戦の終盤イギリス王室空軍の戦略爆撃軍団が最初に爆撃したのがリューベック市街であったことは一考に値するだろう。まったくの憶測だが最初にこの街を潰すことは、当時北欧やポーランドに勢力を広げていたナチス・ドイツのバルト海を経由した補給線を遮断するうえで決定的な意味をもったはずである。だとすればバルト海を通じた海運網の有効性が、大戦後の現代において少なからず潜在化してきたのは確かだ。これに加えドイツ自体の分断政策によって、分断線の真近に位置したリューベックの経済的な命運は戦後長く断たれることとなった。

ともあれ中近世においてはバルト海の存在が実際に、スカンジナビアやロシア、現バルト三国やさらに河川を伝って遠く黒海方面からの産物をもヨーロッパ大陸にもたらしうる非常に豊かな交易網の成立を可能にした。しかしバルト海から北海へ海路のみによって抜けるためにはユトランド半島を大きく迂回せねばならず、その途上では狭い海峡と浅瀬の入り組むコペンハーゲン近海を通過せねばならない。そこはしばしば政治軍事的に封鎖されやすく海賊被害が多い海域でもあったため、半島の付け根に位置するリューベックはいきおいバルト海交易とヨーロッパ大陸内交易との結節点の役割を一手に引き受けることとなった。
またリューベックの繁栄と同時期に活躍したドイツ騎士団は、その最盛期にはドイツ北部からリトアニアへと延びるプロイセン地方を広く領有するに至ったが、彼らの先導によるドイツ人の東方植民運動においても、東へと海路を開くリューベックはその地勢が活きて一大拠点として機能した。この植民運動の展開とハンザ都市同盟の拡張は互いに相乗効果をもたらし、リューベックを起点とする商圏は益々繁栄の一途をたどってゆく。14世紀半ばに始まったこの流れは、15世紀半ば以降ドイツ騎士団の勢力がポーランド・リトアニア連合に押し返され、やがて大航海時代の到来によってハンザ都市同盟の存在意義が次第に形骸化を始めるまで長く続いた。
ところでハンブルクやブレーメンが行政上の正式名において“ハンザ自由都市”の名を今日もなお名乗るのに対し、リューベックがそれを名乗らなくなった直接のきっかけにはナチス・ドイツによる強権政治が絡んでいる。端的にいえばヒトラーがリューベックからのみ名称だけでなく都市単体で州に相当する行政区が認められる地位を奪ったのだが、このハンブルクやブレーメンとの扱いの違いにはかなり恣意的な、もっと言えば彼の私的な好悪感情に由来するものがあったらしい。だが皮肉な話、ヒトラーが執着したアーリア人種優位説の発生過程において、リューベックの果たした功績は非常に大きなものだったと推測される。というのもこの人種思想はなにもナチスの独創によるものではなく、ナチス政権誕生の母体となったドイツ・ナショナリズムの形成過程で再発見された“ニーベルンゲン叙事詩”に基づくゲルマン民族の英雄伝説が下地にあるのだが、実はナショナリズム興隆の過程で流布された伝説のフレーミングそのものはスカンジナビア半島一帯に古来からある北欧神話の読み換えでしかなかったのだ。なぜそこで“サーガ”や“エッダ”などの北欧神話が採用されたのかという理由に、古代以来の地中海文化に対する大衆的な劣等感や、逸早く市民革命を遂げ国力を増強させたフランスに対する焦燥心を見ることは恐らくそう的外れではないだろう。これらに比べ北欧文化ならば呑み込まれることもないだろうという歪んだ自意識の顕れをそこに読み取っても良いかもしれない。ともかくこの読み換えを可能とした前段階には北欧神話のドイツ文化圏での普及があり、それは北欧への窓口であったリューベックを欠いては考えられない。
こうしたあたり、同時期の日本軍が金科玉条とした大東亜共栄圏の発想にも通じるものを感じさせる。後発近代化国家が、実体が追い付かない分だけ理念先行型の、言い換えればリスクの大きな政治手法に訴えざるをえなかった悲哀をそこに感じてしまうのだが、たとえば上辺の印象のみによって西郷隆盛の“征韓論”や岡倉天心の“東洋の理想”に大東亜共栄圏の思想を連ねる種の語り口と、北欧神話の読み換えを以ってアーリア人の血の優位を説く理屈とまでが何かを通底させて見えてしまうのはなんだかとても滑稽だ。
だがその滑稽さが同時代の人々の眼からはほぼ完璧に覆い隠されたまま、リューベックでは数百年ものあいだ街のシンボルであった教会がたった1日の爆撃によって3つまで損なわれ、世界全体でも至近の100年間は間違いなく史上最も多くの人命が戦争により失われた世紀となった。パレスチナは年を越して今日現在も戦闘の渦中にある。今月誕生するアメリカ新政権はすでにアフガンにおける戦力強化を明言してもいる。人間は確実に進化している。こと殺戮と破壊に関してはその通りだと納得する、2009年初頭である。話がそれた。
ちなみに英語の“love”はドイツ語で“liebe”、リューベックの古名“Liubice”は英語で言うなら“lovely”と同源らしい。愛です。愛。