
◆ピサ, Pisa
まず大地があり、そこにひとが現れる。ひとは風をふせぐために壁をたて、雨をしのぐために屋根をわたす。はじめは手近な自然物がその材料にあてられる。樹々の豊富な土地では木造の、加工に向いた石材があれば石造の構造物が、こうして次々と生まれてゆく。鳥が枝を集めて巣を編んでいくように、蟻が土を運んで塚山を築いていくように。だから土地が変われば、建物のカタチも変わる。それを自然のこととして、建築の歴史は長く時を刻んできた。蜘蛛は元形を留めない糸へと素材を転化させ、空中に家をつくる。鉄とガラスによる現代都市とどこか似ている。こちらは地球上のどこであれ、おのずと似通ったものになる。

工業の発展によって街を形作るパーツが日々規格化され、画一化されゆく時代になって、古きものがもつその土地ならではの固有性にひとは初めて価値を見出した。ピサの場合、それはまずロマネスク様式の建築群を指すことになる。なぜゴシック様式でもルネサンス様式でもなくロマネスクなのかというと、この様式の流行した11世紀から12世紀が、ほぼそのまま海運国ピサの最盛期に相当したからだ。
もともと古代ギリシアの植民市としてスタートしたこの街は堅実な発展を続け、11世紀にはコルシカ・サルディーニャ・バレアレス諸島の各港を領有、中世地中海における四大海洋国家の筆頭に称えられるほどの繁栄を謳歌した。だが1284年にメロリア海戦でジェノヴァに屈して以降往時の勢いが甦ることは二度となく、よってそれまでに築いた遺産を超える建造物を生みだすこともなくなった。1509年、稀代の策謀家マキャヴェッリが組織したフィレンツェの国民軍を前にして、都市国家としてのピサの命脈は終焉を迎えることになる。

さてこうして経済力を背景に昇華したこの街の建築様式は、今日では一般に“ピサ・ロマネスク様式”と通称される。その特徴はファサードに重なる小円柱の列や寄せ木細工による装飾など幾つかあるが、他に主なものとして白と黒の大理石を交互に積むことによる縞状の幾何学模様(polychromia)が挙げられる。材質の違いによってモノクロの縞を生みだすこの手法は、近隣のトスカーナ一帯はもとよりライヴァルの海洋国であったジェノヴァやアマルフィにも浸透し、さらには各国がもつ海運力に乗って遠方の植民市へと伝播した。

上画像は左からフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ、中央がジェノヴァのドーリア家旧宅、右がアマルフィのドゥオーモ正面。建築様式としては左がルネサンスからネオ・ゴシックまでの混合様式、右がアラブ・シチリア様式と幅広いが、明色と暗色の石材を交互に重ねて模様をつくる点で共通している。
またこのように材質の違いを根拠とした本来の手法から、外観のみが採用されて別のスタイルへと発展した例として、教会同士でロケット花火を打ち合う祭りで有名なエーゲ海・ヒオス島のクシスタ模様(xista, 下画像左)がある。先日放送された長寿TV番組“世界ふしぎ発見”では、この様式が一時期この島を支配下においたジェノヴァから伝来したこと、島では黒の地に白の漆喰を塗り型に沿ってはがす独自の手法が発達したことなどが、職人の実演も併せて紹介されていた。こんな文章をここまで読むくらいであれば、観たひともきっといるだろう。吉村先生のエジプト編などもそうだが、この番組は軽いノリのまま時々無駄にマニアックな領域までカメラを突っ込む。油断できない。

ところでなぜ縞模様なのかということを考えたとき、即座に思い出されたのがマラガの回で扱ったアンダルアのイスラム建築様式だ[→link]。コルドバのメスキータ内観に覗くアーチ(上画像中央)など、色こそ違え原理はほとんど同じに見える。メスキータにしてもアルハンブラ宮殿にしても、アンダルシアの建造物に赤色が多いのはその土壌が赤土を主としていたからだが、同様に考えればモノクロ縞の様式が発達したのはピサやそれが伝播した土地で白と黒の石材が入手しやすかったからということになる。実際、白色に比べて黒色の石材(正確には黒緑色, セルペンティーノ)は生産地が限られたため、同じピサ・ロマネスク様式の影響下にあるトスカーナ州の街でもたとえば内陸で山がちのヴォルテッラなどでは、暗色部を黒ではなく赤色の煉瓦によって代用した縞模様を見ることができる。この手法においてはその土地土地の固有性に加え、正確に再現するには流通の力がモノを言ったというわけだ。
上画像の右端は現トルコのヨーロッパ側、エディルネにあるセリミエ・ジャーミィ内観。当ブログではすでに幾度か登場している建築家ミマール・スィナンによる、最高傑作との呼び声も高い大モスクだ。スィナン本人は16世紀のひとだが、彼の建築群はそれまでのギリシア・アラブ・ペルシア域において数千年に渡って蓄積されてきた技術・意匠の集大成といった観がある。そこにもこうして件の意匠が顔をのぞかせているということは恐らく、この≪材質の違いを活かした縞模様のアーチ≫の源泉は思いのほか、深い。

上画像左はシリア・アレッポに現存し、今も現役のハマム(沐浴場)。中央は後述するとして、上画像右はレバノン・トリポリにあるマドラサ(モスクに付随する学究施設)。こちらも見るからに現役だ。いずれもアブラク(ablaq)と呼ばれるイスラム世界固有の装飾様式によるものだが、モノクロ縞のアーチに帰結している点でピサのものとよく似ている。アブラク様式はエジプトからアラブ一帯を支配下としたアイユーブ朝、マムルーク朝のもとで発展したが、その起源は11世紀以前のビサンチン美術に帰すると考えられる。要するにその発生もピサ・ロマネスク様式とほぼ同時期なのだ。ここで中世前半のイタリア半島がビサンチン帝国の強い影響下にあったことを考え合わせると、これらの発生源はすべて同じとみるほうがどうも自然に思えてくる。だとすればジェノヴァによる支配以前はビサンチン帝国下にあったヒオス島のクシスタ模様に関する“世界ふしぎ発見”の上記説明は、「誤りとは言い切れないが正確でもない」という可能性も出てくる。徹子さん、どうか長生きしてください。
上画像中央はアナトリア半島北西部・ブルサのエミール・スルタン・ジャーミィに掲げられたセリム3世を称える銘。明暗二色の細工によって極度に抽象化されているが、「アラーのほかに神はなし、モハメッドは神の代弁者である」と書かれているらしい。インド人もびっくり。いや別にインドは今回関係ない。縞模様を追いかけて、ピサからやたら遠くまで来てしまった。
さいごにもう一度トスカーナへ戻って終わろう。下画像はピサ近郊の街ピストイアにあるサン・ジョヴァンニ・フォルチヴィタス教会(Chiesa di S.Giovanni Fuorcivitas)外観。中段の小柱列中央の一本だけが黒緑色の柱とされているあたり、洒落ている。ガイドブック風にそう言って済ますこともできるだろうが、実のところ同一パターンが横方向にのみ反復することで間伸びしがちな全体の印象を、この一本の存在が劇的に締めてもいる。ミラノあたりの高級香水ブランドが泣いて飛びつきそうなほどモダンで洗練されたデザインだが、これでも12世紀の建築である。

薬師寺東塔の律動的なフォルムを“凍れる音楽”と評したのは明治期に来日した美術史家アーネスト・フェノロサだが、元来この言葉はゴシックの大聖堂を指してシェリングやゲーテといったドイツの知識人のあいだで稀に使われる表現であったらしい。ともあれ建築も音楽も人間精神の純化された顕れである以上、生まれた土地土地のもつ色彩と無縁でいられるはずもない。ロマネスク建築はいわばゴシック建築の前段階に当たるから、シャルトル大聖堂やパリのノートルダム寺院といったゴシックの傑作群がもつアクセントに富む構築性や、天へと突き抜けるような荘厳さがそこにはまだ欠けている。しかし代わりに緩やかで一層落ち着きのある優美な調べを、訪れた者は等しく聴きとることになるはずだ。ピサの教会広場がそこに居並ぶ建築群のサイズにも関わらず控え目にひそやかに感じられるのは、きっとその優しい響きのせいだろう。ただ一つ、斜塔の危うさをのぞいて。