◆カルヴィ, Calvi
水はまだひんやりとして、思いのほか暗い。沖合に少し出ただけで水底はぐっと深くなり、己の企みが浅はかなものであることはすぐにわかった。といって水草や錆やフジツボの類に覆われているだろうその痕跡をもし見つけたところで、別段どうしようというわけでもない。1794年、20代半ばにして戦列艦アガメムノンの艦長となったホレーショ・ネルソンは、この街を巡る攻防で右眼の視力を失った。戦闘がどのようなものであったのかはよく知らない。ただ、運がよければその時沈んだカノン砲の一つでも見つかるのではないかと期待して、時間つぶしに潜ってみただけだった。

早々に諦めて海から上がり古い石堤に沿って歩き始めると、浜辺のほうから数人の若者のはしゃぐ声が聞こえてくる。この島の人間があのように高い喚声をあげることは稀だから、どのみちジェノヴァ界隈からバカンスに訪れた裕福な家の子弟らといったところか。そう当たりをつけて3歩と進まないうちに、リグリア訛りの濃いイタリア語のフレーズが耳に飛び込んできた。ジェノヴァ地方の方言である。
はっきりそうとわかると、途端に不快な感情が湧き起こってきた。彼らとて、ジェノヴァ人がかつてこの島で行った圧政と搾取を知らないわけではあるまい。だとすればそれにも関わらず抑圧者の言葉で騒ぐ彼らの傲岸さを、自分は不愉快に感じているのだろうか。いや、おそらく違う。彼らは知らないのだ。良家の子弟が己の血に潜む陰の歴史を敢えて教わる理由はない。不快に感じているのは結局、いつも通りこの自分に対してなのだろう。歳の幾つも違わぬだろう彼らのように、自分はあけっぴろげに大きく笑うことがない。いつのまにか、無知であることを罪とすら考え伏し目がちに生きるようになっていた。だがそれが良い道行きであるという確信はいまだにない。そう、だからこそ、ああした笑い声はこの身を不安にさせるのだ。わかってはいる。しかしどうにもしようがない。
気づくと、すでに街の端へと歩き着いていた。いま宿へ戻ってもすることがないと考え、青年は港の埠頭の方角へと足先を変えた。
港湾の事務を取り扱っているのだろう小屋の屋根には、小ぶりなコルシカの旗がささやかに舞っている。元はコルシカ独立戦争を戦った独立政府の旗章で、目隠しをされたムーア人の頭を意味したという。サルディーニャ島の州旗もたしか、これとほぼ同様の由来をもっていたはずだ。このあたりの島の歴史とはどこでも、ムーア人の海賊からジェノヴァの武装商人、フランスの革命政府などと姿を変えて存在し続けた外来の脅威に対する抵抗の歴史そのものなのだろう。
サルディーニャの独立運動はやがてイタリア統一の枢軸となったが、コルシカのそれは結局フランスの支配下に留まった。何が二つを分けたのかと考えれば、要因は様々にあるだろうが一つには島のもつ規模の差が大きいだろう。この島はサルディーニャに比べ、ただ小さいという以上に耕地面積がずっと少なく、従って人も少ない。人々が徒党を組んで求心力を発揮し、外部の勢力に対するためにはやはり相応の規模と内実が必須の要件とならざるを得ない。組織を司る統制はそれゆえに、実効力をつねに前提において構想される必要があるだろう。従って実態にふさわしい帰結に至った否かで判断するなら、コルシカの独立戦争が失敗に終わったとは一概に言えなくなる。それによって何を得たのか、重要なのはこの一点だ。
そういえばコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官には、かのナポレオンの父親がいたはずだ。父親はのちフランス側に寝返り、それがもとでボナパルト一家はコルシカ島を放逐される。ネルソンがこの地で隻眼となる前年、若き砲兵士官のナポレオンは1年だけこの島に任官していたらしい。トゥーロン包囲戦でその軍事的才能を世に知らしめ、24歳にして少将に昇進するのはコルシカ赴任の直後のことだった。しかしこうしてかえりみると、一家のマルセイユ移住がのちの皇帝ナポレオンの誕生につながり、やがてフランスによるコルシカの支配をより強固なものとする素地を形作ったのだから、何とも皮肉な話ではある。とは言えいかに賢明な指導者であれ、自らの施策がもたらす結果について予めその全てを踏まえることなど不可能な話だろう。失政は政治の本質である、という格言を記したのはモンテスキューだったか。いや、違う。社会思想には自信があるつもりだが、古典がかってくるとどうにも記憶が曖昧になってしまう。まだまだ研鑽が足りないな。
この島で隻眼となってから数年後、カナリア諸島での戦闘により右腕を切断したネルソンは、イギリス地中海艦隊を率いてトゥーロンのフランス艦隊封鎖を試みるが、物量の差もあって失敗に終わる。この失策によりナポレオンのエジプト侵攻への道が開けたが、ために陸軍のアレクサンドリア入城を支援したフランス艦隊はナイル河口においてネルソンの鬼謀に触れ、殲滅の憂き目に逢う。このとき以降フランス海軍内部には‘ネルソン恐怖症’とでもいうべき神話が生まれ、のちのトラファルガーの海戦へと連なっていくことになる。
トラファルガー沖海戦でも艦隊を指揮したネルソンは、その洋上で生涯を閉じることとなった。彼の操る旗艦は集中砲火を浴びながら突進しフランスの戦列艦に接弦、白兵戦を行いつつ反対側の舷側ではなおも他の敵艦へ向けて片舷斉射を行っていたという。ネルソンを巡る神話はここで、明瞭な輪郭を帯びた伝説となった。一方トラファルガー沖でのフランス側の敗戦と制海権の喪失はナポレオン帝政によるイギリス本土上陸の野望を粉砕し、以降ナポレオンの食指はヨーロッパ東部へと延びていく。
歴史はかように人間と人間との予期しえぬ連環により進展してきたが、欧州に覇を唱えた人物を生んだ島民の眼差しは至って冷静なものである。このコルシカではナポレオンその人よりも、島の為に生きそして死んだパスカル・パオリの名声のほうが今でもずっと高い。自分たちに何をもたらしたかこそが意味をもつということだ。帝王となった男より、抵抗者であり続けた男を尊ぶ気風。この島自体がそうであるように人間の本質もおそらくは、中世だろうが近代だろうがそう大きく変わることはないのだろう。

そこまで思考を巡らせたところで、青年は埠頭の先端へとたどり着いた。島のほうを振り返る。海底から山がそのまませり上がるかのように、波を割る急峻な崖の岩肌が直接に峰々へと繋がり、遠く灰雲に霞む山の頂へと通じている。目指す高みがあの霞む彼方にあるとすれば、己の現在地はまさに母なる海原をようやく抜け出たばかりの今ここということになるだろう。そのどこにでもあるような比喩の凡庸さに可笑しくなって、青年はわずかに口角をゆがめた。ようやく二十歳に届こうという年齢のわりに、その笑みはあまりに大人びたものだった。
コルシカで短い休暇を過ごしたのちスイスでの出稼ぎを終え、国へ戻った彼が社会運動に身を投じるのはこの日より数年後のことである。それから20年近くを経て、世にいうローマ進軍の先頭に彼は立ち、独裁者への道を歩むことになる。名を、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニといった。
水はまだひんやりとして、思いのほか暗い。沖合に少し出ただけで水底はぐっと深くなり、己の企みが浅はかなものであることはすぐにわかった。といって水草や錆やフジツボの類に覆われているだろうその痕跡をもし見つけたところで、別段どうしようというわけでもない。1794年、20代半ばにして戦列艦アガメムノンの艦長となったホレーショ・ネルソンは、この街を巡る攻防で右眼の視力を失った。戦闘がどのようなものであったのかはよく知らない。ただ、運がよければその時沈んだカノン砲の一つでも見つかるのではないかと期待して、時間つぶしに潜ってみただけだった。

早々に諦めて海から上がり古い石堤に沿って歩き始めると、浜辺のほうから数人の若者のはしゃぐ声が聞こえてくる。この島の人間があのように高い喚声をあげることは稀だから、どのみちジェノヴァ界隈からバカンスに訪れた裕福な家の子弟らといったところか。そう当たりをつけて3歩と進まないうちに、リグリア訛りの濃いイタリア語のフレーズが耳に飛び込んできた。ジェノヴァ地方の方言である。
はっきりそうとわかると、途端に不快な感情が湧き起こってきた。彼らとて、ジェノヴァ人がかつてこの島で行った圧政と搾取を知らないわけではあるまい。だとすればそれにも関わらず抑圧者の言葉で騒ぐ彼らの傲岸さを、自分は不愉快に感じているのだろうか。いや、おそらく違う。彼らは知らないのだ。良家の子弟が己の血に潜む陰の歴史を敢えて教わる理由はない。不快に感じているのは結局、いつも通りこの自分に対してなのだろう。歳の幾つも違わぬだろう彼らのように、自分はあけっぴろげに大きく笑うことがない。いつのまにか、無知であることを罪とすら考え伏し目がちに生きるようになっていた。だがそれが良い道行きであるという確信はいまだにない。そう、だからこそ、ああした笑い声はこの身を不安にさせるのだ。わかってはいる。しかしどうにもしようがない。
気づくと、すでに街の端へと歩き着いていた。いま宿へ戻ってもすることがないと考え、青年は港の埠頭の方角へと足先を変えた。
港湾の事務を取り扱っているのだろう小屋の屋根には、小ぶりなコルシカの旗がささやかに舞っている。元はコルシカ独立戦争を戦った独立政府の旗章で、目隠しをされたムーア人の頭を意味したという。サルディーニャ島の州旗もたしか、これとほぼ同様の由来をもっていたはずだ。このあたりの島の歴史とはどこでも、ムーア人の海賊からジェノヴァの武装商人、フランスの革命政府などと姿を変えて存在し続けた外来の脅威に対する抵抗の歴史そのものなのだろう。サルディーニャの独立運動はやがてイタリア統一の枢軸となったが、コルシカのそれは結局フランスの支配下に留まった。何が二つを分けたのかと考えれば、要因は様々にあるだろうが一つには島のもつ規模の差が大きいだろう。この島はサルディーニャに比べ、ただ小さいという以上に耕地面積がずっと少なく、従って人も少ない。人々が徒党を組んで求心力を発揮し、外部の勢力に対するためにはやはり相応の規模と内実が必須の要件とならざるを得ない。組織を司る統制はそれゆえに、実効力をつねに前提において構想される必要があるだろう。従って実態にふさわしい帰結に至った否かで判断するなら、コルシカの独立戦争が失敗に終わったとは一概に言えなくなる。それによって何を得たのか、重要なのはこの一点だ。
そういえばコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官には、かのナポレオンの父親がいたはずだ。父親はのちフランス側に寝返り、それがもとでボナパルト一家はコルシカ島を放逐される。ネルソンがこの地で隻眼となる前年、若き砲兵士官のナポレオンは1年だけこの島に任官していたらしい。トゥーロン包囲戦でその軍事的才能を世に知らしめ、24歳にして少将に昇進するのはコルシカ赴任の直後のことだった。しかしこうしてかえりみると、一家のマルセイユ移住がのちの皇帝ナポレオンの誕生につながり、やがてフランスによるコルシカの支配をより強固なものとする素地を形作ったのだから、何とも皮肉な話ではある。とは言えいかに賢明な指導者であれ、自らの施策がもたらす結果について予めその全てを踏まえることなど不可能な話だろう。失政は政治の本質である、という格言を記したのはモンテスキューだったか。いや、違う。社会思想には自信があるつもりだが、古典がかってくるとどうにも記憶が曖昧になってしまう。まだまだ研鑽が足りないな。この島で隻眼となってから数年後、カナリア諸島での戦闘により右腕を切断したネルソンは、イギリス地中海艦隊を率いてトゥーロンのフランス艦隊封鎖を試みるが、物量の差もあって失敗に終わる。この失策によりナポレオンのエジプト侵攻への道が開けたが、ために陸軍のアレクサンドリア入城を支援したフランス艦隊はナイル河口においてネルソンの鬼謀に触れ、殲滅の憂き目に逢う。このとき以降フランス海軍内部には‘ネルソン恐怖症’とでもいうべき神話が生まれ、のちのトラファルガーの海戦へと連なっていくことになる。
トラファルガー沖海戦でも艦隊を指揮したネルソンは、その洋上で生涯を閉じることとなった。彼の操る旗艦は集中砲火を浴びながら突進しフランスの戦列艦に接弦、白兵戦を行いつつ反対側の舷側ではなおも他の敵艦へ向けて片舷斉射を行っていたという。ネルソンを巡る神話はここで、明瞭な輪郭を帯びた伝説となった。一方トラファルガー沖でのフランス側の敗戦と制海権の喪失はナポレオン帝政によるイギリス本土上陸の野望を粉砕し、以降ナポレオンの食指はヨーロッパ東部へと延びていく。
歴史はかように人間と人間との予期しえぬ連環により進展してきたが、欧州に覇を唱えた人物を生んだ島民の眼差しは至って冷静なものである。このコルシカではナポレオンその人よりも、島の為に生きそして死んだパスカル・パオリの名声のほうが今でもずっと高い。自分たちに何をもたらしたかこそが意味をもつということだ。帝王となった男より、抵抗者であり続けた男を尊ぶ気風。この島自体がそうであるように人間の本質もおそらくは、中世だろうが近代だろうがそう大きく変わることはないのだろう。

そこまで思考を巡らせたところで、青年は埠頭の先端へとたどり着いた。島のほうを振り返る。海底から山がそのまませり上がるかのように、波を割る急峻な崖の岩肌が直接に峰々へと繋がり、遠く灰雲に霞む山の頂へと通じている。目指す高みがあの霞む彼方にあるとすれば、己の現在地はまさに母なる海原をようやく抜け出たばかりの今ここということになるだろう。そのどこにでもあるような比喩の凡庸さに可笑しくなって、青年はわずかに口角をゆがめた。ようやく二十歳に届こうという年齢のわりに、その笑みはあまりに大人びたものだった。
コルシカで短い休暇を過ごしたのちスイスでの出稼ぎを終え、国へ戻った彼が社会運動に身を投じるのはこの日より数年後のことである。それから20年近くを経て、世にいうローマ進軍の先頭に彼は立ち、独裁者への道を歩むことになる。名を、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニといった。