Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
螺旋の海
◆カルヴィ, Calvi
 水はまだひんやりとして、思いのほか暗い。沖合に少し出ただけで水底はぐっと深くなり、己の企みが浅はかなものであることはすぐにわかった。といって水草や錆やフジツボの類に覆われているだろうその痕跡をもし見つけたところで、別段どうしようというわけでもない。1794年、20代半ばにして戦列艦アガメムノンの艦長となったホレーショ・ネルソンは、この街を巡る攻防で右眼の視力を失った。戦闘がどのようなものであったのかはよく知らない。ただ、運がよければその時沈んだカノン砲の一つでも見つかるのではないかと期待して、時間つぶしに潜ってみただけだった。

cannonshipwreck

 早々に諦めて海から上がり古い石堤に沿って歩き始めると、浜辺のほうから数人の若者のはしゃぐ声が聞こえてくる。この島の人間があのように高い喚声をあげることは稀だから、どのみちジェノヴァ界隈からバカンスに訪れた裕福な家の子弟らといったところか。そう当たりをつけて3歩と進まないうちに、リグリア訛りの濃いイタリア語のフレーズが耳に飛び込んできた。ジェノヴァ地方の方言である。
 はっきりそうとわかると、途端に不快な感情が湧き起こってきた。彼らとて、ジェノヴァ人がかつてこの島で行った圧政と搾取を知らないわけではあるまい。だとすればそれにも関わらず抑圧者の言葉で騒ぐ彼らの傲岸さを、自分は不愉快に感じているのだろうか。いや、おそらく違う。彼らは知らないのだ。良家の子弟が己の血に潜む陰の歴史を敢えて教わる理由はない。不快に感じているのは結局、いつも通りこの自分に対してなのだろう。歳の幾つも違わぬだろう彼らのように、自分はあけっぴろげに大きく笑うことがない。いつのまにか、無知であることを罪とすら考え伏し目がちに生きるようになっていた。だがそれが良い道行きであるという確信はいまだにない。そう、だからこそ、ああした笑い声はこの身を不安にさせるのだ。わかってはいる。しかしどうにもしようがない。
 気づくと、すでに街の端へと歩き着いていた。いま宿へ戻ってもすることがないと考え、青年は港の埠頭の方角へと足先を変えた。

FlagCorsica 港湾の事務を取り扱っているのだろう小屋の屋根には、小ぶりなコルシカの旗がささやかに舞っている。元はコルシカ独立戦争を戦った独立政府の旗章で、目隠しをされたムーア人の頭を意味したという。サルディーニャ島の州旗もたしか、これとほぼ同様の由来をもっていたはずだ。このあたりの島の歴史とはどこでも、ムーア人の海賊からジェノヴァの武装商人、フランスの革命政府などと姿を変えて存在し続けた外来の脅威に対する抵抗の歴史そのものなのだろう。
 サルディーニャの独立運動はやがてイタリア統一の枢軸となったが、コルシカのそれは結局フランスの支配下に留まった。何が二つを分けたのかと考えれば、要因は様々にあるだろうが一つには島のもつ規模の差が大きいだろう。この島はサルディーニャに比べ、ただ小さいという以上に耕地面積がずっと少なく、従って人も少ない。人々が徒党を組んで求心力を発揮し、外部の勢力に対するためにはやはり相応の規模と内実が必須の要件とならざるを得ない。組織を司る統制はそれゆえに、実効力をつねに前提において構想される必要があるだろう。従って実態にふさわしい帰結に至った否かで判断するなら、コルシカの独立戦争が失敗に終わったとは一概に言えなくなる。それによって何を得たのか、重要なのはこの一点だ。

corsicaisland そういえばコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官には、かのナポレオンの父親がいたはずだ。父親はのちフランス側に寝返り、それがもとでボナパルト一家はコルシカ島を放逐される。ネルソンがこの地で隻眼となる前年、若き砲兵士官のナポレオンは1年だけこの島に任官していたらしい。トゥーロン包囲戦でその軍事的才能を世に知らしめ、24歳にして少将に昇進するのはコルシカ赴任の直後のことだった。しかしこうしてかえりみると、一家のマルセイユ移住がのちの皇帝ナポレオンの誕生につながり、やがてフランスによるコルシカの支配をより強固なものとする素地を形作ったのだから、何とも皮肉な話ではある。とは言えいかに賢明な指導者であれ、自らの施策がもたらす結果について予めその全てを踏まえることなど不可能な話だろう。失政は政治の本質である、という格言を記したのはモンテスキューだったか。いや、違う。社会思想には自信があるつもりだが、古典がかってくるとどうにも記憶が曖昧になってしまう。まだまだ研鑽が足りないな。

 この島で隻眼となってから数年後、カナリア諸島での戦闘により右腕を切断したネルソンは、イギリス地中海艦隊を率いてトゥーロンのフランス艦隊封鎖を試みるが、物量の差もあって失敗に終わる。この失策によりナポレオンのエジプト侵攻への道が開けたが、ために陸軍のアレクサンドリア入城を支援したフランス艦隊はナイル河口においてネルソンの鬼謀に触れ、殲滅の憂き目に逢う。このとき以降フランス海軍内部には‘ネルソン恐怖症’とでもいうべき神話が生まれ、のちのトラファルガーの海戦へと連なっていくことになる。
 トラファルガー沖海戦でも艦隊を指揮したネルソンは、その洋上で生涯を閉じることとなった。彼の操る旗艦は集中砲火を浴びながら突進しフランスの戦列艦に接弦、白兵戦を行いつつ反対側の舷側ではなおも他の敵艦へ向けて片舷斉射を行っていたという。ネルソンを巡る神話はここで、明瞭な輪郭を帯びた伝説となった。一方トラファルガー沖でのフランス側の敗戦と制海権の喪失はナポレオン帝政によるイギリス本土上陸の野望を粉砕し、以降ナポレオンの食指はヨーロッパ東部へと延びていく。
 歴史はかように人間と人間との予期しえぬ連環により進展してきたが、欧州に覇を唱えた人物を生んだ島民の眼差しは至って冷静なものである。このコルシカではナポレオンその人よりも、島の為に生きそして死んだパスカル・パオリの名声のほうが今でもずっと高い。自分たちに何をもたらしたかこそが意味をもつということだ。帝王となった男より、抵抗者であり続けた男を尊ぶ気風。この島自体がそうであるように人間の本質もおそらくは、中世だろうが近代だろうがそう大きく変わることはないのだろう。

corsicasform

 そこまで思考を巡らせたところで、青年は埠頭の先端へとたどり着いた。島のほうを振り返る。海底から山がそのまませり上がるかのように、波を割る急峻な崖の岩肌が直接に峰々へと繋がり、遠く灰雲に霞む山の頂へと通じている。目指す高みがあの霞む彼方にあるとすれば、己の現在地はまさに母なる海原をようやく抜け出たばかりの今ここということになるだろう。そのどこにでもあるような比喩の凡庸さに可笑しくなって、青年はわずかに口角をゆがめた。ようやく二十歳に届こうという年齢のわりに、その笑みはあまりに大人びたものだった。
 コルシカで短い休暇を過ごしたのちスイスでの出稼ぎを終え、国へ戻った彼が社会運動に身を投じるのはこの日より数年後のことである。それから20年近くを経て、世にいうローマ進軍の先頭に彼は立ち、独裁者への道を歩むことになる。名を、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニといった。

 
2008.05.30 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
逆襲の海洋戦闘部族
◆サッサリ, Sassari, Tathari
flagsardinia サルディーニャ島の先史から古代へ至る歴史の大枠をカリアリの回にまとめたので、その続きという感じで。右の画像は現在のイタリア国サルデーニャ特別自治州の州旗である。今回の記事ではこの旗の紋様を起点としたい。
 さて描かれている4人の人物はいずれも同方向へ視線を揃え、白い鉢巻など絞めていかにも気合いが入った様子である。それゆえここに、サルディーニャ島では史上幾度も起きてきた独立闘争における抵抗の魂を読みとるとしてもあながち誤りとは言い切れない。だが直接の由来はまったくの正反対で、元は目隠しをされたムーア人を表した。赤い十字は11世紀に時のローマ教皇から賜与されたものであり、ムーア人らイスラム教徒による侵略からの加護を願ったものである。
 この時期サルディーニャもまたアフリカ沿岸から北上してくるイスラムの抑圧に抗していたが、イベリア半島東端部に発したアラゴン王国が短い間にサルディーニャやシチリアといった西地中海の島々を支配下に収めていけた理由の一つとしては、こうして同じ抑圧の共有があったと言えるだろう。[→link]

 しかし同様にイスラムとカトリックとの綱引きの場となったイベリア半島やシチリアなどと比べると、サルディーニャにイスラムの痕跡を探すことはかなり至難である。平時には宗教上の別よりも即物的な“利”を優先する商人らによる往来が優先されたのがこの一帯の常であったことを考え併せると、これは少し奇妙にも映る。つまりそこには、何らかのサルディーニャに特有の事情が憶測されることになる。端的に言ってしまうなら、ヴァンダル族による蹂躙の過去がそれである。

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 ヴァンダル族はもともと4世紀の終わり、フン族に追われてヨーロッパ北方から西方に向けて移動を開始したゲルマン人の一派であった。だがライン川を越えてガリアの地へと侵入したのちも、定住の地を巡る争いにおいて同じゲルマン系のフランク族や西ゴート族、さらには土着の民族に対しても敗れ続け、とうとうイベリア半島の南端部へと到ってしまう。ところがこの先はもう土地がないという、まさに土壇場に来て彼らは意外な躍進を見せることになる。造船技術を身につけ、艦隊をもったのである。そしてイベリア半島を支配下に収めんとする西ゴート族による執拗な圧迫から逃れるべく、西暦429年、部族はついにジブラルタル海峡を渡ることを決意する。それはまさに、時の王ガイセリックに率いられたこの部族が海洋戦闘民族へと進化を遂げた瞬間であった。
 それから10年後の439年、北アフリカ沿岸において急速に力をつけたヴァンダル族は、当時の西地中海世界においてローマと並んで最も繁栄していた街の一つ、カルタゴ(現チュニス)へと侵攻する。455年には西ローマ皇帝の後継者争いに乗じてイタリア半島へ上陸、ローマを占拠。このときヴァンダル王国の版図はすでにカルタゴを含むアフリカ北岸一帯に加え、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島を服属させるに至っていた。468年にはヴァンダル族討伐を目的として派遣された東ローマ帝国艦隊を殲滅。これは時のビサンツ皇帝バシリスクスがわずか在位1年で退位を余儀なくされる要因ともなった。

 ところで数十年に渡って内陸を逃亡し続けた彼らヴァンダル族が、どのようにしてこれだけの短期間に島々を圧し東ローマの艦隊を打ち破るだけの海軍力を身に付けたのかについての言及は、一般にあまり為されていないようだ。個人的に探した範囲では「謎に包まれている」という表現以外は皆無であった。それゆえ以下は憶測になるが、理由の半分は彼らの出生にありそうだ。ヴァンダル族の出身は北欧から東欧北部であることが確認されているが、このことから元来の生活環境がのちの時代にはヴァイキングを生んだような洋上技術の発展との親和性が高い土地柄であったと考えられる。そして理由の残り半分は、彼らが飛躍のきっかけをつかんだイベリア半島南端に恐らくある。海洋民族のフェニキア人がこの地に築いた諸港はその後も概ねカルタゴ、ローマへと引き継がれたが、紀元5世紀の古代末期においてこの一帯に依然高い造船技術が保存されていた可能性は高いだろう。素質のある者たちが、技術のある土地を訪れてその才能を開花させたという按配。
 さらに彼らは、カルタゴを首都として王国を開いた。この街の軍港[→link]には、カルタゴがローマの支配下となったポエニ戦争以降も地中海最大の艦隊を擁するに充分なキャパシティが維持されていたから、これを得てヴァンダル族の海軍力は最早盤石の態勢を固めるに至ったはずである。

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 しかし洋上の力だけでは己の部族はまとめられても、支配下に置かれた他民族の心がなびくはずもない。事実北アフリカ沿岸において外来のヴァンダル族が土着の人々から急速に支持を集めてローマの支配層を駆逐しえたのは、ガイセリックの軍隊が神の御旗を掲げていたからに他ならない。民族大移動を開始した時彼らゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派を信仰していたが、それはアフリカの北岸域でも広く受容されていた宗派だったのだ。そしてヴァンダル族がその土地に至ったとき、アリウス派はカトリック教会から異端視され迫害、追放という受難のさなかにあった。
 したがってヴァンダル王国による軍事活動は、この地域のアリウス派の人々にとっては己の信仰を賭けた聖戦の意味合いをも兼ね備えたということになる。実際彼らの軍隊は侵攻した異宗派の土地では略奪の限りを尽くし、捕らえた民にはアリウス派への改宗を強く迫った。当時の西地中海沿岸部に生活するカトリックの一般民衆にとって、彼らの存在はいつ海からやってくるかわからない異端の暴虐者そのものとして恐れられたことだろう。
 
 ここで話は思い切り前へと戻るが、現実にヴァンダルによる侵攻と支配を受けたサルディーニャの島民にとって、脅威の源が北アフリカ沿岸にある事態は中世に入っても変わらなかった。カルタゴに居座る‘異端の暴虐者’から、アルジェに巣食う‘異教徒の海賊’へとその頭部で見せる表情を変えることはあっても[→link]、現実に襲ってくる兵士は北アフリカ沿岸のムーア人という心象にずっと変化はなかったと推測できる。公(おおやけ)の旗に目隠しをした敵兵士の首を描くという発想は普通の感覚でいえばあまりに生々しすぎるが、それは所詮意識の深層に刻み込まれた血の記憶を持たない部外者の意見でしかないのだろう。
 ちなみにガイセリックらによるイタリア半島侵攻は示威活動のような側面があり、ローマを開城させると支配下に加えることなく即座に退いたが、このとき行われたローマ市街における破壊略奪行為は、現代の日常生活でもよく使われる“vandalism(公共物の損壊行為、ネット上での荒らし行為etc.)”の語源となった。荒らすだけ荒らして所有せずに去るというニュアンスは、少し可笑しいくらいにそのものだ。記事の小見出しがサッサリである必要性をまったく感じさせないこの開き直りぶりは、我ながらさすがである。もう迷いがない。
 
2008.05.16 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ヌラーゲの宇宙
◆カリアリ, Cagliari, Karalis
cagliari 日本語ではカリャリと表現されることも多いこの地には、天然の良港となる条件のほか東西を近距離で湿地に、中距離で山地に挟まれるという防衛に有利な地勢(右図)も備わっていたことから先史時代より人が住み続けた。西地中海の島々に前インド=ヨーロッパ語族による先史文明の名残りが巨石遺跡として点在することは、バレアレス諸島・パルマの回でも述べた通りである。[→link]
 その後西地中海に到達した海洋民族フェニキア人も、この土地にいち早く目をつけた。紀元前7世紀には彼らによる植民市カラリス(Karalis)が築かれる。街の歴史はこのようにして始まった。

 サルディーニャ島に生きた人々の歴史を一語で表すなら、‘島宇宙’という言葉がふさわしいかもしれない。なにしろこの島はミノア文明を育んだクレタよりも、今日二つの国勢力を島内に抱えるキプロスよりも大きく、また北隣のコルシカ島などとも異なり内陸に十分な平野部を有して大人口を養えたため、島自体が一つの広大な歴史展開の舞台となりえたのだ。しかもシチリア島のごとく殆ど地続きといってもよいほどに絶えずイタリア半島や北アフリカの大勢力に脅かされずに済むくらいには、どの近隣他地域からも距離があった。

Bronzetto この結果古くから多様なルーツをもつ人々が島の各地方に混在する状況が生じたが、その痕跡は現代にも散見できる。たとえばフェニキア語の影響も残すとされるサルディーニャ語は今も島の農村部を中心に話されているが、ほかに島北岸の街サッサリ周辺ではコルシカ語の方言、島西岸の街アルゲーロではアラゴン王国の支配に由来するカタルーニャ語方言、さらにジェノヴァ植民市となった複数の地域ではイタリア語北方方言の一つリグリア語の使用が、高齢層を主な話し手として今日なお確認される。
 またヌラーゲ(Nuraghe)と呼ばれる遺跡群を残した先史時代の人々は、フェニキア人の到来後も内陸に退避する形で長く共生し、徐々に混血化していったと考えられている。遺伝学的な裏付けもあり、今日ではヌラーゲ文明の血を引くことが‘サルディーニャ人’のアイデンティティ形成にも寄与しているらしい。

 当初今回の記事は、ゲルマン系部族のなかでも特異の軌跡を描いて古代後期この地に至ったヴァンダル族の興亡を中心としてまとめる予定だったが、文章量的に無理がありそうなので次回に。代わりといっては何だが、ヌラーゲ遺跡群の造形がなかなか面白かったので、いくつか転載。いずれもwikipediaから。興味があれば詳しくはこちらを[→link]。最近この書き方に慣れたせいか、記事一つあたりの文章量が徐々に伸びる傾向を感じていて、日常的な読み物としてはさすがに長すぎるんじゃないかという気もしてきたので、少しコンパクト化にも注意を払っていこうとぞ思うのであった。
 ともあれエーゲ海やオリエントの古代文明に比して、この地域のそれへの一般における関心は極度に薄い。近年ケルトやヴァイキングなどこれまでややマイナー視されてきた文明・文化圏の文物が静かなブームを呼ぶこともまま見られるようになったが、西地中海の前古代へと光が当たるにはまだ少し時間が要りそうだ。
 それにしてもこの数日の冷え込みよう、これはこれで異常というか異様な気がする。風邪もひいた。

Nuraghe

 
2008.05.14 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ガリア共鳴
◆マルセイユ, Marseille, Μασσαλία
provencegift ‘南仏プロヴァンス’というと、その言葉だけで愛の詩とワインとガーデニングなイメージというか、夢見がちの乙女なムードがムラムラと漂ってくる。日本の場合諸事情により実際に夢見てるのはたいてい乙女でなく有閑マダムなのだけど、昨年には“プロヴァンスの贈り物”(原題“A Good Year”)なんて映画も全国公開されて、いまだこのブームに衰えはないようだ。この作品など、グロテスクで鳴らしたあの“エイリアン”の監督リドリー・スコットが脳まで筋肉だった“グラディエーター”のラッセル・クロウを主演に迎えて完全無欠のラヴロマンスを撮ったなどというものだから、どうしちゃったのご両人とも首をかしげつつ、恥ずかしげもなく一人で上映館へ出かけたのが何を隠そうこの私なのである(照)。いやまあ、期待していたよりいい映画だったけど。
 で。マルセイユは言うまでもなく、そのプロヴァンスの中心都市である。

 なぜプロヴァンスにこうして鼻につくほどの文化的なニュアンスが付随したのかというと、そこには直接的なきっかけとなった仕掛け人や具体的な文物以前の問題として、幾つかの社会的な要因が考えられる。一つには今も昔も文化立国を標榜してきたフランスにおいて、他にない地中海性の風土が強いアクセントとなったこと。二つ目には中世以前のフランスではプロヴァンス地方が紛れもなく文化の最先端地域に属したため、その遺産が心理的にも物理的にも色濃く現代へ余韻を残したこと。そして三つ目。中世の終わりに起きたローマ教皇のアヴィニョン捕囚によって、ルネサンス盛期に至るまでこの地域が現実的にカトリック文化・芸術の中心地となり、学問発展の核となったこと。

 事例の一つとして今回はキリスト教聖歌の展開に着目してみよう。カトリック教会でのミサといえば信徒ならずとも即座にパイプオルガンの調べにのせたグレゴリオ聖歌の響きをイメージするところだろうが、実をいうとこの聖歌の形式が成立したのは意外に新しく、9世紀から10世紀にかけてのフランク王国においてだとされている。キリスト教世界では古くから地方ごとに独自のスタイルをもつ聖歌が歌われてきたが、フランク王国においてガリアの聖歌様式とローマの聖歌様式とが統合されると、大帝国を築いたシャルルマーニュ(カール大帝)はその様式のみを唯一許された聖歌として帝国下への普及を推し進めた。これにより彼の版図である西ヨーロッパ一帯では各地で独自の発展を遂げていた他の様式があらかた淘汰されてしまう。
 ここで少々脇道にそれるが、わずかに残るグレゴリオ聖歌以外の様式例として、イベリア半島のモザラベ聖歌(動画右上)とミラノのアンブロジオ聖歌(動画右下)がある。モザラベ聖歌は‘Mozarabe’の綴りからも推測できるように、イベリア半島においてはアラブ(含ムーア人)の影響が強くローマの権勢が及びにくかったため、アンブロジオ聖歌はミラノの司教区創始者でもある聖アンブロジウス自身の権威のために、各々の様式が結果的に消失をまぬがれた。ちなみに西ヨーロッパ以外のキリスト教会においては当然ながらローマによるこのような抑圧もなかった(または薄かった)ため、多様な聖歌様式が今日もなお維持されている。アフリカン・アメリカンの陽気な合唱や、フィジーの晴天に突き抜けるような歌声を想起するのもいいだろう。

 ともあれ単旋律、無伴奏のグレゴリオ聖歌は、そのストイックに研ぎ澄まされた形式ゆえにのちのヨーロッパにおける絢爛たるクラシック音楽の展開に絶えず霊感を与え続けたが、その発生源がフランク王国内であったことは必ずしも政治的な事情によるばかりでは恐らくない。というのも続く11世紀にもプロヴァンスではトルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちによる叙情歌の形式が生まれ、12世紀には北フランスをへて広く西ヨーロッパに普及するなど、現代風に言うならばモードの発信地のような役割を果たし続けたからだ。その動力源となったのが、地中海を介した異邦からの文化流入であったことは当ブログでこれまでに述べた通りである。
 トルバドゥールは騎士と貴婦人の禁欲的な愛を歌い新たな宮廷恋愛の作法を生みだしたが、たとえばこのとき育まれた愛のモティーフは東でのちのペトラルカに、またこうして磨かれた騎士道のモデルは西でのちのセルバンテスに影響を与え、やがて北のシェイクスピアらを通じて実り大きなヨーロッパ近世文学の系譜へと連なっていくことになる。

 さて伝説は街としてのマルセイユの発祥をこう伝えている。ある朝、エーゲ海を発したフォカイア人の船団が地中海北西部のとある入り江にたどり着き、土着民の首長を訪問した。折しもその日は首長の娘の婿選びを行う祝祭日であったが、いざ婿を決める段になると娘ジプティスは同族の屈強な男たちには目もくれず、なんとフォカイア人の若きプロティスを指差した。こうして決まった二人の結婚が、マッサリアの街の発端となった、と。
 マッサリア(Massilia, Μασσαλία)はマルセイユの古名だが、伝説の時代から返すがえすもこの街は、地中海とガリアの大地という二つの広大な世界の結節点を演じ続けてきた土地なのだ。

 以下は余談。右の動画は、現代的な手法によりグレゴリオ聖歌を直接の音源として使用した一作例。教授の中の人は中学時代からこの手の音楽ばかりを聴く偏屈者へと道を踏み外し始めたが、とりわけEnigmaに関しては当時付き合っていた恋人をして、BGMにいつもこの曲が流れているような人間と評さしめた過去があるだけに感慨もさらに深い。さらに深いのだが実を言うとこのPVは今回が初見で、そのストーリー性を感じさせる出来映えに少し驚いた。
 執筆中の主人公は夢魔に襲われ、気づくと修道士の姿となって廃墟の教会をさまよっている。そして廃墟の暗がりに地獄の門の存在をみとめると、注意深く門前へと足を踏み入れる。突如脳裡を襲う劣情の翳りにしばし戸惑い、扉を開くべきか否かを逡巡したのち、あらためて軽く門扉へと手を触れる。すると見るからに重たげな鉄扉はいとも簡単に間口を開け、その奥にのぞいたものは。

 この映像の冒頭部における、闇に注ぐ斜め上方からの光の構図は恐らくカラヴァッジョを意識したものだろう。より直截には“執筆する聖ヒエロニムス”[1606,右下図]を強く連想させる。カラヴァッジョを巡ってはその破天荒な生き様に引きずられてどうしてもセンセーショナルなイメージばかりが先行してしまいがちだが、純粋に作品の質的な面からみても、いまだ一般に正当な評価を得るには至っていない画家である。このことはベラスケスやレンブラント、フェルメールといった光と闇の魔術師と畏怖される巨匠たちのいずれもが、彼らのほぼ半世紀前を生きたカラヴァッジョの作品群に少なからぬ影響を直に受けているという一点のみをとっても明白なことだと言える。
girolamocarabaggio PVに映し出される主人公の青年は描かれた聖ヒエロニムスに比べてかなり卑近な煩悩に捉われている観もあるが、己の暗部を突き放すのではなく丸ごと呑み込もうとするそのような態度こそがカラヴァッジョの真髄ともいえ、またこのPVの指し示す結末にもつながるようにどこか思える。こうして考え巡らせるとそれはまた、陽光に溢れてフランス北部とは異なる性質をもったオクシタニアの東端に位置し、ブルゴーニュの深い森へもアルプスを背にしたイタリア・ロンバルディア地方へもそう遠くないプロヴァンスの土地が必然的に抱え込まざるを得なかっただろう、相矛盾する諸物に対する鷹揚さ、おおらかさにも重なって見えてくる。
 
2008.05.10 * 西地中海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
十字軍、西へ
◆モンペリエ, Montpellier, Montpelhièr
 ヨーロッパという事象を遙か遠方からの眼差しによってとらえる私たちは、えてしてフランスやイギリス、スペイン等といくつかの要素に分けて考えるきらいがある。各要素はそれぞれに固有の色合いと履歴をもち、その実相は互いに相異なる、というように。そしてそのようにみなしたとき、どうしても要素間の差異のみを過大視しがちになってしまう。だがこれが根本的に誤謬であることは、国であればその国の歴史を眺めることにより直ちに了解できる。フランスの場合、南部オクシタニアの歴史ほどそれに相応しい事例はない。

Occitanie 中世フランス南部の中心都市トゥールーズの起源は古代ケルト人にさかのぼる。街のケルト名トロサは、北部パリのフランス王朝による13世紀の実効支配に至るまで公式にも存続した。このトロサを中心として、東はマルセイユ・モンペリエから西はボルドーまでに影響力をもったのがオック語を話す人々による、いわゆるオクシタニア文化圏であった。古代ローマ帝国崩壊後の地中海世界において文化・文明の成熟度が南高北低の状態を長く維持したことはこれまでにも見てきた通りだが、それは現在のフランスに相当する地域内においても同様だった。フランス王朝の首都パリがまだシテ島周辺にようやく城下町を形成しはじめた頃、高度に発達した社会制度を抱えたイベリア半島にほど近いトロサはすでに大規模な交易都市を築いていた。
 オック語はフランス北部のオイル語(現在のフランス語)よりも様々な面でカタルーニャ語に近いとされるから、このことも相対的なオクシタニア繁栄の一因であったろう。殊にモンペリエをはじめとする地中海沿岸部は古来よりアラブ世界との交易も盛んであり、またフランス王国が強勢を誇り始めてからも長くバルセロナに本拠を置くアラゴン王国の支配下であったこともある。それゆえドーバー海峡を隔てたブリテン島勢力との抗争こそが焦眉の課題であり続けたフランス北部に成立した王国とは、気候風土から文化・言語、交易の形態までもすべてが違う‘異国’であった。このことを下地として、13世紀オクシタニアを大規模な戦役が襲うことになる。
 世に言う、アルビジョア十字軍の侵攻である。

 この十字軍はオクシタニアにはびこる異端の徒‘カタリ派’の撲滅を大義とした。しかしたとえば十字軍最初の攻撃対象となったオクシタニア東部モンペリエ近郊の町ペジェにおいては1万人を超える人々が虐殺の犠牲となったが、うちカタリ派信徒はわずかに500名だったとも200名だったとも言われている。またこの戦役を契機としてフランス王朝がオクシタニアを領土に加えたことからも明らかなように、掲げられた大義と実際の思惑との間に相当の距離があったことは疑いようがない。
 フランス王家を実力的に凌ぐとも見られたトロサ伯家はこの戦役によって没落を余儀なくされるが、その過程では当時ボルドーを支配下に置いていたイングランドや東のドイツ神聖ローマ帝国、南のアラゴン王国と連携し対フランス大同盟の結成をも画策した。これはフランス王家にとって異端撲滅が、到来しうる窮地に備えローマ教皇を味方につけるための餌に他ならなかったとする所以でもある。

Cathars_expelled たしかにカタリ派は存在した。だがローマを頂点とするカトリックの教会組織にとって彼らが異端の徒であったのとまさに同じ意味で、カタリ派の論理によれば腐敗したカトリックの教会組織こそが悪魔の象徴そのものだった。今日では悪名高いカトリック世界における異端審問官の制度はカタリ派との抗争のなかで登場したものだが、そもそもカタリ派自体がカトリック聖職者の汚職や堕落への反対運動として興隆した経緯も見過ごされてはならないだろう。この面ではのちのプロテスタントによる宗教改革にも直に通じるものがある。
 そういえば来たる大航海時代において、カトリック教会はプロテスタント運動による失地を中南米やアジアへの布教活動によって回復しようと試みたが、この時最前線の一翼を説教者修道会、通称ドミニコ会が担っていた。そのドミニコ会の創始者ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセスは、まさにアルビジョア十字軍が到来する直前のオクシタニアにおいて孤高の足跡を残した修道士であった。堕落した教会組織とは一線を画したカトリックの本領を説く者として、一人街角に立ったのである。

 現在のモンペリエは、カトリックの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のスタート地点としても知られているが、ピレネー山脈を抜けて長く東西に横たわる巡礼路の歴史は遠く10世紀までさかのぼる。巡礼路の整備がイベリア半島においてはレコンキスタの展開と、ピレネー山脈以北においてはカタリ派との抗争と連動して進められたことは想像に難くない。
 サンティアゴ・デ・コンポステーラに祀られる十二使徒の一人聖ヤコブは、レコンキスタの気運高まるなかで‘ムーア人殺しのヤコブ(Santiago matamoros)’の異名で呼ばれたという。異端審問官の任に就くことの多かったドミニコ会士が庶民から恐れられ、‘イエスの番犬(Domini canis)’と名指されたのにどこか似ている。いずれにしてもなんと皮肉な呼び名だろう、と思えるのは気のせいか。

 
2008.05.07 * 西地中海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
反骨
◆バルセロナ, Barcelona, Barkeno
sagradafamilia ‘反骨’の二文字ほど、カタルーニャ地方の歴史を一語で表現するのにふさわしい言葉はないだろう。外来の支配者に対する叛乱が頻発したからというばかりではなく、戦時において反逆の英雄を幾人か輩出したからというばかりでもない。そこに生きる人々が今なおその精神を色濃く息づかせているという点で、現に反骨の気風に満ち充ちた土地なのだ。
 バルセロナはその歴史の始めから、カタルーニャの中心都市であり続けた。街の起源はカルタゴの英雄ハンニバルの父、ハミルカル・バルカにさかのぼる。名将として鳴らしたバルカは自らの地歩を固めるべくイベリア半島東岸に幾つかの拠点を築いたが、その一つとしてこの街の歩みは始まった。フェニキア語の古名バルケーノ(Barkeno)に由来する名をもつこの街は、ゆえにバルカの家名そのものを纏い続けているとも言える。記事の流れをこのままに、フランク王国との相克やバルセロナ伯の巧みな外交戦略、アラゴン王国基幹港としての繁栄やスペイン継承戦争後の相対的な没落、そして内戦をへて現代の復興へと至る歴史を概観するのもいいが、今回は趣向を変えていきなり21世紀現在へ突入する。

 さて「バルセロナ」の語を日常耳にする機会としては、世界的に著名なFCバルセロナ関連の報道をまず思い浮かべるひとも多いだろう。ロナウジーニョを始めとするスター選手たちはもとより、FCバルセロナの本拠地スタジアム‘カンプ・ノウ(Camp Nou)’の名ですらも、スポーツをあまり観ない人々にも広く知れ渡っている。
 このスタジアム、“カンプ・ノウの奇跡”のような形でサッカー史に残る試合を数知れず演出してきたのは言うまでもないこととして、その枠を超え出て世界史におけるカタルーニャの展開を巡っても鮮烈な一幕を演じたことがある。この地方ではスペイン語とは異なるカタルーニャ語が話されていることはよく知られているところだが、前世紀の半ば30年に及んだ将軍フランコによる軍事独裁政権下にあって、公的な場でのカタルーニャ語の使用は激しい弾圧の対象となっていた。ところが、である。カタルーニャ地方においてそれが許された唯一の場所がある。そう、カンプ・ノウの中なのだ。1957年に完成しヨーロッパ最大の収容人数を誇るこのスタジアムは、FIFAの規定により現在はその数を9万人台に抑えているが、かつてワールドカップ開催時には12万人を収容する能力を公表してもいた。それだけの集団が精神を昇ぶらせ得る場所で、下手に抑圧など加えられないというのが恐らく政権側の本音だったろう。つまりカンプ・ノウがカタルーニャ叛乱の震源地になりかねないという認識があったことになる。
 またフランコはレアル・マドリードを支援して、アスレティック・ビルバオやFCバルセロナといった当時の強力チームから有力選手を奪うなどの強権を行使した逸話をもつ。そうした背景を踏まえてみると、今日でも伝統の一戦として名高いレアル・マドリードvsFCバルセロナの試合“エル・クラシコ(El Clásico)”を包む尋常でない空気の出処も推測できようというものだ。

Toros-SANAA

 話変わって上画像の左はバルセロナ市内の闘牛場。かつてスペイン国内の各都市において闘牛場は観光資源の柱であったが、旅行者の趣向の変化もあって今では下火となり、ことに闘牛は元来カタルーニャの文化ではないという心情的忌避も働いて、バルセロナでは同州議会によりすでに廃止が決定されている。こんなところにもプチ反骨の萌芽あり。サッカーだってべつにカタルーニャ発祥の文化じゃないんだけど、なんていうツッコミはたぶんしないほうがいい。カタルーニャ2千年の反骨心があなたに対して発動する恐れがある。
 上画像の右は昨年催されたカンプ・ノウの改築コンペにおける決定案。設計者は30セント・メリー・アクス[ロンドン:→link]や香港上海銀行本店ビル[香港:→link]などで知られるノーマン・フォスター卿。闘牛場もサッカー場も、必要以上に光っている。目下進行中の情報革命により現代社会は多くの面で生理の感触定かならぬヴァーチャルの世界へと重心を移しつつあるが、見世物の世界でも闘牛における命の奪り合いというリアルから、代理戦争とも表現される象徴上の戦いへの移行が起きたとすることもできそうだ。

FCBarca ともあれこんな記事になったのは、昨夜ゲーム内の知り合いにつられて夜更けまでFCバルセロナvsマンチェスター・ユナイテッドの試合を観戦してしまったからで、それにしてもUEFAのチャンピオンズリーグってちょっと派手すぎやしないかと思う。なにこの世界選抜vsなんという世界選抜、みたいな試合ばかりじゃないか。豪華絢爛への道をゆくスタジアムの外観にしても、観客に死者が出たというようなありがちな騒動にしても、もはや単なるスポーツ興行の域ではない。演劇性も祭儀性も政治性までをも飲み込んだ、虚実定かならぬ幻影装置と化している。
 考えてみるとカタルーニャを代表する芸術家として即座に思いつくアントニ・ガウディやジョアン・ミロ、サルバドール・ダリなどはいずれもその作品世界に底知れない謎を感じさせる人物ばかりである。同じスペイン出身でもピカソやガルシア・ロルカのように個人の内面を深く掘り下げた帰結として開示される‘個の感性’による俊敏な表現とは明確に異なる、個人の底を割った先に蠢く集団的な夢幻とでもいうべき異様なムードを彼らはともに湛えている。とすれば紀元前の時代から今日まで連綿と受け継がれてきたカタルーニャ精神の基底では、個を無化させてしまう種の強い感染力が息を潜めているのかもしれない。ちょうどカンプ・ノウがそうであるように。
 
2008.05.01 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
       
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