Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
東進するアラゴン
◆パルマ, Palma de Mallorca, بالما دي مايوركا
La Seu ジブラルタル海峡からシチリア島へと伸びる西地中海において、バレアレス諸島はそのほぼ中央に位置し古来より航路上の中継地として栄えてきた。同諸島の中ほどにあって最大の面積を誇るのがマヨルカ島(スペイン語方言によってマジョルカ/マリョルカとも)で、パルマはマヨルカ島の中心都市である。イタリアのパルマと区別する意味で一般にパルマ・デ・マヨルカとされる。古代ローマ時代の名称はパルマリア(Palmaria)。
 この港も例によってフェニキア人を起源とするが、その後の支配者変遷の軌跡はそのまま西地中海における制海権の所在を示すバロメーターともなっている。紀元前2世紀のローマによる征服後は4世紀にアフリカ北岸に拠点を置くヴァンダル王国、6世紀にローマ世界の再構築を目指したユスティニアヌス帝のビサンツ帝国、8世紀以降はイスラム諸王朝へとバトンが渡され、13世紀にレコンキスタの機運高まるアラゴン王国の支配を受け、王国が数度に及ぶ隣国との合体を経てスペイン王国となり現在へと至る。なおマヨルカ島や隣のメノルカ島には‘Talaiot’と呼ばれる青銅器時代の巨石遺跡が残っていて、コルシカ・サルディニアといった西地中海の他の島に残る遺跡との連関が考えられている。[→link] また島の南西岸に位置するパルマがフェニキアやイスラムの影響を残すのに対し、北東岸に位置する港町アルクディア(Alcúdia)が円形闘技場など古代ローマの面影をより強くもつことは興味深い。この点でも、地中海の勢力図がそのまま島の地勢に縮図となって反映されている観がある。

 ところで日本語の観光関連サイトやガイドブックの類をあたると、マヨルカの見どころとして筆頭にあがるのは大抵パルマのカテドラルのようである。近代以降のヨーロッパ世界でこの島が観光地として注目された理由は本来その気候と海にあるのだけれど、そこは浜辺で何日も過ごすことができない日本人向けに書かれているからだろう。
 この大聖堂、元はモスクのあった場所に、マヨルカを征服したアラゴン王ハイメ1世が建造を開始した。着工は島の征服と同じ1229年である。そして最初の完成がなんと1601年。この気長さ、即座にバルセロナのサグラダ・ファミリアを思い起こすところだが、その設計者であるアントニ・ガウディはパルマのカテドラルの改築プロジェクトにも携わっていた。彼が加わったのは1901年で、1914年に教会側と口論になって手を引いている。頓挫したとはいえ14年も関わったのだから今に残るその影響いかばかりかと期待も膨らむが、プロジェクトそのものは彼が参与する半世紀前から進んでいたらしい。とにかく時間のスケールがでかいのだ。というわけでこの聖堂におけるガウディの遺産はごく一部となるのだが、それでも一見してガウディ然とした異様を湛えて建築内全体のムードを変調させてしまうのがやはり彼の彼たる所以だろう。
 ちなみにこのカテドラルの身廊部分(nave)の天井高44mは、ヨーロッパ全体でもトップクラスの高さを誇る。[→link:6位にランク] 冒頭画像(上右)はその身廊天井を見上げたもの。下図はガウディによる変更部分、天蓋装飾と聖歌隊席。

laseudegaudi

 ハイメ1世率いるアラゴン王国が、イベリア半島内のレコンキスタ完了より数世紀も早くバレアレス諸島の支配に動いた理由としては、本土バレンシア以南のイスラム勢力に比べて駆逐が容易だったということも無論あるだろうが、カスティーリャ王国など同じ半島内のキリスト教諸勢力との軋轢も大きかったと推測される。そのあたりはポルトガル王国によるセウタ進出とも似た背景を窺わせるが、セウタ進出がのちのポルトガルによる大西洋航路開拓の先鞭となったように、この早い段階でのバレアレス諸島征服はのちのスペインによるサルディーニャ、シチリア、そしてナポリ王国の南イタリア、アテネ周辺のギリシア支配へと至る版図拡大の歴史にとって必要不可欠の意味をもった。「スペインによる支配」と一口にまとめると見えにくくなってしまうが、こうして地中海に版図を広げたのは実質的にアラゴン王家の勢力で、ハイメ1世の時代すでに王国における公用語の一つであったカタルーニャ語はバレアレス諸島はもとより、イタリア支配の長いサルディーニャ島の一部でも今なおその方言が確認できる。この点は中南米に浸透したスペイン語が“カスティーリャ語”であることと実に対照的なところで、イベリア半島各地方の自治的な性格は近代以降のスペイン・ポルトガル没落の一因ともされているが、こう考えてくるとそうした性格に由来する競合的な動機付けがなかったら、そもそもスペイン・ポルトガルによる大航海時代が到来したかも怪しくなる。

 この「身近に競合者をもつことの強さ」は今日でも新自由主義(ネオリベラリズム)のような形でしばしば世に喧伝されるが、個人的には大嫌いな思想の一つだったりする。卑近なところでは「ライヴァルを意識しろ」とか、「つねに目標をもて」とかね。そうした底の浅い発想ばかりを重視するというのは、それはそれで確実にある種の病気だと思う。今のスペインみたいにそういうことを基本的に全て放棄してまったりと停滞をかこつというのも人間の営みとして当然アリだろうと思うけど、いま日本社会でそれができるのは老後に入った団塊世代かニート・引きこもりの若者たちだけだ。それができずに苦悩する人々が行動に出た結果としての、トップクラスの自殺大国の姿がここにある。この国ではふつう停滞即困窮を意味するから、一度首をもたげただけで救いのない八方塞がりの闇へとたやすく陥ることになる。
 と、心が荒みはじめた頃合いを見計らって、さいごにこのサイト[→link]を紹介して締めとしたい。マヨルカ島に嫁いだ日本人のかたによるブログなのだけど、文章と写真のバランス、生活者視点と訪問者視点の按配がとてもいい感じで、う〜ん。 なごめる。
 
2008.04.29 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
魂深きラ・マンチャ
◆バレンシア, València, فالنسية
fellasvalencia ありのままの人生というものを、私はこれまで嫌というほど見てきた。息を引きとる仲間を両の腕に抱いたこともある。彼らはみな虚ろな目をして、俺はなぜこうして死んでいくのかと私に聞いていたのではない。こんな人生のために今まで生きてきたのかと私に聞いていたのだ。ああ人生自体が気違いじみているとしたら、では一体、本当の狂気とは何か。本当の狂気とは。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。だが、最も憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折り合いをつけてしまい、あるべき姿のために戦わないことなのだ。 

 舞台“ラ・マンチャの男”のクライマックスにおける、劇中劇の主人公アロンソ・キハーナの台詞を冒頭に挙げてみた。アロンソ・キハーナ、愛馬ロシナンテを駆る稀代の騎士、自称ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ。‘ラ・マンチャ’とはイベリア半島南東部の内陸に広がる高原部をさす地方名。海への出口としてはバレンシアが最も近い。‘マンチャ’は‘乾いた土地’を意味するアラビア語に由来し、その名の通り乾燥して風が強い。風車のよく似合う土地である。
 『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスもまた、ラ・マンチャの空気を存分に吸って育った。彼がレパントの海戦に自ら出向き奮戦のあげく片腕の自由を失ったエピソードはよく知られているが、帰還中バルバリア海賊に捕らわれたことはあまり知られていないかもしれない。このとき、捕虜として5年間をアルジェで過ごした。また入隊する以前は、20代前半の数年間をローマで過ごし書物を読み漁っている。このローマとアルジェでの体験はのちの創作に活きるところ大だったろうが、とりあえずアルジェから解放されたあとの30代における彼の暮らしはあまりパッとしない。アルマダの海戦時、彼はスペイン国内にいて戦時物資の徴発を生業としていたが、徴発元の教会から恨みを買って投獄される。敗戦後は徴税官の職を得るも、税金を保管した銀行が破産、残った負債を支払えずに再入獄。この時すでに40代。ようやく『ドン・キホーテ』の前篇が出版された年には齢58に達していた。その波瀾万丈ぶり、ある意味ドン・キホーテ以上に壮絶なものがある。

delamancha 『存在の耐えられない軽さ』の作家ミラン・クンデラは、『ドン・キホーテ』を評してこう述べている。

 ‘かつて宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、事物に個別の意味を与えていた神が、その地位からいまやゆっくりと姿を消そうとしている。ドン・キホーテが自らの家を後にしたのはまさにこのときだったが、すでに辺りは名状識別しがたいものとなっていた。至高の「審判者」の不在のもと、世界は恐るべき両義性のうちにその身を横たえていたのである。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになった。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある小説が誕生したのである。’ 
≪評論「軽視されたセルバンテスの遺産」より抜粋、要約≫

 狂気と正気、夢と現実、ありのままの人生とあるべき姿。ドン・キホーテに限らず、セルバンテスに限らず、近代を通過して人々は誰しもがそのはざまにあって引き裂かれまいとする不安と苦しみを背に負わされるようになった。こと現代にいたっては、社会全体がより一層の孤独感を個々人に植え付ける装置と化した観すらある。新訳の出版でドストエフスキーが若い世代に静かなブームを呼んでいるというニュースを最近目にしたが、彼もまた『ドン・キホーテ』を‘人間の魂の最も深い、最も不思議な一面’をえぐりだした、‘人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物’≪『作家の日記』≫と絶賛している。‘最も偉大’で‘最ももの悲しい’、とここにも覗く両極性。頑強に独立を貫いたバスクやカスティーリャを北に、800年の長きに渡って栄えたイスラムの都を南に抱え続けたラ・マンチャやバレンシアなどイベリア半島中部の風土が、そこに深く影響したことは疑いのないところだろう。

Albacete 画像1枚目は有名なバレンシアの火祭り(Las Fallas)における一場面。2枚目はギュスターヴ・ドレによる『ドン・キホーテ』挿絵。3枚目(右)はラ・マンチャ地方で撮られた落日の光景。
 実をいうとマラガの項目を書きあげ、次はバレンシアか何書こうとぼんやり思い巡らせていたまさにその時、唐突に日比谷の帝国劇場で興行中の“ラ・マンチャの男”[→link]のS席チケットをもらってしまった。前日になって当人に急用ができたという理由らしいが、これなんてマンガ?的展開だった。というわけで、観てきた結果がこの記事の態である。主演の松本幸四郎、“ラ・マンチャの男”を演じて1100回というだけあって、色眼鏡なしで凄かった。松たか子も年齢の割に年季の入った演技を見せてくれたし、何より声の張りが予想外に強く驚いた。テレビへの露出度が高い役者の舞台はチケットも無駄に高くなるので自腹を切ることはまずないが、たまには行くといいかもねなんて思いを新たにした次第。役柄とはいえのっけからリアル父が娘に求愛するシーンがあり、皇居の隣でこれをやるってこの国まだまだイケるかもとか支離滅裂な恍惚感に一瞬襲われた。ブルジョア劇場も捨てたものではありませぬ。とか。
 
2008.04.26 * 西地中海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
アンダルシアの赤い壁
◆マラガ, Málaga, مالقة
 カナンの地を発した古代の海洋民族フェニキア人は“ヘラクレスの柱”に達したことで、その後の歴史展開において地中海世界をひとまとまりの圏域としていわばフォーマットする役割を果たしたが、マラガは彼らによって築かれ栄えた、イベリア半島における最も初期の港の一つである。

AlcazabadeMalaga

 交易を生業としたフェニキアの民は当初シドンやティルスといった地中海東端の本拠地近隣で産する物資を商ったが、やがて港市がアッシリアなど外来勢力の支配下に置かれると、特にレバノン山脈下の鉱山群から採掘していた各種金属の需要が帝国の版図拡大に比例して増大した。そこで新たな供給源を求めて西方へと目を向けた結果、カルタゴを経てイベリア半島の鉱山群にその活路を見出すことになる。スペインの鉱業は現代でも世界有数の規模を誇り、世界市場を形成する鉱物のほぼ全種が国内に存在するとも言われている。その大半がイベリア半島南端部を走るネバダ山脈やセビリア北方のモレーナ山脈に集中するから、この一帯に開かれた交易港が早くから繁栄したのも自明の理といえるだろう。‘マラガ’の名は古代フェニキアの言葉で塩を意味する‘マラカ’に由来し、この港で魚が塩漬けにされたことによるという。この場合の塩とは主に岩塩を指すが、考えてみると岩塩もまた立派な鉱物に類している。

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 ところでフェニキア人の時代カルタゴとイベリア半島の港をつないだのが北アフリカ沿岸ルートであることは前回にも述べた通りだが、中世の始め、まったく同じルートを辿って新たな思潮がこの地域を一色に染め上げてゆくことになる。イスラムの興隆がそれである。とりわけイベリア半島においては、アブド・アッラフマーン1世による半島のイスラム勢力統一と侵入したフランク王国軍の撃退によって基礎の固まった後ウマイヤ朝下での学芸の発展が目覚ましく、この発展がのちのヨーロッパ世界に寄与した影響の底知れなさについて疑義を唱えることは殆ど不可能とすら言える。イスラムの興隆についての記述がヨーロッパ世界への言及に帰結するこの物言いはイマイチこなれた感じがしないかもしれないが、現実的に考えればむしろその違和感にこそ両者を無前提に‘別モノ’と捉えてしまう先入観の息吹が聴き取れる。たとえばシャルルマーニュ率いるフランク王国の軍隊がピレネー山脈以南に侵入したのはサラゴサ(イベリア半島北東部の都市)のアミール(イスラムにおける首長の意)が後ウマイア朝に抵抗して発した援軍要請がきっかけとなっていて、ある立場をとれば異教徒の軍隊を招き入れるなど無節操にもほどがあるということになるけれど、その立場とは果たして万人を納得させるほどのものなのか、あらためて考えるとよくわからなくなる。

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 そういえば中世スペインの英雄エル・シドは、時代的な文脈からレコンキスタの騎士として描かれる一方で、イスラム世界での信望も厚かった。中世イベリア半島の中枢都市コルドバはマドリッドがまだ村でパリがようやく4万の人口を数えた時代に50万の人々を養う大都市となったが、そこではイスラム教徒に限らず多くのキリスト教徒やユダヤ教徒もまた文化の振興や学術の発展に直に携わっていた。アルジェの回でハイレディンの後継者にはキリスト教やユダヤ出身の海賊も多くいたことに触れたが、逆に中世のキリスト教勢力においてイスラム出身の軍人が指揮官の地位にまで昇る例がどれほどあったかを考えると、どちらが閉鎖的もしくは陰険な社会であったのかも、必ずしも世間で流布されているイメージの通りではないことが見えてくる。シャルルマーニュが行ったスペイン遠征は古フランス語による叙事詩“ローランの歌”のモデルとなったが、ここで主人公ローランを敗死させたのは結局味方内の怨恨による謀略だった。のちの中世ヨーロッパ社会はこれを十字軍の応援歌としたが、よってイスラムの側から見れば惨めな自滅の歌にも聴こえそうではある。こう書くと一方へ無闇に肩入れしているように映るかもしれないが、そこらへんは半ば自覚的にやっている。根拠の薄さについてはフェアだろうと感じる範囲で逆の立場をとってみる、というだけの話として。

Abencerrajes

 画像1枚目はマラガのアルカサバ。アラブ人のつくった中世の城塞は一般にカスバ(qasbah, قصب)と呼ばれるが、スペインにおける通称はアルカサバ(Alcazaba)となる。アラビア語の定冠詞‘al’が付いた‘al-qasbah, القصبة’のまま一般名詞化したのだろう(たぶん)。グラナダのアルハンブラ宮殿外壁とよく似た外観だが実際ほぼ同時代に同じ構造、材質により建てられた。画像の2枚目はコルドバのメスキータ内観。メスキータはアラビア語の‘masjid, مسجد ’に由来しスペイン語でモスクを意味するが、固有名詞的にコルドバのそれを指すことが多い。3枚目はそのメスキータの外壁。最後の画像(直上)はアルハンブラ宮殿内・二姉妹の間(Sala de las Dos Hermanas)の天井を彩る鍾乳石飾り。マラガの記事に近隣とはいえコルドバやグラナダの写真を含めるのは微妙といえば微妙だが、スペインのイスラム文化に焦点を当てた記事を別に立てる心積りも現状ないので、一応ここで軽くまとめたものとしてお許し願いたい。ってモニターに向かって許しを請う自分もおかしなものだけど、いやこれは読者であるあなたに請うている。でも受話器を耳にあてたままお辞儀してるひとってたまにいるよね、あんな気分かもしれず。って頭さげてはいないんだけど。遺された史料によると、何でもいいから最後にオチをつけないと気が済まないのが2008年春の流行様式であったらしい。

 
2008.04.25 * 西地中海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
ヘラクレスの柱
◆セウタ, Ceuta, سبتة
ceutasatellite 大航海時代Onlineの世界でセウタはジブラルタル海峡を抜けてやや奥まった位置に設定されているが、実際には海峡の東側出口に接する形で横たわり北岸の街ジブラルタルと直に向き合っている。

 現在はスペイン領のこの街を最初にイスラム勢力から切り取ったのは15世紀初頭ジョアン1世治下のポルトガル王国で、このとき立てた武勲を皮切りとしてアフリカ西岸航路の開拓に乗り出し、喜望峰を越え遙かインド・東南アジアへと版図を連ねるのちの海洋王国への道に先鞭をつけたのが、かのエンリケ航海王子である。
 このセウタ攻略は、イベリア半島のイスラム勢力駆逐を志すポルトガル王国のグラナダ侵攻を、隣国のカスティーリャ王国が良しとしなかったために矛先を変えて行われたという経緯がある。ライヴァルの思惑によってポルトガルは期せずして、イベリア半島のレコンキスタ完成を待たずにアフリカ大陸へと進出することになった。エンリケ航海王子がプレステ・ジョアンの伝説に心酔したことはよく知られているが、大航海時代の先駆けはこのようにして宗教的熱情や使命感の入り込む余地が大きい素朴なものだったとまずは言うことができるだろう。
 1580年のスペイン王フェリペ2世によるポルトガル王位の継承時、本国とともにセウタの街もスペイン統治下に吸収されるが、のちにポルトガルが再独立を果たしてもこの街はスペインへの帰属維持を望んだため、以後スペイン領として今日に至っている。
 
 現代においてスペインは英領ジブラルタルの返還を求めつつも、モロッコからのセウタ返還要求は拒み続けているが、その言い分がなかなかふるっている。ジブラルタルは18世紀初頭に英国領とされる以前はスペイン王国領であったのに対し、今に続くモロッコのアラウィー朝が成立した1660年において、セウタはすでに伝統的にスペインの街であった、というのである。たしかにスペインは今も立憲君主制の王国だから、その理屈は一見完璧にも映る。が、国体の継続のみを根拠とするその論理展開がそもそもむにゃむにゃ(以下略)。
 このセウタを巡るスペイン-モロッコの関係とジブラルタルを巡るイギリス-スペインの関係は相似的かつ対照的で、現代世界における南北問題をも巻き込んで互いに入れ子のような構造を見せて興味深い。ついでなのでジブラルタルについても触れておく。

◇ジブラルタル, Gibraltar, جبل طارق
 セウタもジブラルタルも、大本をたどるとフェニキア人に行き着く。彼らはイベリア半島を重要な資源獲得地としたが、当時の航行技術では沿岸航行が基本となったため、海際には一日に進める距離ごとに拠点が築かれた。その距離はおよそ50kmというから、アフリカ北岸に点在する歴史ある都市のほとんどはフェニキア人がその起源に絡んでいると考えて良いだろう。ただしそれは多くの場合単なる中継地としての用途や内陸の原住民に対する防衛上の都合から岬の突端や岸壁のへりに築かれたため、街として発展するためには中心を内陸に移す必要がいずれ出てくる。カルタゴの遺跡が現代のチュニス市街より海側に集中するのもそのためだが、セウタとジブラルタルに関しては航路上の要衝であること自体がその後も優先的な意味をもち続けたから、現代の街並みも海にせり出した形で狭い土地の内側へひしめくように展開している。ちなみにセウタ・ジブラルタル双方の岬の尖端部分はいずれも急峻な山岳状になっていて、両方併せて「地中海の出口には二本の‘ヘラクレスの柱’が立っている」として古代のギリシア〜エジプト世界にもよく知られた存在だった。

therock ジブラルタルが正式に英国領とされたのはユトレヒト条約によってスペイン継承戦争が収束に向かう1713年のことだが、イギリスがこの地を求めたのは直接的な領土的野心や対スペインの敵愾心からというよりは、より広く地中海全体を射程に置いた戦略上どうしても欲しかったのであれこれ言いがかりを並べて占領したという面が大きい。世界の五つの海を制した大英帝国海軍がそこまで地中海にこだわる理由を不思議に思う向きもあるだろうが、英国最大の植民地であるインドと本国との最短通商路はエジプトの陸路を経由する地中海航路であった。ゆえにスエズ運河が開通すると、まだ所有するフランスに使用料を払っていた時代から地中海航路の保全はおのずとイギリス海軍における最優先事項となった。かのネルソン提督もその任に就いた地中海艦隊司令はジブラルタルを拠点としたから、もしここがイギリス領とならなかったらナポレオン艦隊を殲滅したナイルの海戦も、史上名高いトラファルガーの海戦も今に伝わる形とはかなり異なる様相を見せたことだろう。
 大航海時代Onlineの世界では今後まとめて実装する計画でもあるのかというくらい、この時代に栄えた各国の軍港が揃って登場していない。イギリスのジブラルタルやポーツマス、フランスのブレスト・トゥーロン、スペインのカディス、ヴェネツィアのコルフ島等々がそれにあたるが、これら海事拠点を巡る攻防に海域制圧等も絡めた新システムを導入するとかなり面白いことになりそうではある。そういうことはそのうち姪っ子がまとめて書きそうな気配もする。でもいつ書くんだとかは聞かない。怖いから。

 今日ジブラルタル市民の間ではスペインへの返還を望む声は小さく、かといってユーロ圏への接続も捨てがたい。そこでEUによる直接統治領のような形を望む声が増しているらしい。その点でもセウタとは事情が異なっていて、南北の格差が激しい現状ではいかなる形であれセウタ市民が‘アフリカ’への帰属を望むことはないだろう。こうしたあたりの顛末も込みで‘世界飛び地研究会’のセウタ[→link] とジブラルタル[→link] の項が面白いので興味あるひとにはお薦め。というか有名なので言わずもがなかもしれないが、このサイト自体が無類に面白い。それを面白いと感じる種のひとにとっては、という条件付きだけれども。以前都心のスペイン料理店で両親と年に数度の食事をした折、父がいきなり‘世界飛び地研究会というサイトがあってね’と話を振ってきたのでのけぞったことがある。血か。要するに血だったのか。もはやこれまで。
 
2008.04.23 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ハイレディンという栄光
◆アルジェ, Algiers, الجزائر
 この街を拠点とした著名な海賊を、幾人かまず挙げておく。いずれも大航海時代のヨーロッパ人を震撼させたバルバリア海賊の頭目たちである。生没年と出生地を併記。
HayreddinRosso
ウルージ・レイス, Oruç Reis, Arrudye Barbarossa
  1474-1518 レスボス島(エーゲ海)
ハイレディン・バルバロッサ, Hızır Reis, Hayreddin Barbarossa
  1478-1546 レスボス島(エーゲ海)
カーチャ・ディアブロ, Aydin Reis, Cachi Diablo
  ? -1534 カラマン地方(アナトリア半島)
ドラグト, Turgut Reis, Dragut
  1485-1565 ボドルム島(エーゲ海)
シナン・パシャ, Sinan Reis, Sinan Pasha
  ? -1553 出生地不明(ユダヤ人)
ウルグ・アリ, Uluj Ali Reis, Giovanni Dionigi Galeni
  1519-1587 カラブリア(南イタリア)

 英字名は一番目がオスマンサイドでの呼称、二番目がヨーロッパサイドにおける通称もしくはヨーロッパ名。彼らをはじめシチリア島以西のアフリカ北岸を根城とした海賊たちを、同時代のヨーロッパ人はバルバリア海賊と呼んで怖れ、また蔑んだが、とりわけアルジェはバルバロッサ兄弟による制圧後西地中海における海賊の最大拠点となった。
 このことがヨーロッパ世界において脅威であった理由はその地勢にある。まず第一にこの一帯はローマやナポリを含む南イタリア以東の地中海世界にとって、ジブラルタル海峡へ抜ける最短ルート上に位置したこと。たとえば海洋都市国家ヴェネツィアの大西洋への道を閉ざしたのは距離そのものよりもバルバリア海賊の存在であったといっても過言ではない。そして第二にハイレディンの策謀によりこの地がオスマン帝国へ差し出されたことで、イスラム世界における対キリスト教世界最前線の軍事拠点が地中海の出口付近に堂々と築かれてしまったこと。もともとバルバリア海賊の活動範囲はブリテン島のテムズ河を遡ってロンドン近郊で略奪行為を働くほどに広かったから(イギリス人女性はイスラム世界で性的奴隷として高く売れ、男性は漕ぎ手として優秀だった)、規模が大きいとはいえ単なる海賊の根城として駆逐する前にアルジェをオスマン帝国の庇護下に置かれてしまったことは、近世の地中海におけるヨーロッパ勢力による最大の失態だったと言って良い。これにより、ナポレオンの登場まで地中海世界の制海権はどちらかといえばオスマン帝国の手に委ねられる。キリスト教勢力が主導権を保てたのは‘ヴェネツィアの庭’と称されたアドリア海を除けばイタリア半島北部西岸一帯の、地中海全体からみればほんのささやかな‘断片’に過ぎなくなった。

 ところで彼ら頭目たちのオスマンサイドでの呼称を注視すると、‘Reis’の文字が全員に共通することに気づいていただけるだろう。オスマン世界においてレイスとは提督を意味し、個人名に連なるそれは尊称的なニュアンスを持っている。つまり彼らはオスマン帝国の正規海軍における海将たちでもあった。一方からみた海賊が敵対する他方からは英雄的な軍人として称えられるケースはヨーロッパ世界内でもエリザベス1世治下のフランシス・ドレイクやルイ14世治下のジャン・バールなど稀ではないが、ここに挙げたバルバリア海賊の面々の特質は、自ら意図して外部からオスマン帝国の覇業に加わったところにある。
 バルバロッサ兄弟のウルージがアルジェを陥落させた時点でのアフリカ北岸は、チュニスのハフス朝をはじめ多くのイスラム系独立勢力が割拠する状態で、それぞれに地中海北岸のヨーロッパ諸国も巻き込んで合従連衡を繰り広げていたから、ヨーロッパ勢力のつけ入りかた次第では西地中海をキリスト教世界の内海とするチャンスも恐らくあった。実際スペイン王で神聖ローマ皇帝も兼ねたカルロス1世(カール5世)は一度アルジェを陥落させるまでに至ったが、ウルージの首を獲ったことで満足したのがいけなかった。一代で“バルバロスの大王”にまで昇りつめた兄ウルージ以上の恐るべき素質を、弟のハイレディンが秘めていることを当時のヨーロッパ社会はまだ知らなかったのだ。

Hayreddinblanca 冒頭の画像(上右)はハイレディンの肖像画。ターバンの上の王冠は一国の王者であることを示唆し、鎧の白い三日月紋はイスラムの守護者を意味するとともに、月の内側の紋章(詳細不明、三角形は“肥沃な三日月地帯”に由来?)と相俟って恐らくオスマン帝国の臣下であることを暗示してもいる。ただ‘赤ひげ’を意味するバルバロッサの名の通りにこの絵は描かれているものの、彼がスレイマン大帝の命に応じてイスタンブルに参じたとき、すでに老いて白くなった髭が一層威厳を強めていたともいう。とすれば二枚目の肖像画(左)のほうが写実に近い可能性もある。一枚目のそれより知謀に長けて冷徹な風格を湛えている。もともとバルバロッサと呼ばれたのは兄ウルージが先で、ハイレディンの髭はそれほど赤くなかったとも言われる。槍を携えた勇猛な姿は、窮地の味方を救援すべく踵を返して突撃し、敵軍に囲まれて戦死を遂げた兄にこそふさわしいのかもしれない。
 敵対するジェノヴァ海将アンドレア・ドーリアの動向に注意を払い万難を排して行われたハイレディンのイスタンブル訪問と大帝への謁見は無言のうちに周囲を圧し、帝国の高官たちをその立ち居振る舞いによって納得させた。これにより彼は帝国全体の海事を切り盛りするカプダン・パシャの職を任される。それは己の手で再構築し自ら率いた艦隊によって、兄を殺したカルロス1世の意を汲むスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇による連合艦隊を破るプレヴェザの海戦の、6年前の出来事だった。

 さて今度は冒頭に挙げたバルバリアン・パイレーツの首領たちのリストのうち、出生地の項に着目しよう。“北アフリカのイスラム海賊”という言葉から、多くのひとはアラブ人や土着民族であるベルベル人の海賊をイメージするのではないか。しかし実際には、御覧の通りそれに該当する人物はリスト上皆無なのだ。バルバロッサ兄弟は幼少時をサロニカ近郊で過ごしたこともあるらしく、父親はオスマン帝国の騎士であるという他にキリスト教徒だったとする説もある。カーチャ・ディアブロ(悪魔殺し、の意味)の出生地であるカラマン地方とは現在のトルコ・シリア国境に広がる平野部を指し、伝統的にユダヤ人の多い地域。ウルグ・アリはレパントの海戦で負けたオスマン側にあって唯一隊列を保ったまま帰還した勇将だが、幼い日南イタリアの漁村で海賊に攫われて奴隷から成りあがったことでもよく知られている。少年時の名はジョヴァンニであった。‘イスラムの抜き放たれた剣’と恐れられたドラグトはエーゲ海ボドルムの出身、‘ムスリムの魔法使い’の異名をもつシナン・パシャの正体はユダヤ人であった。こうした例からは、彼らバルバリア海賊が極めて多彩な背景をもつ男たちの集団であったことが窺えよう。
 勇猛さで名を轟かせたウルージ・レイスは一方で4、5ヶ国語を自由にあやつり、悪魔殺しのアイディンは冷静な戦況判断により劣勢から幾度もヨーロッパ勢力を敗走させてハイレディンを助けた。ここからみえてくるのは粗野で飲んだくれな海賊という画一的なイメージからはほど遠い、精強たる一個の軍団の姿影である。またアルジェの一般市民にとって彼らは大量の収奪品を市場に供給してくれる存在でもあったから、同胞への虐殺を繰り返すキリスト教勢力や民からの搾取によってのみ生きながらえる在来君主にもまして、長きに渡って信頼に値する統治者であり続けたことだろう。そこに広がるのは、数百年にわたりバルバリア海賊に振り回され続けた西欧社会からはちょっと想像もつかないような豊かな世界だったのかもしれない。

 ちなみに現在のトルコ共和国海軍の歴史をネットで検索すると、ほとんどのページがオスマン帝国海軍の歴史に接続した形で書かれている。ケマル・アタテュルクによるトルコ革命は軍制の様式はともかく、軍の実態をそれほど大きく変革するものではなかったようだ。そしてオスマン帝国の海軍史において、冒頭で掲げられるのは大抵の場合ハイレディンその人の名前である。オスマン朝最大の建築家ミマール・スィナンの設計によるハイレディンの墓廟はイスタンブル近郊に今もあり[→link]、艦隊が金角湾を出港する折りには墓前へ向けて空砲を撃ち戦勝の祈りを捧げるならわしが、彼の死後後世まで続くオスマン帝国海軍の伝統となった。

 さいごに日本の歴史参考書などでもよく登場する、バルバロッサ兄弟の二人揃った肖像画を挙げておこう。(本当は四兄弟) 教育界のおじさんたちが、ここまでヨーロッパ視点にこだわる理由は不明である。

Barbarosabros

 なんというイケメン。

 
2008.04.21 * 西地中海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
もう一つの地中海
◆チュニス, Tunis, تونس
portcarthage 歴史を考える意義は無論多様だが、概観的には二つの方向性に集約される。一つは己の立ち位置を明確に意識するべく、筋の通った‘語り’のうちにそのルーツを収めようとする方向性。もう一つはいわゆる学問上の研究対象としてみる方向性。両者は必ずしも相反せず、世上語られる歴史とはおおむねこの2つのベクトルがうまくかみ合う領域で生成されてきた。これによって、その歴史的価値は明瞭であるにも関わらず、どうしても矮小化されて語り継がれる部分が生じることになる。カルタゴはその良い例だろう。
 現代人の視座は西洋近代の急速な発展を一方の基盤に置かざるをえない。その西洋近代が自己のルーツとして参照し確認するのはつねにギリシア・ローマであって、カルタゴがその語りのなかで占める位置は決して低くはないものの、あくまでローマの好敵手としてのみその存在を承認され、保障されていると言って良い。‘語り’は本質的にアンフェアな性格をもつものだから、このこと自体はどうこう言っても仕方がない。
 
 けれどもそのような位置を与えられ続けた結果として今日、カルタゴをめぐる人々にどこか謎めいたニュアンスが付随していることは興味深い。フェニキア人として括られる彼らは、古代の地中海世界においてまずギリシアの興隆に対し、そして続くローマの強勢に対してそれを凌ぐほどの活躍を見せ、そして去った。ヘロドトスの記述を根拠に、彼らが紀元前数百年の段階で喜望峰を回っていたとする学者もいれば、米大陸に渡っていたとする俗説すらあるらしい。
 冒頭にあげた画像はカルタゴに実在した軍港の復元図だけれども、まるで現代建築のコンペ案でも見ているかのようである。というような印象を、この絵を初めてみた人ならたいてい抱くはずだと思う。ネットで拾ったこの画像はチュニス市内の博物館にある図なのだが、そう思わせる風に絵の質感を方向付けられていることがここではポイントとなってくる。カルタゴの存在全体が、要は神秘化されやすいオブジェなのだ。

tombphoenicia

 ポエニ戦争は古代地中海世界の覇権をかけた戦いとして名高いが、‘ポエニ’の名はそれ自体が‘フェニキア(Phoenicia)’に由来する。カルタゴ将軍ハンニバルのアルプス越えによってローマが恐慌に陥ったエピソードは、大ローマ帝国の幻影を追い続けたその後のヨーロッパ人にとっては他者から付与されたトラウマ的な原体験として、その戦役に付された呼称の意味するところとともに、その意識の基底へと深く刻印されたことだろう。対するローマ将軍スキピオのスペイン・北アフリカへの逆襲によって窮地を脱しのちのカルタゴ支配へと到ったプロセスの記憶はまた、これほどに強大な相手をも克服したという記念碑的な役割も果たしてきたはずである。
 そしてそれゆえに、だからこそ、彼らフェニキア人は消え去らねばならなかった。ある時期を境に忽然と姿を消した、というような描かれ方は冷静にみるならどの目にも不自然だけれど、このような‘語り’の整合性の面から考えれば頷けるものがある。シドンやティルスなどを本拠としたフェニキア本国は早くからペルシアやエジプトなどの外来勢力にその主導権を譲り渡し、その政治的衰退がのちの西方カルタゴの隆盛にもつながったのだけれど、このことやカルタゴのローマへの屈伏を以ってフェニキア人は「姿を消した」、「歴史の表舞台から去った」などと表現されるところにその謎めいた印象を明かすヒントの一端はたぶんある。
 フェニキア本土の人々についていえば、もともと交易上の必要性から遠隔の地に無数の拠点を築いていった強靭な人々なのだ。そのしなやかさは、むしろ時々の‘帝国’の支配欲をも巧みに利用することのほうに発揮されたはずである。相次いで勃興し衰退する諸帝国の歴史のみを歴史とみれば彼らは古代のうちに「忽然と姿を消した」ことにもなるが、その発想自体が根本的に貧しいことはもはや言うまでもないだろう。
 
porttunis そのように考えを巡らせつつ、冒頭の画像へと再度立ち戻る。恐竜絶滅以前に棲息した生物種や、いまだ未知領域の広い深海生物を扱った書籍やテレビ番組などではよく、現在地表上で見られる哺乳類等とはまったく異なる体系によって進化した生物たちの姿がCGにより再現されるが、そこに私たちは現在の自分たちを自明の存在としない‘もう一つの世界’の可能性をかいま見る。
 カルタゴの地にかつて実在したガレー船団のための軍港の形態が印象深く映るのは、‘もう一つの地中海’の可能性を鮮やかに想起させるだけの強度がそこに備わっているからだ。彼らが去った表舞台としての歴史より、比較にならないほどの魅力を彼らそのものに覚えてしまう。おそらくそのような姿勢によってのみ、このブログは現在継続されているのだとおもう。これらの文章が大航海時代Onlineというゲームとかろうじて親和性を保つとすれば、その理由もきっとこのあたりにありそうだ。

 
2008.04.14 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
三都物語
◆トリポリ, Tripoli, طرابلس
 セヴァストポリやコンスタンティノープルの回も読んでいる当ブログの熱心な読者がみなそうであるように(いるのか!?)、トリポリの表記から‘Tri(3つの) poli(ポリス)’とその意味を推測するひとの勘はなかなか良いかもしれない。最初にフェニキア人がこの地に建てた街の名はOeaといったが、近隣にレプティス・マグナ、サブラタのあるこの一帯はやがて“トリポリタニア(3つの都市のある場所)”と呼ばれるようになり、それが転じてこの街の名となった。レプティス・マグナはヴァンダル族やベルベル人の破壊によって、サブラタは大地震によって古代のうちにその盛期を終えたのに対し、トリポリはサハラ交易と地中海交易との中継地の役割も果たしつつ、一帯の行政府を抱える街として中世を乗りきり現代へと生き延びた。

tripolis

 三都市の位置関係を上図に。図の西端から東端まではおよそ200km。前に三都物語というJR西日本のCMがあったけれど、経済的な繁栄を続ける大阪をトリポリと見立てると神戸-大阪-京都の相関関係は少し似ている。古都京都に相当するレプティス・マグナは、アフリカ出身で初のローマ皇帝となったセプティミウス・セウェルスの出生地でもある。見ての通り距離的にはもう少し離れていて、大阪を中心にすると姫路-大阪-名古屋くらいの距離になる。関東なら小田原−江戸−水戸くらい。って無理にたとえる必要はないんだけれども。レプティス・マグナ、サブラタともに今日では世界文化遺産に指定されている。
 せっかくなのでこの一帯の地理をまとめて抑えておこう。視点をもう少し上昇させてみる。

tripolitania

 今度の衛星画像は西端から東端まで約2000km。港や国の名は省き、ざっくりと地理上の地域呼称を3つだけ載せてみた。キレナイカの語源はギリシアの植民都市キュレネから。キュレネはティラ(サントリーニ島)の人々によって建てられ、クレタ島の西端を回って南西南へ直進した位置にある。ここの遺跡も現在はユネスコ指定の世界文化遺産。前回扱ったベンガジはキュレネの西約200km、キレナイカ地方の西北端に位置している。フェッザーンはトリポリタニア南部の砂漠地帯を指している。キレナイカ、フェッザーンにトリポリタニアを加えた3つは地理・歴史上の呼称であるとともに、第二次大戦後のリビアでは1970年代まで国を分ける3つの行政区分の名称としても通用した。(現在は34に細分化)
 視点をさらに高度化。

saharasatellite

 西端から東端まで4000km。正直な話、アフリカ北岸というとサハラ砂漠と地中海に挟まれてなんだか砂っぽい街が点在するだけというイメージが一般的なんじゃないかとおもう。情熱のスペインから有閑マダム憧れの南仏プロヴァンス、芸術のイタリア、風光明媚なエーゲ海と個性溢れる表象が列をなす地中海の北岸側に比べると、この扱いは涙なしには語れないものがある(いや、語れる)。この一帯の気候風土はしばしば地中海性気候の名で括られるけれど、その実相は北岸同様、多様である。どうでもいいけどこう書いて思い出したのはNHK-BSとかCNNなどでよく流れる「世界の天気」みたいなコーナーで、おねえさんの一刀両断ぶりには見るたびに感心させられてしまう。きょうの日本は雨っ!、中国は曇りっ>w<、みたいな。

 上図では現リビアを囲む形で地理上の主な呼称を3つ挙げてみた。プレートテクトニクスの観点から言うとアフリカプレートとユーラシアプレートの境界が地中海の南端付近を走っているため、この影響下にある山脈や高地、海溝を北アフリカ沿岸域に集中して見ることができる。アトラス山脈などはまさしくそのもので、リビア砂漠の北、キレナイカ地方の東に伸びるリビア高地もこの類に含まれる。図の下端にのぞくアハガル高原を越えるとそこはもうマリやガーナ、ソンガイなどニジェール水系に勃興した文明群の支配域である。山脈と訳すのは実情にややそぐわないので高原としたが、英語ではAhaggar Mountainsが一般的な様子。
 ‘リビア’はギリシア神話の登場人物リビュエを語源とし、かつてはエジプト文明圏より西のアフリカ北岸全域を指した。リビアの名の付く砂漠や高原が国家としてのリビアの外に広がるのはこのためだ。‘マグレブ’はアラビア語の「日の没するところ」に由来し、北西アフリカのアラブ諸国を指す地域呼称。広義の‘サハラ’にはこれらすべてが含まれる。

tripoliarmy もう一段階広い衛星画像で概念モデルとしてのサヘルやスワヒルまで言及しておくと、歴史上の交易網の観点から北アフリカを概観するうえでは良いだろうけど、何の話なのかわからなくなりそうなのでやめておく。
 代わりに今度は視点を思いきり地上近くへと引き戻し、市街地の部分画像を。現代のトリポリは、一見してそれと分かる軍事関連施設が目立つ要塞都市の趣きを備えている。それもそのはずで、1986年には米軍によるトリポリとベンガジへの突如の空爆が世界を驚かせた。2006年リビア政府が見せた譲歩によってアメリカの「テロ支援国家」指定を外れたことは記憶に新しいところだが、エジプトやイスラエル、フランスなどとの関係も含め緊張状態は依然続いている。いまだリビアにおいて事実上の最高権力者であるカダフィ大佐、実は軍隊での最終階級は大尉で、制度上の公職にはもう30年近く就いたことがない。サイババのねくらバージョンみたいな風貌といい、こういうおじいさんが国際政治上の重鎮としてなおも健在なのだから、世界ってほんと多様よね、っておもう。

 
2008.04.07 * 東地中海・黒海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
砂鏡
◆ベンガジ, Benghazi, بنغازي
 息をとめ、耳を澄ませる。ゆっくりと、深く息を吐きだしていく。まぶたをひらく。まわりには、きのうまでと変わりのない黄土色の海原がどこまでも、どこまでも広がっているだけだ。吹き抜ける風の音は空ぜんたいに染みついている。
 この世界は、わたしのために存在するわけではない。そんなこと、ずっと前からわかっていた。女はまた、そうおもう。わかってはいたけれど、こんなふうに生きねばならないのなら、あなたはなぜわたしを生み落としたというのだろう。いまはただ、とても会いたい。まだか細く、柔らかなあなたの髪の温もりがただ恋しい。すべてが曖昧となった女の意識のなかで、母はいつのまにかわが子となり、また神のような何者かにもその姿を変えていく。夜の砂は青い炎のように冷たく、昼の風は突き刺さるように熱いその場所で、女はそうやってひたすらに白昼夢の流れへと身をゆだねる。旅の始めにはしきりに身を焦がした感情の波も遠のき、手枷が砂を噛む痛みにも、もう翻弄されることはない。

flaminghills

 いつからこうしているのか、覚えていない。生まれてからずっと、ずっとこうしていたのかもしれない。不思議だな、と男はおもう。体力は限界を超え、からだは今にもバラバラに崩れ落ちてしまいそうなのに、この状態が延々と続いている。疲弊して視野の狭くなった瞳には、同じリズムで揺れ続ける仲間の背だけが映っている。耳には波の弾ける音と、木の軋む音だけが入り込んでくる。誰も言葉を発さず、みなが同じ動作をもうずっと続けている。ゆっくりと体を前に倒し、腕を前方へ伸ばしながら背を丸めていく。かかとを踏みしめ、力を込めた両腕とともに上半身を一気に後ろへと引き戻す。世界の果てなどほんとうにあるのだろうか。男はふと、そう考える。いつまでも、どこまでも進んでいける気がしてしまう。
 ほんとうの自分はまだ幼くて、眠る両親の傍らで夢をみているだけならば。もう何千と繰り返したかもわからない少年の日の光景が、動き続ける男の肉体を優しく包み込んでいく。

darkocean

 遠く隔たった土地への文化の伝播や、異なる文明間での交渉において、海や砂漠の果たした役割には絶大なものがある。茫漠と広がってそこに人が生きるのを許すことはまずないが、渡り切る技術さえ手に入れたなら海や砂漠は隔たれた街同士を自在に結びつけるメディウムとなるからだ。そうして開かれた交易の網はやがて、さらなる飛躍を欲して海と砂漠という異なる二つの世界そのものの融合を求めはじめる。荒涼とした砂の海を航行してきたキャラバンと、長大な海路を渡り終えた商船隊は、そうやってある海べりで邂逅を遂げることになる。そして荷を交換した両者はまたここで会おうと約束すると、来た道へと足早に去っていく。大陸奥深くの金や象牙や奴隷はこのようにして、織物や武器やシルクロードを経由した宋の青磁器などと取引された。砂漠の世界と海の世界との接合点が見出されていくこの光景は、実際には長い試行を経てゆっくりと進行したものだろうが、大局的にみるなら啐啄の機の譬えを想わせるほどに鮮やかだ。殻が割られる瞬間はなかば偶然性に拠るようでも、そこに生まれる無数の機縁はいずれ唯一無二の色彩を帯びていく。
 ベンガジはそのようにして成長を遂げた街である。

 
2008.04.04 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
イスカンダール揺空
◆アレクサンドリア, Alexandria, الاسكندرية
 現代の最先端科学へといたる科学史を巡る語り口で、よく古代ギリシア・ローマの叡智がアラビア世界を経由して、ちょうど地中海を一周する形でヨーロッパに再帰しルネサンスとして開花した、というものがある。ヨーロッパやアメリカの白人が自分中心の視点でそう語るのはまあいいとして、日本人でこれを受け売りのまま語ってしまう人がいたらちょっとアレだ。でも昭和に出版された本などを読むとしばしばその手の記述を見かけるから、知識人とされる人々の言動もあまり信用しないほうがいい。こいつらやべー、と未来の少年少女に思われるような物言いを、きっと今の知識人たちも日々大量に生産しているに違いないからだ。テレビで良識を語って世の悪事に憤ってみせるような人物は特に要注意。良識を後ろ盾にした物言いには責任の所在がなく、一見まともだが実態はいつも空疎だ。

alexsealine

 ともかく。中世にレコンキスタ等によってキリスト教勢力が“奪回”したイベリア半島やシチリア島などを経由して、当時における最先端の科学がヨーロッパ世界に流入しルネサンスの興隆とそれに続く近代西洋科学の基礎を準備した、という認識は概ね間違ってないと思う。冒頭の語り口が問題なのは、当時のアラビア世界の科学があたかもギリシア・ローマの知識を保存し発展しただけのような役割を負わされている点で、これはまったくの嘘っこちゃんだと言っていい。アラビアの科学は確かに古代ギリシア語やラテン語の文献翻訳を通じてギリシア・ローマもそのルーツの一つとしたけれどそれは一つに過ぎなくて、ゼロの概念を確立したインドも火薬や羅針盤を発明した中国も平等にそのルーツとした。そもそもアラビア世界そのものがトルコ人やペルシャ人など非アラビア人の活動も含めたイスラム圏全体を地として成立し、その境界線を明確にするものはほとんど何もない。だから近代西洋科学を至上唯一のものとする“その他のもの”への十把一絡的な蔑視観が働かないと、実のところ冒頭のような言い回しにはなかなかならない。ナルシスの坊やなら許されるつぶやきも、アポロンの口にはやはり似合わない。

 などということを長々と述べているのはもちろんこの項目がアレクサンドリアだからなのだけど、そうした面でこの街が特筆されるべきなのは、言うまでもなくアレクサンドリア図書館の存在によってである。この図書館を巡っては世界七不思議に数えられたりして眉唾ものに感じる向きもあるだろうけど、重要なのは図書館単体の存在ではなくて、それを取り巻く“知の雰囲気”のほうである。このかぎりでは一つの巨大な建築物がぽつんと存在したと考えるより、あるエリアに多数の研究機関が集まっていたと考えるほうが妥当だろう。この地で研究に身を入れた科学者・哲学者はアルキメデスやプトレマイオスといった巨星をはじめ数知れず、また書庫充実の目的に特化したとはいえ専門の写本機関を抱えたことが、知の普及の面で後の時代に果たした役割ははかり知れないものがある。

Alhambra

 ある時代にその世界において抜きんでた存在が、後の時代の定型を形作るということはどの分野にもあることだ。たとえばモスクにはドームが付きものという通念の源はハギア・ソフィアだし、プラトンらによる学究的な空間に関する記述はアカデミズムの原型を生みだした。この意味でのアレクサンドリア図書館が為した功績は‘知の集積場’のモデルを具現化したことで、過去の知識や当代の研究成果を目に見える形で集約し大量に蓄積することがどれだけの力を発揮するかということを、これほど鮮やかな形で世に知らしめる存在は当時他になかったはずである。
 だがこの力はあまりにも強大だった。知の発展は既存の諸概念への疑義をその燃料とするゆえに、周囲の社会にとっては本来つねに危険なものである。アレクサンドリア図書館の消失原因は天災による焼失や水没、ローマ皇帝による破壊など様々に言われているが、個人的に最有力だと思えるのはキリスト教徒による大規模な焼き打ち説である。古代エジプトの叡智の結晶とも言えるヒエログリフが、他の文明との交流も密であったにも関わらずある時代を境に誰も読める者がいなくなったという事態も摩訶不思議だけれども、いずれも当時の地中海世界を圧倒する勢いで普及したキリスト教の信者らが地上からの根絶を図ったと考えれば納得できる部分は多い。魔女狩りの歴史や現代のテロリズムをみてもわかるように、狂信的であるときほど人の行為が視野狭窄的に貫徹される例は他にない。たとえばギリシア由来の論理哲学の精緻さやヒエログリフのもつ完成美が、ある種の人々の瞳には撲滅すべき悪魔の呪文に等しく映ったとしても、それもまた社会的存在としての人間の性(さが)だろう。
 ちなみに英語では“The Great Library”という表現が、今日でも固有名詞的にアレキサンドリア図書館を意味している。これは英語に限らず多くのヨーロッパ言語について言えることで、地中海世界とそこから派生的に発展した欧米世界にとって、この街の存在感は日本語で思考する私たちの想像以上のものがある。
 
Romancoin 七不思議といえばアレクサンドリアにはもう一つ、ファロス島の大灯台をめぐる伝説があった。同時代の人々の度肝を抜く規模の灯台が建設される場所としての種々の条件を、技術的にも経済的にも当時この街が満たしていたのは確かだろうから、高さや構造の詳細はともかく流布されている怪しげなイメージに反してその実在可能性はかなり高い。定型とか原型の話に連ねれば、この灯台は一般的なモスクに付随する塔(ミナレット)の形態上のモデルになったとする説もある。よくあるファロス島の大灯台の想像図を見る限りそれもうなずける気はするけれど、伝説や記述やローマ時代のコインを元に描かれた想像図が先にあってそういう説が生まれたのか、そういう説に基づいてこうした想像図が普及したのか、そこらへんの怪しさもまたいかにも七不思議っぽくていい。規模の大きいモスクは多くの場合マドラサと呼ばれる学究施設を付属させたから、ハギア・ソフィア由来のドームにより宗教性を、アレクサンドリア由来のミナレットにより知性を演出したと考えるのも、ちょっと安易な気もするけど抒情としてはまあアリだろう。

 ナイルの河口に位置し、オリエントやエーゲ海との交易にも有利な地勢をもつこの街は、中世にオスマン帝国の支配下に入ったことで一旦はヨーロッパ世界との交易路を閉じてしまう。だがやがて力をつけたヴェネツィアやジェノヴァの商人らによってそれも復活され、この港を中継地とする香辛料等の販路を抑えた彼らによる地中海交易の占有が、西の新興諸国にとっては経済的な圧力となり大航海時代の揺籃期が準備されていく。喜望峰を超え、あるいはアメリカ大陸“発見”へと到る新時代の到来まで、あとは大西洋沿岸諸国の政治状況が整うのを待つばかりである。

alexeven


 
2008.04.02 * 東地中海・黒海編 * CM:4 * TB:0 * top↑
アラビアンナイルに沈む
◆カイロ, Cairo, القاهرة 
theniletoolong カイロはもともと外来のアラブ勢力によって築かれた歴史をもつため、ピラミッドや黄金のマスクに始まるエジプト文明の醸すイメージに相反して、純イスラム色に彩られた街である。したがってルクソールやアスワンなど紀元前数千年にさかのぼる起源をもつ街が並ぶナイル川流域においては、極めて新しい部類に入る。なにしろ古代のギリシアを出発したアレクサンダー大王の軍隊がナイル河口に到達したとき、エジプト文明はすでに三千年以上に渡る王国時代を通過してその盛りを終えようとしていたのである。地球の歴史を24時間に見立てると現生人類の登場は23時59分何十秒になるというようなたとえ話があるけれど、文明史に比重を置くならナイルにおけるカイロはそれと似たイメージを持っても良さそうだ。

 とはいえ三基の巨大ピラミッドやスフィンクスの座すギザの地がカイロの郊外にあることを知っていれば、かなり異なるイメージも描けるだろう。けれどこれは人口移動によって都市が肥大化し近隣の街を呑み込んでいくという近代以降に特徴的な現象の帰結に過ぎない。それゆえカイロとギザに関してナイル川の東岸には日が昇る方角ゆえに生の街があり、日の沈む死の街として西岸にピラミッド群が築かれた、というような豆知識をふりまくおじさんがたまにいるけれど、これはきっとテーベか何かの取り違い。

 古代エジプトの象形文字ヒエログリフは極めて洗練されたデザイン性が特徴的だけれども、周知のごとくロゼッタ・ストーンがシャンポリオンによって解読されるまでの長きにわたりその意味するところは謎だった。神殿の壁面や石版に大量の文書が残されているのに、誰もそれを読めない状態が古代から近代までずっと続いたというストーリーはそれだけでなにやらロマンティックだけれども、それはともかく三種の言語を並べて対訳表記したこと自体は当時すでに異なる文明間での交流が盛んであったことを証明してもいる。

 シャンポリオンは古代ギリシア語を通じてヒエログリフの解読を成し遂げたわけだけど、実際古代エジプト文明がどのようにして、どれほどの規模でヨーロッパの古代に影響を与えたのかについては依然議論の余地が大きいところだと思う。「と思う」と書いたのは自身が研究者でもなければその方面に造詣のある人間でもなく、最新の議論とか学会の常識みたいなものとは凡そ無縁の場所で妄想を繰り広げているだけという自覚があるからだけど、これはギリシア・ローマへの影響なんていう比較的目に見えやすい話ではなくて、どちらかといえばたとえばギリシア・ローマの人々が“蛮族”としたようなガリアやケルト、ゲルマン人などを含むいにしえのヨーロッパ諸民族全体への影響のことを言っている。

 古代エジプトで発展した石造建築の技術は現代の視点からも驚異的な正確さを誇ることで知られているが、たとえば古代ローマ建築第一の特徴といえば石材によるアーチ構造で、ここにエジプト文明の関与がまったくないと考えるのは私見で言うならむしろ無謀だ。なにもストーンヘンジと直接的な影響関係があったなどと言いたいわけではないけれど、そういう教科書には載らない底部を流れるもう一つの歴史の足音に耳を澄ませる試みはけっこう楽しい。単に楽しいだけではなく大事な意味もそこには含まれている気もするけれど、ともあれカイロから話がそれ過ぎた。ただ歴史学上の発見において意外なところに影響関係があったということは現実によくある話なのであって、遙か極東の現代日本にすら古代エジプトの深い影響を見ることも無理はない。一部の若者の日常語として散見される「ギザかわゆす」はその一例。

 とここまで書いて、この記事をどう締めるつもりだったのか急にわからなくなった。ナイルの衛星画像はちょっと綺麗だったので貼ってみた。上流はスーダンまでと思い込んでいる人も多いだろうけど、ナイルの源流をたどるとウガンダやルワンダも通り越し、実は大陸南部のタンザニア・ブルンジにまで達している。
 カイロについてはアラブの勢力がどのように根付いていったかをみるとなかなか面白い。英語での通称‘Cairo’が直接の由来とするアラビア語の‘القاهرة(al-Qāhira, カーヒラ)’とは別に、現地で一般的な街の呼び名の1つに‘مصر(Miṣr, ミスル)’があるが、こちらは軍営地の意。ナイルが最下流で分岐して扇状地を形成する扇の要に当たる部分にこの街が位置することを考えると、外来勢力であるアラブ人の軍事的合理性が窺える。ちなみにアラブ人によってミスルとして建てられ大航海時代Onlineに登場する港として、他にペルシア湾最奥のバスラがある。最初はこうした訪問者としてのアラブ人の動向を中心に書くつもりだったのに、なんだか流れでこうなった。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。こういうことだったんだ。

readinghieroglyph

 『教授是颯爽的解読了聖刻文字者也之図』
 (『けふじふこれさつさふとひへろぐりふをけとくせるものなりのづ』)


 
2008.04.01 * 東地中海・黒海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
       
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Author:レイニーハート准教授
Nation:ヴェネツィア共和国
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