◆パルマ, Palma de Mallorca, بالما دي مايوركا
ジブラルタル海峡からシチリア島へと伸びる西地中海において、バレアレス諸島はそのほぼ中央に位置し古来より航路上の中継地として栄えてきた。同諸島の中ほどにあって最大の面積を誇るのがマヨルカ島(スペイン語方言によってマジョルカ/マリョルカとも)で、パルマはマヨルカ島の中心都市である。イタリアのパルマと区別する意味で一般にパルマ・デ・マヨルカとされる。古代ローマ時代の名称はパルマリア(Palmaria)。
この港も例によってフェニキア人を起源とするが、その後の支配者変遷の軌跡はそのまま西地中海における制海権の所在を示すバロメーターともなっている。紀元前2世紀のローマによる征服後は4世紀にアフリカ北岸に拠点を置くヴァンダル王国、6世紀にローマ世界の再構築を目指したユスティニアヌス帝のビサンツ帝国、8世紀以降はイスラム諸王朝へとバトンが渡され、13世紀にレコンキスタの機運高まるアラゴン王国の支配を受け、王国が数度に及ぶ隣国との合体を経てスペイン王国となり現在へと至る。なおマヨルカ島や隣のメノルカ島には‘Talaiot’と呼ばれる青銅器時代の巨石遺跡が残っていて、コルシカ・サルディニアといった西地中海の他の島に残る遺跡との連関が考えられている。[→link] また島の南西岸に位置するパルマがフェニキアやイスラムの影響を残すのに対し、北東岸に位置する港町アルクディア(Alcúdia)が円形闘技場など古代ローマの面影をより強くもつことは興味深い。この点でも、地中海の勢力図がそのまま島の地勢に縮図となって反映されている観がある。
ところで日本語の観光関連サイトやガイドブックの類をあたると、マヨルカの見どころとして筆頭にあがるのは大抵パルマのカテドラルのようである。近代以降のヨーロッパ世界でこの島が観光地として注目された理由は本来その気候と海にあるのだけれど、そこは浜辺で何日も過ごすことができない日本人向けに書かれているからだろう。
この大聖堂、元はモスクのあった場所に、マヨルカを征服したアラゴン王ハイメ1世が建造を開始した。着工は島の征服と同じ1229年である。そして最初の完成がなんと1601年。この気長さ、即座にバルセロナのサグラダ・ファミリアを思い起こすところだが、その設計者であるアントニ・ガウディはパルマのカテドラルの改築プロジェクトにも携わっていた。彼が加わったのは1901年で、1914年に教会側と口論になって手を引いている。頓挫したとはいえ14年も関わったのだから今に残るその影響いかばかりかと期待も膨らむが、プロジェクトそのものは彼が参与する半世紀前から進んでいたらしい。とにかく時間のスケールがでかいのだ。というわけでこの聖堂におけるガウディの遺産はごく一部となるのだが、それでも一見してガウディ然とした異様を湛えて建築内全体のムードを変調させてしまうのがやはり彼の彼たる所以だろう。
ちなみにこのカテドラルの身廊部分(nave)の天井高44mは、ヨーロッパ全体でもトップクラスの高さを誇る。[→link:6位にランク] 冒頭画像(上右)はその身廊天井を見上げたもの。下図はガウディによる変更部分、天蓋装飾と聖歌隊席。

ハイメ1世率いるアラゴン王国が、イベリア半島内のレコンキスタ完了より数世紀も早くバレアレス諸島の支配に動いた理由としては、本土バレンシア以南のイスラム勢力に比べて駆逐が容易だったということも無論あるだろうが、カスティーリャ王国など同じ半島内のキリスト教諸勢力との軋轢も大きかったと推測される。そのあたりはポルトガル王国によるセウタ進出とも似た背景を窺わせるが、セウタ進出がのちのポルトガルによる大西洋航路開拓の先鞭となったように、この早い段階でのバレアレス諸島征服はのちのスペインによるサルディーニャ、シチリア、そしてナポリ王国の南イタリア、アテネ周辺のギリシア支配へと至る版図拡大の歴史にとって必要不可欠の意味をもった。「スペインによる支配」と一口にまとめると見えにくくなってしまうが、こうして地中海に版図を広げたのは実質的にアラゴン王家の勢力で、ハイメ1世の時代すでに王国における公用語の一つであったカタルーニャ語はバレアレス諸島はもとより、イタリア支配の長いサルディーニャ島の一部でも今なおその方言が確認できる。この点は中南米に浸透したスペイン語が“カスティーリャ語”であることと実に対照的なところで、イベリア半島各地方の自治的な性格は近代以降のスペイン・ポルトガル没落の一因ともされているが、こう考えてくるとそうした性格に由来する競合的な動機付けがなかったら、そもそもスペイン・ポルトガルによる大航海時代が到来したかも怪しくなる。
この「身近に競合者をもつことの強さ」は今日でも新自由主義(ネオリベラリズム)のような形でしばしば世に喧伝されるが、個人的には大嫌いな思想の一つだったりする。卑近なところでは「ライヴァルを意識しろ」とか、「つねに目標をもて」とかね。そうした底の浅い発想ばかりを重視するというのは、それはそれで確実にある種の病気だと思う。今のスペインみたいにそういうことを基本的に全て放棄してまったりと停滞をかこつというのも人間の営みとして当然アリだろうと思うけど、いま日本社会でそれができるのは老後に入った団塊世代かニート・引きこもりの若者たちだけだ。それができずに苦悩する人々が行動に出た結果としての、トップクラスの自殺大国の姿がここにある。この国ではふつう停滞即困窮を意味するから、一度首をもたげただけで救いのない八方塞がりの闇へとたやすく陥ることになる。
と、心が荒みはじめた頃合いを見計らって、さいごにこのサイト[→link]を紹介して締めとしたい。マヨルカ島に嫁いだ日本人のかたによるブログなのだけど、文章と写真のバランス、生活者視点と訪問者視点の按配がとてもいい感じで、う〜ん。 なごめる。
ジブラルタル海峡からシチリア島へと伸びる西地中海において、バレアレス諸島はそのほぼ中央に位置し古来より航路上の中継地として栄えてきた。同諸島の中ほどにあって最大の面積を誇るのがマヨルカ島(スペイン語方言によってマジョルカ/マリョルカとも)で、パルマはマヨルカ島の中心都市である。イタリアのパルマと区別する意味で一般にパルマ・デ・マヨルカとされる。古代ローマ時代の名称はパルマリア(Palmaria)。この港も例によってフェニキア人を起源とするが、その後の支配者変遷の軌跡はそのまま西地中海における制海権の所在を示すバロメーターともなっている。紀元前2世紀のローマによる征服後は4世紀にアフリカ北岸に拠点を置くヴァンダル王国、6世紀にローマ世界の再構築を目指したユスティニアヌス帝のビサンツ帝国、8世紀以降はイスラム諸王朝へとバトンが渡され、13世紀にレコンキスタの機運高まるアラゴン王国の支配を受け、王国が数度に及ぶ隣国との合体を経てスペイン王国となり現在へと至る。なおマヨルカ島や隣のメノルカ島には‘Talaiot’と呼ばれる青銅器時代の巨石遺跡が残っていて、コルシカ・サルディニアといった西地中海の他の島に残る遺跡との連関が考えられている。[→link] また島の南西岸に位置するパルマがフェニキアやイスラムの影響を残すのに対し、北東岸に位置する港町アルクディア(Alcúdia)が円形闘技場など古代ローマの面影をより強くもつことは興味深い。この点でも、地中海の勢力図がそのまま島の地勢に縮図となって反映されている観がある。
ところで日本語の観光関連サイトやガイドブックの類をあたると、マヨルカの見どころとして筆頭にあがるのは大抵パルマのカテドラルのようである。近代以降のヨーロッパ世界でこの島が観光地として注目された理由は本来その気候と海にあるのだけれど、そこは浜辺で何日も過ごすことができない日本人向けに書かれているからだろう。
この大聖堂、元はモスクのあった場所に、マヨルカを征服したアラゴン王ハイメ1世が建造を開始した。着工は島の征服と同じ1229年である。そして最初の完成がなんと1601年。この気長さ、即座にバルセロナのサグラダ・ファミリアを思い起こすところだが、その設計者であるアントニ・ガウディはパルマのカテドラルの改築プロジェクトにも携わっていた。彼が加わったのは1901年で、1914年に教会側と口論になって手を引いている。頓挫したとはいえ14年も関わったのだから今に残るその影響いかばかりかと期待も膨らむが、プロジェクトそのものは彼が参与する半世紀前から進んでいたらしい。とにかく時間のスケールがでかいのだ。というわけでこの聖堂におけるガウディの遺産はごく一部となるのだが、それでも一見してガウディ然とした異様を湛えて建築内全体のムードを変調させてしまうのがやはり彼の彼たる所以だろう。
ちなみにこのカテドラルの身廊部分(nave)の天井高44mは、ヨーロッパ全体でもトップクラスの高さを誇る。[→link:6位にランク] 冒頭画像(上右)はその身廊天井を見上げたもの。下図はガウディによる変更部分、天蓋装飾と聖歌隊席。

ハイメ1世率いるアラゴン王国が、イベリア半島内のレコンキスタ完了より数世紀も早くバレアレス諸島の支配に動いた理由としては、本土バレンシア以南のイスラム勢力に比べて駆逐が容易だったということも無論あるだろうが、カスティーリャ王国など同じ半島内のキリスト教諸勢力との軋轢も大きかったと推測される。そのあたりはポルトガル王国によるセウタ進出とも似た背景を窺わせるが、セウタ進出がのちのポルトガルによる大西洋航路開拓の先鞭となったように、この早い段階でのバレアレス諸島征服はのちのスペインによるサルディーニャ、シチリア、そしてナポリ王国の南イタリア、アテネ周辺のギリシア支配へと至る版図拡大の歴史にとって必要不可欠の意味をもった。「スペインによる支配」と一口にまとめると見えにくくなってしまうが、こうして地中海に版図を広げたのは実質的にアラゴン王家の勢力で、ハイメ1世の時代すでに王国における公用語の一つであったカタルーニャ語はバレアレス諸島はもとより、イタリア支配の長いサルディーニャ島の一部でも今なおその方言が確認できる。この点は中南米に浸透したスペイン語が“カスティーリャ語”であることと実に対照的なところで、イベリア半島各地方の自治的な性格は近代以降のスペイン・ポルトガル没落の一因ともされているが、こう考えてくるとそうした性格に由来する競合的な動機付けがなかったら、そもそもスペイン・ポルトガルによる大航海時代が到来したかも怪しくなる。
この「身近に競合者をもつことの強さ」は今日でも新自由主義(ネオリベラリズム)のような形でしばしば世に喧伝されるが、個人的には大嫌いな思想の一つだったりする。卑近なところでは「ライヴァルを意識しろ」とか、「つねに目標をもて」とかね。そうした底の浅い発想ばかりを重視するというのは、それはそれで確実にある種の病気だと思う。今のスペインみたいにそういうことを基本的に全て放棄してまったりと停滞をかこつというのも人間の営みとして当然アリだろうと思うけど、いま日本社会でそれができるのは老後に入った団塊世代かニート・引きこもりの若者たちだけだ。それができずに苦悩する人々が行動に出た結果としての、トップクラスの自殺大国の姿がここにある。この国ではふつう停滞即困窮を意味するから、一度首をもたげただけで救いのない八方塞がりの闇へとたやすく陥ることになる。
と、心が荒みはじめた頃合いを見計らって、さいごにこのサイト[→link]を紹介して締めとしたい。マヨルカ島に嫁いだ日本人のかたによるブログなのだけど、文章と写真のバランス、生活者視点と訪問者視点の按配がとてもいい感じで、う〜ん。 なごめる。


























