Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
眠るサロニカ
 けさみた夢のなかに、チョコレートの菓子が出てきた。棒状になっていて歯ごたえがあり、きちんとコクがあるのにクリスピーでおいしい。いままでに食べたことのない種のもので、袋から先の部分をのぞかせて食べているそのチョコレートのことは思い出せるのに、不思議とそれ以外のことは何も覚えていない。屋外だった気はする。朝もやのように薄白く冷えきったその空気の感覚がなんとなく、きのうふと思い出していたテオ・アンゲロプロスの映画に出てくるテッサロニキの感じに近かった。

theo◆サロニカ (テッサロニキ), Salonica, Θεσσαλονίκη
 “永遠と一日”というタイトルのその映画は、テッサロニキに暮らした老詩人がアルバニア系難民の少年と関わるうちに特異な追憶の旅へといざなわれていく筋立てなのだけど、前もって言わせてもらえれば私がアルバニア系難民の子供について何かを考えることなんて年に一度くらいしかたぶんない。こう書くとなんだか妙に罪悪感を覚えてしまうのだけれど、平均的な日本人であればアルバニア系難民について考えを巡らせる機会なんてやっぱりそうはないんじゃなか。
 とにかくきのうは年に一度くらいのそういう日だったわけだけど、それはこのブログの次のテーマはサロニカだなぁとあれこれ思い巡らせていたことによる。それなのにいったいなんなのだろう、この偶然は。昨夜眠るまえにみたテレビでは、コソボ自治州による唐突な独立宣言のニュースが流れていた。ブッシュ大統領なんかが面倒臭そうに事態への対応についてインタビューに応じていたけれど、あまり深く考えずに眠りについた。
 それでいまこの記事を書こうとしてようやく気がついた。独立を主導したのは言うまでもなく自治州に住んできたアルバニア系住民たちで、つまりユーゴ紛争時に難民と化したまさにそのひとたちではないか。ちょっとびっくり。この手の偶然、ときどきあるよね。自分とはまったく関わりのない(はずの)こと同士がなぜか、自分のごく近くですれ違ってみせるというか。ユングの唱えた共時性なんかを引き合いにこういうことを少々オカルティスティックに捉えたり、あるいは数値的にその妥当性を反証してみせるような思考を働かせてもいいのだろうけど、現実に起きたという事態の魅力に優ることはほとんどない。だからただ唖然とその偶然の前に目を見開いているのが実は最もふさわしい態度なのだということを、この数年でようやく学んだという気がする。

salonika

 サロニカの呼称もあるテッサロニキはまあそういうわけで(!!)、アルバニア系住民の多い土地である。この街からはマケドニアやブルガリア、アルバニアのほうがアテネへ行くよりずっと近く、トルコとの国境がほぼ同距離という感じ。アレクサンダー大王の東征における出発点の都とされて以来そういう土地で営々と歴史を刻んできたゆえに、ギリシア国内では最も非ギリシア的な歴史遺産に富んだ街となっている。ビサンツ帝国下イコノクラスム(聖像破壊運動)の嵐が吹き荒れた際にも街の人々が協力してイコンを隠し通したため、ビサンツ美術の貴重な作例も多く残った。交易により地力を鍛えた街が発揮するこうしたしなやかさは更なる発展の呼び水となり、オスマン帝国時代には多くのイスラム系住民が住みつき、現在ではユダヤ教徒が多い土地としても知られている。前回とりあげたアテネとは異なり古代中世を通じて、この一帯を流通面から下支えするバルカン半島の中枢都市であり続けてきた。ちなみに街の名テッサロニキはアレクサンダー大王の王妃に由来。
 しかしアテネもそうなのだけど、人通りの多い現代的なショッピングモールや道路の途中にいきなり古代の遺跡や教会がぽつりと残されているのはすごい。日本だったらバリケードで囲って観覧料をとったうえに、出口付近には土産物屋が軒を連ね修学旅行のバスがあたりにとぐろを巻くだろう。古代都市、おそるべし。

 ところでチョコレートにまつわる個人的な記憶を少したどってみると、ヨーロッパのものが多いことに気がついた。ウィーンで食べたザッハトルテは聞きしにまさる美味だったし、高校時代にはよくLintzのチョコレートを好んで食べた。板チョコ一枚買うためにわざわざ銀座の明治屋まで行っていたのだから、ほとんどバカか何かかと思う。いまたどれる一番古いチョコの記憶は、つくば万博のスイス館のおみやげとして親にもらったチョコレートバーだ。そういえばセックスの際に突き上げてくる男のものを‘溶けかけたチョコレートバー’と表現する女性作家がいたことも、きのうは思いだしていた。けさの夢と何か関係があるのだろうか。わりとむしゃぶりついていただけに、気になる。

 映画の終わり、詩人は追憶のなかで問いかける。 「明日の長さは?」
 今は亡き美しい妻がふり向いて答える。  「永遠と一日。」

 私見を言えばこの宇宙の時間は永遠ではなく、永遠よりも一日長い。まさにそれが今日この一日のもつ価値なのだとおもう。

 
2008.02.19 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ヘレニズムの矜持
Parthenon

◆アテネ, Athens, Aθήνα
 アテネと聞いて、アクロポリスの丘をイメージしないひとはきっと少ないんじゃないかとおもう。とりわけ丘の頂きに立つパルテノン神殿のフォルムなど、“文化遺産的なもの”を示す現代人共通のアイコンとしてすでに定着済みだと言ってもいい。けれども周知のごとく、この白い石柱に囲まれた神殿の内部には何もない。歴史的な観点からこの街を考えようとするとき、このことは現在のアテネを他の何よりもよく象徴しているように思えてくる。何を言っているのかわからないようなら、アテネについてアクロポリス以外に思い出せるものが幾つあるか少し数えあげてみてほしい。そしてもしその少なさを意外に感じてくれるひとがいるのなら、教授はうれしい。だって今回はそうなった経緯にフォーカスするんだもん。

athena 神の主座たる場の核に何もないということは、ふつう空虚よりも神の遍在なり形而上物としての信仰の本義なりを指し示すから、モスクであれ神社であれそう珍しい話ではない。たとえば沖縄の土着信仰における御嶽(ウタキ)のように、そこに人為の形跡があればあるほど汚されるように見える場のほうが霊的な場としてはふさわしくも感じるけれど、パルテノン神殿に関して言えばこれはもう文字通りただ空虚である。自分の感覚を信じるならそうとしか言いようがなく、建築物としての神殿の存在感は確かに圧倒的だけれどもそれだけで、あとは風の吹きすさぶ岩場のうえに他の石材の構造物とその瓦礫が転々としているという以上のものは何もない。
 けれどもかつてはこの神殿の内陣にアテネの守護神である女神アテナの巨大な立像が安置され、建築本体も黄金や極彩色の装飾により絢爛を極めていたらしい。女神アテナを表した彫刻やレリーフには幾つかのパターンが現存するが、そのなかで神殿にあったアテナ像に比較的近いと思われるものが市内の考古学博物館に収蔵されている。(右図) 風雨に浸食されてややグロテスクな色合いも深めているが、足に少し遊びをもたせているにも関わらず峻厳とした風格を感じさせる姿である。

 彼女がいつこの神殿をあとにしたのかについては今もよくわかっていない。ともあれ古代ギリシア文明が衰退し、マケドニア王国の侵攻を許し、その後もローマ、ビサンツ、オスマンと支配者を変えていく歴史のどこかで、彼女は去った。
 マケドニアに敗れて以降、アテネの土地が二度と周辺地域を圧するだけの求心力を発揮することがなかったのには幾つかの要因が考えられる。うち一つは地勢的な条件の悪さで、端的にいえばあまり防御に向いていなかった。平地がだらりと広がり、海は三方に開け、防備のとっかかりとしうる目立った河川も山もない。一見アクロポリスの丘があるじゃないかとも思えるし、世界史に関心があるひとならこの丘を攻防の舞台とした戦闘が度々あったことを知ってもいるだろう。そこで下の写真を見てほしい。

acropolis

 ライトアップされた夜の写真ではっきりと見えるが、神殿はそそりたつ断崖の上に建っている。この断崖は頂上部分をほぼ一周しているため、わずかに通る登山ルートを塞いでしまえば平野部から神殿に到るのはほとんど不可能だ。匹敵する高さをもつ丘は付近に他にもあるのだけれど、これだけの断崖をもつのはアクロポリスの丘だけである。だからアテネを巡る争いは必然的にこの丘の攻防へと帰結する。だが致命的なことに水利がない。実は南側に古くからの井戸が一つ現存するのだけれど、汲み上げるには麓近くまで降りねばならず防衛時には意味がない。そして神殿のサイズからも推測できるように、このテーブルの上に乗る兵士の数は限られる。言うならば大きめの本丸が掘も城壁もない丸裸の状態で平原にぽつんと立っているようなもので、万単位の軍隊の前には無に等しい。よって古代以降近世に至るまでこの地を治めた君主はいずれも、アテネに本拠を置くことなど試みもしなかった。それでも当時のキリスト教社会では万単位の戦争など稀だったからイスラムの侵攻まではそれで充分だった面もあり、しばしばアクロポリスを巡る数百人規模の戦闘がこの一帯の歴史を決めた。
 この点は歴史の授業等を通じモンゴルの来襲や戦国の群雄割拠などで十万単位の動員に馴染んでいる日本人の目には意外に映るかもしれない。そのためかたとえばWikipedia日本語版のアテネの項目では「東ローマ帝国やオスマン帝国の時代を通じて、寒村といってよい状態であった」の一行で1500年分の歴史が済まされていたりするのだけれど、これはいくらなんでも乱暴で、これほどの威容を誇る神殿の立つ場所が一帯の村落同様ただの寒村でいられたはずはない。時によりフィレンツェやヴェネツィアの支配下に入ったり、イスラムとキリストの綱引きの場になったりしたが、どの時代の人々にもそれなりに特別な意識をもってアテネ一帯は扱われていたようである。各時代の歴史家が折りにつけこの地を訪れ記録に残していることからもそれがわかる。(それにモンゴルや日本の動員力のほうが、同時代を横断的に見渡すと少し異常だったのだ。)

 さてパルテノン神殿が弾薬庫の爆発により今日の無惨な状態に至ったことはよく知られているけれど、爆破に至った経緯については不思議とあまり知られてない。弾薬庫に砲弾を撃ち込んだのは我らがヴェネツィアで、17世紀末のことである。このとき神殿を弾薬庫として使用していたために、神の場を汚した者として使用者であるオスマン帝国の軍隊が悪者扱いされることも多いのだけれどそれはかなりの偏見で、戦時に物理的な要害を要害として利用するのは古今東西至極自然の営為である。さらに言えばローマ以降長くキリスト教会化されていた神殿だけに、さすがにキリスト教勢力が信仰の場を砲撃の的にはできないだろうともオスマン軍は目論んだ。けれども攻め寄せてきたヴェネツィア人が、かつて十字軍をあやつってキリスト教の聖都を陥とした経歴をもつことは以前にも述べたがごとく、逆の意味で“さすが”だったわけである。スルタンもびっくり。
 余談になるがヴェネツィアに限らず近世のイタリア人が発揮した現実主義は、少し現代人の想像をも超えるものがある。フィレンツェのメディチ家は当主を聖人に模した宗教画を描かせ、ローマの梟雄チェーザレ・ボルジアは教皇位をも平然と戦略の駒として使い、政務官マキャヴェッリは既存の道徳や規範を徹底的に等閑視する思想を立てた。なにも彼らだけが特別だったのではなくて、ルネサンスを通り越して周囲の人間たち全体がそういう空気に包まれていたのである。こうしたあたりは名実ともに宗教上の権威者たるオスマン朝の統治者たちには最も理解できなかったことかもしれない。現代の価値観に照らしても、たとえばいくら成功を収めた欧米の資産家だって自らを聖人に擬すならもうその日から危険人物扱いだろう。

pallasathene パルテノンに隣接するエレクテイオン神殿は石柱そのものが女性の形に掘られたポーチをもつことで知られているが、そのうち最も状態の良いものは現在ロンドンの大英博物館にある。またミロ島のヴィーナスやサモトラケ島のニケがパリのルーヴルにあるように、古代ギリシアの傑作の多くは国外に散逸したままだ。だがこのことは今も昔もギリシアがヨーロッパ人の憧憬の的であり続けてきた証とも言え、現在のEUに連なる汎ヨーロッパ的な価値観を醸成する素地の1つにもなっている。
 19世紀末ウィーン分離派の巨匠グスタフ・クリムトが描く女神アテナ(左図)は、冒頭に挙げたほのかにオリエント的な印象もある石像のそれに比べて、完璧なまでにヨーロッパ的な幻影の雰囲気に満ちている。美術革新の急先鋒にいたクリムトにしてこの態である。文化都市としてのアテネは今やや虚ろだが、創造の源泉としてのギリシアにはなお淀みがない。

 
2008.02.17 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
メイズの島
 さてエーゲ海に入った。アドリア海の諸港がおおむね古代ローマに起源をもつことは前回までに述べたが、エーゲ海の港となるとその発祥はさらに古くなる。古代ギリシア文明自体がそれ以前に発達したミケーネやミノアなど複数の高度な文明のうえに建てられているから、個々の港のスタートラインはほとんど伝説の霧の向こうに霞んでしまう。

 たとえばミノア文明と古代ギリシア文明とのあいだにどのような影響関係があり、文化史的にどれほど接続していたのかについてはもちろん議論の余地が大きいままだ。だが様々な利便性からある島のあるポイントには常に人が住み続け、前代の遺産のうえに生活を営んできたことはエーゲ海にかぎらずどの文明圏でも確かである。いつの世も、港とはそういう場所であり続けた。

heraklion

◆カンディア (イラクリオン), Candia, Heraklion
 古代のエーゲ海を往き来していた人々にとって、クレタ島の存在は外国人の我々が現代の地図を見て感じるそれに比べとてつもなく大きなものだったんじゃないかとおもう。なぜなら無数の島々が浮かぶエーゲ海の東面にはアジア大陸の断崖が連なり、北面と西面はギリシア本土がさえぎるように、クレタ島はこのエリアの南限を形作っているからだ。壁のように長く横たわるこの島までが自分たちの住む世界という認識は、恐らく長くあっただろう。

 カンディアは古来よりそのクレタ島の基幹港であり続けた。現代ではイラクリオンの名称が一般的で、「カンディア」はイタリア語やトルコ語での呼称である。大航海時代Onlineの世界ではドゥブロヴニクがラグーザとされているように、このあたりの港の多くはヴェネツィア視点で設定されている。(なぜかザーラだけはザダールと英語読み)
 そういえばゲーム内では東地中海でここだけイタリア語が通じたはずだ。実際今でもこの一帯の港に伸びる埠頭の先にはしばしばヴェネツィア人の建てた要塞を見かけることができるのだけれど、カンディアのそれは他のどれよりも堅牢な印象を与え、それ自体がほとんど城である。(上画像の手前) 彼らの通商戦略上もこの港はそれほどに重要拠点だったのだ。

octpasjar 毎回まるで見てきたようなことを言うようだけれど、ここに関しては実際に歩いたことがある。要塞につらなる防波堤に座ってひと休みしたりもした。クレタ島を中心に発達したミノア文明は、外光的な印象のあるエーゲ海の諸文明のなかでもひときわ開放的なことで知られており、その気風は現在のイラクリオンにもどこか通じている。もしエーゲ海をこれから旅行するひとがいるのなら、アテネやロードスやミコノス島もいいけれどクレタもぜひお薦めしておきたい。
 極私的にこれはなんだか、ソウルや香港もいいけれど台湾もいいよ、という感覚とちょっと似ている。大きめの島ならではのおおらかさがあるというか。それからエーゲ海のたこは旨い。ハーブをまぶした太い足のソテーに地酒が一献あれば今夜は天国というくらい。

 ゲーム内ではこの街から奥地へ分け入るとクノッソス宮殿を見つけることができるが、実際にも街から出ているローカルバスに乗るとその遺跡まで行ける。ローカルバスの案内音声は当然ギリシア語であって、バス停を降りたら目の前に遺跡が広がるというわけでもないので注意を要する。ツアーバスで行けばこういう苦労はないのだろうけど、運転手さんとの身振り手振りの会話も込みでそこはやはり旅の醍醐味だとおもう。迷宮クノッソスについてはたぶん別の機会に。やたらに猫が多かった。


 
2008.02.16 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
真珠と魂
◆ラグーザ (ドゥブロヴニク), Dubrovnik, Ragusa
 ヴェネツィア人のキャラクターで大航海時代Onlineを始めると、ラグーザはごく初期のうちに訪れる港の一つなのだけれど、実をいうとそれがドゥブロヴニクと結びついたのはかなりあとのことだった。だって名前ぜんぜん違うじゃーん。って学者気どりはこれだからいけない。まぁ准だし。

ragusa1 で。ドゥブロヴニク。こちらならテレビや本などで幾度か目にしてきたわけだけど、NHKでもTBSでも世界遺産系の番組でこの街を扱うと必然的にその回は高水準のものになる。なぜなら素材が良すぎるからだ。限られた区画に濃い歴史と磨き抜かれた伝統と度重なる戦乱を耐え切った痕跡が凝縮されているためどの目にも映えるし、そこに暮らす人々はみなこの街とともにユーゴ紛争の戦火をくぐり抜けた生き証人だからストーリーにも事欠かない。‘アドリア海の真珠’と讃えられることにはテレビ画面を眺める誰もが納得がゆくだろうし、現存してくれて本当に良かったと視聴者を安心させながら番組を終えられる。完璧。てかなにこの青と朱と白の美麗。ほとんどジョークの世界じゃないか。

 といって上辺だけ見てあらキレイまあステキなんて有閑マダムのパックツアーのごとく通り過ぎてしまうには、あまりにももったいない街でもある。そこらへんの含蓄を一度きちんと抑えてみることは、この街に限らず過剰なまでにパッキングされ周到な保存措置がとられた観光都市を考える際にはけっこう有効かもしれない。
 たとえば海に大きく張り出したこのドゥブロヴニク、どうしてこの場所にこのような形態で街が築かれどのように発展していったのかを考えだすと、この街がかつてアドリア海やバルカン半島一帯のみならず、地中海全域の諸港と遠く東洋へ連なるシルクロードとを連絡する結節点の役割を果たしていたことまでが見えてくる。白亜の城壁に囲まれたこの小さな歴史地区が、イメージのなかでそのようにして地球大のスケールのなかにうまく納まってゆくのはなんだか、想像力のもたらしてくれるとても愉快な光景だとおもう。

 前回の記事に挙げた地図を見れば、シルクロードの地中海側の出口としても、イスラム勢力を迂回する形での黒海交易の窓口としてもこの街が絶妙な位置にあることは容易に推測できることだろう。「ラグーザ」とはイタリア語の「ラグーナ(潟)」に由来し、「ドゥブロヴニク」はスラブ語の「ドラヴォ(森)」に起源をもつという。洋上からこの地に到ったローマ人と、内陸からたどり着いたスラブ人との視点の違いがそのまま街の呼び名の差異につながっているのは興味深い。
 すでに扱ったトリエステやザダールがそうであるように、この場所もまた古代ローマに起源をもち、ヴェネツィア最盛期にはその中継港として栄え、その後も時々の権力者に名目上は服属しながらも、実質的には自治の気風を貫いた。

ragusasky

 こちらは真上から。とうとうこのブログにもillustrator®の投入である。准教授もたまには進化する。昇進はしない。わーい。
 で。ドゥブロヴニク。城壁の内側、写真中央よりやや上部に一本の通りが横たわっているのがわかる。元々はそのラインあたりから海側が丘陵のある島になっていて、後世になって人口が増え戦争の形態が変わるにつれ、段階的に陸地とのあいだにあった海峡が埋め立てられて今ある地続きの平城のような構えになった。ユニークなのは誰か聡明な君主によって防備が固められたのではなくて、街全体で供出した資金をその時々に必要と考えられる塔の新設であるとか砲台の増強などに集中的に運用するシステムが発達したということだ。
 時代の変遷のなかで次々にやってくる外からの脅威に対しては、直接的にはこのように巧みに自らを要塞化していくことでそれに抗した。間接的には牽制しあう諸勢力のいずれとも交渉をもつことで可能なかぎり自らを無風状態に置くよう努めてきた。その独立独歩の姿勢は現代に入って世界文化遺産の指定を受けたのち、先のユーゴ内戦時の砲撃によって街の過半が壊滅した折にも発揮される。UNESCOの世界危機遺産リスト[→World Heritage in Danger List]への掲載後、ほんの数年にしてそこからの離脱を成し遂げたのだ。

 戦災後のこの急速な復興による世界遺産としての名声の維持は、何も染みったれた使命感や観光資源の確保という卑近な動機ばかりによるのでは恐らくない。弾道ミサイルやステルス爆撃機のある現代においてこれ以上の物理的な要塞化はもはや無意味な一方で、最善の防衛策が実はここにある。90年代にセルビアと対峙したクロアチア政府が欧米諸国を篭絡すべく世論操作を扱う私企業を雇っていたことは、今では周知の事実となっている。その結果、NATO軍が動いた。これは深読みかもしれないが、ネットやマスメディアを通じた情報操作が戦争の発生そのものをコントロールする時代であることを、この小さな街の住人たちは先の紛争を通じて肌身で会得したんじゃないか。独立自治の魂、おそるべし。

 時代が変われば人も変わるという面は確かにあるのだろう。だが何が起きようとその場所に住み続けると決心したならば、その意志を変わらず支え続けるものは何なのか。テレビカメラに向かって記憶を語る老人たちの表情はいつも決まって穏やかだけれど、その眼球の底に光る炎を見過ごしてはつまらない。砲音の止んでいる今こそ次に備える戦いを日々生きるべきなのだ。そのことを彼らは千年の昔から知っている。わかっているからこそ穏やかに語るのだ、と画面のこちら側で考える。そう考えたほうが面白いからだ。
 
 
2008.02.14 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
紅の海
 アドリア海の俯瞰図。関連する港にピンを打ってみた。

adriatico2

 一見して、イタリア側の海岸線はなだらかに伸び、バルカン側のそれは無数の島嶼群を巻き込んでひどく入り組んでいるのがわかる。地形が複雑で水利のあること、波風を和らげる入り江に富み、できれば沖合に適度な小島が浮かんでいること。これらはいずれも天然の良港の条件であり、アドリア海の東岸は多くの場所でそのすべてを満たしていた。だから海運都市国家としてのヴェネツィアがその興隆に歩を併せるようにこの一帯を支配下としていったのは、ごく自然な流れだったと言ってよい。
 だがその過程は必ずしも平和裡に進行したわけではない。というよりもおよそ土地の所有ということを巡って、人が争わずに済んだ例など史上稀だろう。たとえばヴェネツィアによるザダールの領有も、その例外ではなかった。時に自らの手で血に染めてゆくことにより、のちに「ヴェネツィアの庭」とすら称されたアドリア海を彼らは力ずくでもぎ獲っていったのだ。

◆ザダール, Zadar, Zara
 周辺の都市の多くがそうであるように、ザダールの起源もまた古代ローマに遡る。紀元前にはヤデル[Jader]と称されていたらしい。最初の文字がヤ行になるだけで、なんだか聖書にでも出てきそうな響きになる。イタリア語での呼称はザーラ。ローマ帝国の分裂後もビサンツ帝国、フランク王国と時々の権力者の影響下で中継港としての役割を果たし、10世紀になると独立を果たしたクロアチア公国の一部となるが、公国ごとハンガリー王国に吸収されると今度は海上交易に食指を伸ばしたいハンガリーからアドリア海への玄関口としての役割を期待されるようになる。この期待と真っ向から衝突したのがヴェネツィアだ。

 そしてその時がやってきます。(→NHK風) 1202年、聖地エルサレム奪還を目指してフランス各地から馳せ参じた騎士たちによる第4次十字軍が、ヴェネツィアの策謀によりなんとザダールを攻撃、占領のうえ破壊・略奪の挙行に及んだのである。こうなるともう味をしめた彼らクルセイダーズは止まれない止まらない。よく知られているようにその後もヴェネツィアの提供するファイトマネーに釣られ、今度はキリスト教国ビサンツの都コンスタンティノープルまで陥としてしまう。ヴェニスの商人、おそるべし。ハギア・ソフィア大聖堂に立てこもった一般市民や聖職者たちは殺戮され、迫り来る異教徒に抗し続けて東地中海に栄華を誇ったビサンツ帝国はあろうことか、背後から応援に来たはずの十字軍に事実上滅ぼされてしまったのである。合掌。

zara

 画像(上)はザダール市中に座す聖ドナット教会[St. Donatus' Church]。白い円形の壁が妙に個性的である。予想に違わず内部の音響は良いようで、コンサートが頻繁に催されているらしい。9世紀の建築で、石材はその場にあったローマ時代の広場の建材を流用しているとのこと。土台には広場そのものの遺構が今も顔を覗かせているというから、なんとも大胆な話ではある。赤く染まった雲のまた綺麗なこと。

 
2008.02.13 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
きのこだけじゃないっ!
◆アンコナ, Ancona
 イタリア半島の地図をひらくと一目瞭然なのだけれど、主な都市のほとんどは北部の平野か西岸側に集中し、半島の東岸はなんだかうら寂しい。山地も沿岸近くまでせまっていて、西岸のローマやナポリの周辺に広がるような平地があまりない。背後に一定量の穀倉地帯を抱えることは大都市に不可欠の要素だったろうから、その時点でもうなんていうか劣勢だ。これはもはやラ・山陰地方の称号に値する。ダイタイ「陰」ッテナニヨ。ソノマンマスギテ笑ッチャウワ。
 という感じに日頃から奮起している港の一つが、アンコナである。(たぶん) 

 いまも昔もアドリア海の要衝の一つではあり続けてきたものの、フィレンツェやローマ、ヴェネツィアといった世界史に冠たる諸都市からほぼ等距離に挟まれて彼らの緩衝地帯のような役割も負わされてきた観があり、歴史的にみてもこの街はあまりぱっとしない。とはいえアドリア海のなかほどに位置する流通面での優位性は明瞭で、現代でも工業地帯が連なる半島北部と東地中海方面とをつなぐ経済都市としての役割は健在だ。
 だがそれだけに、地域内的な重要性は高くても外部的な知名度はやはり低い。東京や大阪、京都や広島は知っていても名古屋は知らないという外国人が多いのと少し似ている。ラ・ナゴヤの称号を与えよう。

◇ラヴェンナ, Ravenna
Basilica of San Vitale

 この点で同じイタリア半島東岸にありつつも、アンコナとは対照的な展開を見せた街としてラヴェンナを挙げておく。画像(上)はラヴェンナの誇る主要建築の一つ、サン・ヴィターレ聖堂[La basilica di San Vitale]。初期キリスト教建築の代表的なもので見ての通り八角形の構成が珍しい。6世紀前半に建てられたこの聖堂が今に残るのは、皮肉にもラヴェンナの都市としての繁栄が古代のうちに衰えを見せてしまったからだ。

 もともと古代ローマの軍港としてスタートしたラヴェンナは、西ローマ帝国の滅亡後東ゴート王国の首都とされ、やがて大ローマ帝国復活を志す東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のイタリア統治における拠点となる。よく知られているようにビサンツ帝国ではその後イコノクラスム(聖像破壊令)が発布されるが、もう8世紀半ばのその頃には西に勃興したフランク王国の支配下に入っていたために、ラヴェンナの聖像たちは損壊の憂き目を逃れた。また本土ビサンティウム(現イスタンブール)のようにその後イスラム化されることもなかったために、結果的にビサンツ美術の粋がほぼ完全な形でここに残った。

Justinian I

 サン・ヴィターレ聖堂内に遺るこのモザイク画(上)もその一例。中央に描かれているのは聖堂建設を指揮したユスティニアヌス1世。ゲーム内にも登場するハギア・ソフィア(@イスタンブール)をほぼ現在の形に再建した人物でもある。

GallaPlacidiaEle

 こちらはガッラ・プラキディア廟堂[Mausoleo di Galla Placidia]。425-430年の建立(推定)。サン・ヴィターレ聖堂もそうだが、外観の画像を見ていまいちな印象を抱いたひともいるかもしれない。なんか箱っぽいっていうか、ただのれんが倉庫っぽい。もしそう感じたなら、比較対象として脳裏にイメージしているだろう大聖堂なり教会なりの建築年代を考えていただきたい。軽く千年は違うことを踏まえて見ると、その凄味の一端がわかるはず。
 そして実のところ、たとえばパリのノートルダム大寺院などよりもこれらに圧倒的な存在感を覚えたり、運慶快慶の仁王像よりも法隆寺の釈迦三尊像に迫力を感じるようになると、美術鑑賞は格段に面白くなってゆく。さらにいくとそれらを美術品として見てしまうことの貧しさも気になりだして実も蓋もなくなってくる。世のなか一筋縄ではいかないものである。やれやれ。

 ラヴェンナは大航海時代Onlineには登場しないものの、このブログ的に外すわけには当然いかない。決してアンコナについて書くことが思いつかなかったわけではない。断じてない。

 
2008.02.12 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
カーテンの端の夕焼け
 唐突に再開してみたり。

◆トリエステ, Trieste
 このブログはヴェネツィア関連の記事から始めたので、再開一番目の記事はお隣の港トリエステから手をつけてみる。
 ゲーム内ではワインを売っているくらいで極めて存在感の薄い港だけれど、史実のトリエステは古代ローマに起源をもち、大航海時代にはハプスブルク家の支配するオーストリア・ハンガリー帝国唯一の大規模商港として長く栄えた街だった。

trieste

 中近世において商業的に力をもつということは最新の知識・技術の集積場となることを意味するから、いきおいそうした街は時の権力者に対して一定の発言力を有するようになる。日本では堺などがまさにそうだったしヴェネツィアはその最たるものだけれども、トリエステもその例外に漏れず自治的な性格を併せ持っていたらしい。商いのことは商人に任せておけば高い税収が得られるというのであれば君主としても不満はないだろうし、権力者の名目上の庇護によって商業に一層専念できるならば港町の住人としても都合が良い。
 そのようにしてトリエステの街はオーストリア帝国時代に展開したバロック様式の建築群が列をなし、イタリア式広場の奥には古代ローマ様式の屋外劇場が口を開き、その背後に佇むゴシックとロマネスクのファサードをもつ教会のドームにはビサンツ様式のモザイク画が残るというように多様な文化的背景を抱え込むに至る。

 大航海時代Onlineではヴェネツィア領として登場するがそんなわけでこれは正確ではなくて、ヴェネツィアの統制下にあったと言えるのは14世紀まで。だがこのゲームのプレイヤーには周知のごとく海洋都市国家としてのヴェネツィアの最盛期がこのゲームに登場する他の5ヵ国とは数世代ずれているために、この設定は必ずしも誤りとは言い切れない。ヴェネツィア関連の設定に関しては「大航海時代」のフレームを前時代に横滑りさせなければゲームバランスがとれないからだ。

trieste2 現代史におけるトリエステの変遷もまた複雑怪奇なのだけれど省略。チャーチルによる有名な“鉄のカーテン”演説[1946]の一節が大国に翻弄されたその軌跡を象徴しているような気がする。

 ‘バルト海のステッセンからアドリア海のトリエステまで、大陸を縦断して鉄のカーテンがおろされている’

 カーテンのすそはよく揺れるのだ。画像一枚目はマリア・テレジアの号令下整備された新市街を空から。二枚目(右)はアドリア海に面した波止場の夕焼け。

 
 
2008.02.11 * エーゲ海・アドリア海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
       
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レイニーハート准教授

Author:レイニーハート准教授
Nation:ヴェネツィア共和国
Notes:大航海時代Online Notosサーバにて航海中の学者見習いによる日誌。准なのに教授と呼ばれていることから、安易にこのブログ名となりました。リンクフリー、コメント・TBお気軽に
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