◆シラクサ, Siracusa, سيراقوسة, Συρακοῦσαι
およそひとの生きるところには、あまねく物語が息づいている。神話が世界の輪郭をすべて明らかにした時代から、内面の問題が個々人の物語として細分化され意識化される近代へ。語られる言葉の響きこそ多種多様だが、そこには古今東西を問わず通底している型らしきものがある。C.G.ユングはこれを集合的無意識を基底とする元型イメージの発露とし非科学的だと批判を浴びたが、このとき批判者たちが身を置いた“科学”の視座なり立場なりを、ユング当人がそれら批判者ほどに信奉しきっていたかは謎である。重要なのは説明の作法なのか、語られる内実か。
中世後期のシチリアで育った神聖ローマ皇帝でシチリア王のフェデリコ2世は、その類稀な教養や知的好奇心の奔放さ、研ぎ澄まされた合理的思考や外交感覚に秀でた諸々の施策から“世界の驚異”と讃えられ、しばしば“王権に座った最初の近代人”と評される。けれども私見の範囲で言えば、これら知性や合理性の有りようをもって近代人の証とするのはどこかおかしい。近代以降‘知’の基盤となった科学とは、ある面では神話の読み換えでしかないからだ。
このことから彼をして“王座の最初の近代人”たらしめる根拠を探すなら、むしろフェデリコ2世が生きた物語の内に目を向けるほうがふさわしく思われる。中近世から近現代へと至る過程とはすなわち人々が独自の物語を希求しはじめ、あるいは強いられ、魂の孤立を深めていく過程でもあったからだ。そして事実、彼を育んだシチリアは当時の地中海世界において最も物語に満ちた土地の一つであり、フェデリコ2世がそこで近現代人に先んじて周囲の環境世界とは隔絶した己の在りようを見出していたとしても何ら不思議はない。
この王が為した具体的な事績についてはネットを探せばいくらでも拾えるので、主なものを幾つか挙げるに留めておく。イスラムへの深い理解に基づいて、数ある十字軍の歴史のなかで唯一エルサレムを無血開城し[1228]、時のイスラム世界最大の権力者アル・カミールとはアラビア語による自然科学に関する交信によって友情を深めた。フェデリコを反教者と罵り破門すら行ったローマ教皇の勢力を巧妙に抑え、ドイツの諸侯に対しては関税権や裁判権のほか多くの権限を認め[1220]、のち500年に及ぶプロイセン一帯の領邦的性格を決定づけた。中世ヨーロッパで初の国家法典となる‘皇帝の書(Liber Augustalis, シチリア法典)’を定め[1231]、各都市の有力者を集めて帝国議会を開催[1240]。この議会運営の手法はのちにシモン・ド・モンフォールによる英国議会創設のモデルとなる。またパレルモには動物園を持ち、キリンを飼い、鷹の飼育に関する詳細な著作を遺した。ナポリでは今日に続くナポリ大学を創設。彼本人は9ヶ国語を話し、7ヶ国語の読み書きができたという。ごく簡略に述べてもこれだけの量になる。おそるべし。

皇帝フェデリコのゆりかごとなったシチリア島は、先史の時代より異なる集団同士が出遭う文明の交差点であり続けた。のちのローマ文明に連なるエトルリア人が北方からこの島に辿りついた前古代において、そこではすでにフェニキア人とギリシア人が凌ぎを削っていた。その後も西方からゲルマン系のヴァンダル族[→link]、東方からビサンツ帝国、南方からイスラムの流入と支配を受け入れたこの島は、11世紀には遠くバルト海から到来したノルマン人の支配下に入り、フェデリコ2世が玉座についた12世紀末にはまさに異文化混淆の極地といった様相を呈していた。幼少時から市井を歩くのを好んだというこの王は、そこで世に流布された無数の偏見に先んじて各々の文化文明の魅力と欠点を見抜く眼差しをごく自然に獲得したのであろう。皇帝位を得ながらも多くの権限を諸侯に委譲し、教皇に破門されたまま十字軍を起こして稀有の成功を収めるという、一見奇妙でその実巧みなバランス感覚もこの環境下では無自覚のうちに養われたに違いない。
異なる文化、異なる価値観のせめぎあう場所において、ひとは初めて他者の存在を深く知ることになる。合理的思考とはすなわち客観性への志向を意味するが、他者との葛藤なしにはそもそも客観的視座の獲得など為し得ない。さらに言えばそれなしにはどのような物語も、またいかなる法体系も成立することはない。(その必要がない。) 南仏プロヴァンスの地に11世紀、トルバドゥールと呼ばれる愛を歌いあげる叙情歌の形式が生まれのちのヨーロッパ文学の礎となったことは過去に述べたが[→link]、直接の語源であるオック語の‘trobador’はアラビア語の‘tarrab(歌うこと)’に由来するという説がある。説の当否はともかく南仏のオクシタニア文化圏がイスラムの強い影響下にあったイベリア半島のカタルーニャ文化圏との親縁性をもったことを考えても[→link]、そこで生まれた新たな文化がアラブの色彩を滲ませたであろうことにはほとんど疑いの余地がない。当時のフランスや北イタリアからは、先進的な事物に憧れて多くのカトリック教徒の青年がイベリア半島やシチリアの宮廷やマドラサを訪れ、イスラム教徒やユダヤ教徒、ギリシア正教徒などと共に研鑽に明け暮れてすらいたのである。
とはいえ愛の詩がアラブ由来というのは少し奇異に映るかもしれない。だがイスラムときけば黒いベールやら禁酒やらといったストイックな心象ばかりを抱くことのほうが恐らく表層的というか、20世紀アメリカ的な見方なのだろう。たとえば11世紀イベリア半島の政治家イブン・ザイドゥーンは詩人としても名を馳せ、ときの王女に宛てた恋歌が原因で投獄されたがのち許されて大臣にまでのぼり詰めた。現代においてもその恋と愛のオンパレードぶりが日本ではほとんど受けることのないインド映画が、ペルシャ湾からアラビア海、アフリカ沿岸のイスラム諸国において巨費と最先端技術を投じたハリウッド映画に劣らない(むしろ勝る)人気を現に誇っていたりもする。そこには現代の日本人が、少なくとも私個人が抱えている根本的な見誤りが恐らくある。
翻ってヨーロッパ文明の展開については、ヘレニズムとヘブライズムとの相克というような文脈でよく語られる。だがこうみてくるとそれもまた、ひどく狭量な視野に基づく偏見なのではないかと疑わしくなってくる。中世最大のキリスト教神学者の一人で没後は列聖もされたトマス・アクィナスが、スコラ学を大成するにあたってイブン・ルシュドの著作に深く影響を受け、また激しく反駁を加えたことはよく知られているが、実際ダンテにしてもゲーテにしても中近世のヨーロッパにおいて鋭敏な感性を湛えた知識人たちはそのいずれもが、己の創造性の根底にイスラムの思想文化が多分に寄与していることを畏敬をもって自覚していた節がある。だからむしろ近代のある段階で、それらは一度‘なかったこと’にされたと考えるのがきっと妥当なのだとおもう。イブン・スィーナーの『医学典範』はラテン語に翻訳され、ヨーロッパの大学では17世紀まで使用された事実がある。ならば彼の立てた思想がキリスト教世界の誰にも影響しなかったとするのはあまりにも不自然だ。真空に浮遊する人間の感覚を説いたスィーナーの存在一般に関する論理はその実、誰もが知るデカルトの命題を嫌でも想起させるものがある。
エルサレムに入城したフェデリコ2世は、彼に配慮したイスラム教徒の住民が定時のアザーンをとりやめたことに気づくと 「この街ではイスラムの祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」 と洩らし、現地の官吏を呼び寄せて 「あなた方がわたしたちの国へ来たとき、教会の鐘が鳴らせなくなってしまう」 と不満を述べたという。 宗教とは彼にとってはじめからそのような斟酌を要するものではなく、純粋にこの世界の輪郭を定める手法の一つとして存在していたのかもしれない。
世界とはこういうものである、と科学は語る。だがそこで語られるもの、たとえば現代にあっては究極的にその論的基盤とされる分子運動や量子力学の支配する世界を、ひとは自らの肉眼で見、己の手指で触れて感得することはない。科学的観測はその最先鋭の領域ではどこまでも観測の域を出ず、いまだ神は神そのものとしてそこで息を潜めているとも言える。
シチリアの街角を歩き、幾つもの異なる言葉で異なる神に関する物語を日常的に耳にしていた彼にとって、もしかしたら真の神とは諸事諸物にあまねく偏在するように感じられていたのではないか。それら市井に響く祈りの調べの向こうがわに。あるいは自前の動物園へ集めさせた、異国の珍獣たちの瞳の奥底に。
およそひとの生きるところには、あまねく物語が息づいている。神話が世界の輪郭をすべて明らかにした時代から、内面の問題が個々人の物語として細分化され意識化される近代へ。語られる言葉の響きこそ多種多様だが、そこには古今東西を問わず通底している型らしきものがある。C.G.ユングはこれを集合的無意識を基底とする元型イメージの発露とし非科学的だと批判を浴びたが、このとき批判者たちが身を置いた“科学”の視座なり立場なりを、ユング当人がそれら批判者ほどに信奉しきっていたかは謎である。重要なのは説明の作法なのか、語られる内実か。
中世後期のシチリアで育った神聖ローマ皇帝でシチリア王のフェデリコ2世は、その類稀な教養や知的好奇心の奔放さ、研ぎ澄まされた合理的思考や外交感覚に秀でた諸々の施策から“世界の驚異”と讃えられ、しばしば“王権に座った最初の近代人”と評される。けれども私見の範囲で言えば、これら知性や合理性の有りようをもって近代人の証とするのはどこかおかしい。近代以降‘知’の基盤となった科学とは、ある面では神話の読み換えでしかないからだ。
このことから彼をして“王座の最初の近代人”たらしめる根拠を探すなら、むしろフェデリコ2世が生きた物語の内に目を向けるほうがふさわしく思われる。中近世から近現代へと至る過程とはすなわち人々が独自の物語を希求しはじめ、あるいは強いられ、魂の孤立を深めていく過程でもあったからだ。そして事実、彼を育んだシチリアは当時の地中海世界において最も物語に満ちた土地の一つであり、フェデリコ2世がそこで近現代人に先んじて周囲の環境世界とは隔絶した己の在りようを見出していたとしても何ら不思議はない。
この王が為した具体的な事績についてはネットを探せばいくらでも拾えるので、主なものを幾つか挙げるに留めておく。イスラムへの深い理解に基づいて、数ある十字軍の歴史のなかで唯一エルサレムを無血開城し[1228]、時のイスラム世界最大の権力者アル・カミールとはアラビア語による自然科学に関する交信によって友情を深めた。フェデリコを反教者と罵り破門すら行ったローマ教皇の勢力を巧妙に抑え、ドイツの諸侯に対しては関税権や裁判権のほか多くの権限を認め[1220]、のち500年に及ぶプロイセン一帯の領邦的性格を決定づけた。中世ヨーロッパで初の国家法典となる‘皇帝の書(Liber Augustalis, シチリア法典)’を定め[1231]、各都市の有力者を集めて帝国議会を開催[1240]。この議会運営の手法はのちにシモン・ド・モンフォールによる英国議会創設のモデルとなる。またパレルモには動物園を持ち、キリンを飼い、鷹の飼育に関する詳細な著作を遺した。ナポリでは今日に続くナポリ大学を創設。彼本人は9ヶ国語を話し、7ヶ国語の読み書きができたという。ごく簡略に述べてもこれだけの量になる。おそるべし。

皇帝フェデリコのゆりかごとなったシチリア島は、先史の時代より異なる集団同士が出遭う文明の交差点であり続けた。のちのローマ文明に連なるエトルリア人が北方からこの島に辿りついた前古代において、そこではすでにフェニキア人とギリシア人が凌ぎを削っていた。その後も西方からゲルマン系のヴァンダル族[→link]、東方からビサンツ帝国、南方からイスラムの流入と支配を受け入れたこの島は、11世紀には遠くバルト海から到来したノルマン人の支配下に入り、フェデリコ2世が玉座についた12世紀末にはまさに異文化混淆の極地といった様相を呈していた。幼少時から市井を歩くのを好んだというこの王は、そこで世に流布された無数の偏見に先んじて各々の文化文明の魅力と欠点を見抜く眼差しをごく自然に獲得したのであろう。皇帝位を得ながらも多くの権限を諸侯に委譲し、教皇に破門されたまま十字軍を起こして稀有の成功を収めるという、一見奇妙でその実巧みなバランス感覚もこの環境下では無自覚のうちに養われたに違いない。
異なる文化、異なる価値観のせめぎあう場所において、ひとは初めて他者の存在を深く知ることになる。合理的思考とはすなわち客観性への志向を意味するが、他者との葛藤なしにはそもそも客観的視座の獲得など為し得ない。さらに言えばそれなしにはどのような物語も、またいかなる法体系も成立することはない。(その必要がない。) 南仏プロヴァンスの地に11世紀、トルバドゥールと呼ばれる愛を歌いあげる叙情歌の形式が生まれのちのヨーロッパ文学の礎となったことは過去に述べたが[→link]、直接の語源であるオック語の‘trobador’はアラビア語の‘tarrab(歌うこと)’に由来するという説がある。説の当否はともかく南仏のオクシタニア文化圏がイスラムの強い影響下にあったイベリア半島のカタルーニャ文化圏との親縁性をもったことを考えても[→link]、そこで生まれた新たな文化がアラブの色彩を滲ませたであろうことにはほとんど疑いの余地がない。当時のフランスや北イタリアからは、先進的な事物に憧れて多くのカトリック教徒の青年がイベリア半島やシチリアの宮廷やマドラサを訪れ、イスラム教徒やユダヤ教徒、ギリシア正教徒などと共に研鑽に明け暮れてすらいたのである。
とはいえ愛の詩がアラブ由来というのは少し奇異に映るかもしれない。だがイスラムときけば黒いベールやら禁酒やらといったストイックな心象ばかりを抱くことのほうが恐らく表層的というか、20世紀アメリカ的な見方なのだろう。たとえば11世紀イベリア半島の政治家イブン・ザイドゥーンは詩人としても名を馳せ、ときの王女に宛てた恋歌が原因で投獄されたがのち許されて大臣にまでのぼり詰めた。現代においてもその恋と愛のオンパレードぶりが日本ではほとんど受けることのないインド映画が、ペルシャ湾からアラビア海、アフリカ沿岸のイスラム諸国において巨費と最先端技術を投じたハリウッド映画に劣らない(むしろ勝る)人気を現に誇っていたりもする。そこには現代の日本人が、少なくとも私個人が抱えている根本的な見誤りが恐らくある。
翻ってヨーロッパ文明の展開については、ヘレニズムとヘブライズムとの相克というような文脈でよく語られる。だがこうみてくるとそれもまた、ひどく狭量な視野に基づく偏見なのではないかと疑わしくなってくる。中世最大のキリスト教神学者の一人で没後は列聖もされたトマス・アクィナスが、スコラ学を大成するにあたってイブン・ルシュドの著作に深く影響を受け、また激しく反駁を加えたことはよく知られているが、実際ダンテにしてもゲーテにしても中近世のヨーロッパにおいて鋭敏な感性を湛えた知識人たちはそのいずれもが、己の創造性の根底にイスラムの思想文化が多分に寄与していることを畏敬をもって自覚していた節がある。だからむしろ近代のある段階で、それらは一度‘なかったこと’にされたと考えるのがきっと妥当なのだとおもう。イブン・スィーナーの『医学典範』はラテン語に翻訳され、ヨーロッパの大学では17世紀まで使用された事実がある。ならば彼の立てた思想がキリスト教世界の誰にも影響しなかったとするのはあまりにも不自然だ。真空に浮遊する人間の感覚を説いたスィーナーの存在一般に関する論理はその実、誰もが知るデカルトの命題を嫌でも想起させるものがある。
エルサレムに入城したフェデリコ2世は、彼に配慮したイスラム教徒の住民が定時のアザーンをとりやめたことに気づくと 「この街ではイスラムの祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」 と洩らし、現地の官吏を呼び寄せて 「あなた方がわたしたちの国へ来たとき、教会の鐘が鳴らせなくなってしまう」 と不満を述べたという。 宗教とは彼にとってはじめからそのような斟酌を要するものではなく、純粋にこの世界の輪郭を定める手法の一つとして存在していたのかもしれない。世界とはこういうものである、と科学は語る。だがそこで語られるもの、たとえば現代にあっては究極的にその論的基盤とされる分子運動や量子力学の支配する世界を、ひとは自らの肉眼で見、己の手指で触れて感得することはない。科学的観測はその最先鋭の領域ではどこまでも観測の域を出ず、いまだ神は神そのものとしてそこで息を潜めているとも言える。
シチリアの街角を歩き、幾つもの異なる言葉で異なる神に関する物語を日常的に耳にしていた彼にとって、もしかしたら真の神とは諸事諸物にあまねく偏在するように感じられていたのではないか。それら市井に響く祈りの調べの向こうがわに。あるいは自前の動物園へ集めさせた、異国の珍獣たちの瞳の奥底に。


































