Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
フェデリコという情熱
◆シラクサ, Siracusa, سيراقوسة, Συρακοῦσαι
 およそひとの生きるところには、あまねく物語が息づいている。神話が世界の輪郭をすべて明らかにした時代から、内面の問題が個々人の物語として細分化され意識化される近代へ。語られる言葉の響きこそ多種多様だが、そこには古今東西を問わず通底している型らしきものがある。C.G.ユングはこれを集合的無意識を基底とする元型イメージの発露とし非科学的だと批判を浴びたが、このとき批判者たちが身を置いた“科学”の視座なり立場なりを、ユング当人がそれら批判者ほどに信奉しきっていたかは謎である。重要なのは説明の作法なのか、語られる内実か。


 中世後期のシチリアで育った神聖ローマ皇帝でシチリア王のフェデリコ2世は、その類稀な教養や知的好奇心の奔放さ、研ぎ澄まされた合理的思考や外交感覚に秀でた諸々の施策から“世界の驚異”と讃えられ、しばしば“王権に座った最初の近代人”と評される。けれども私見の範囲で言えば、これら知性や合理性の有りようをもって近代人の証とするのはどこかおかしい。近代以降‘知’の基盤となった科学とは、ある面では神話の読み換えでしかないからだ。
 このことから彼をして“王座の最初の近代人”たらしめる根拠を探すなら、むしろフェデリコ2世が生きた物語の内に目を向けるほうがふさわしく思われる。中近世から近現代へと至る過程とはすなわち人々が独自の物語を希求しはじめ、あるいは強いられ、魂の孤立を深めていく過程でもあったからだ。そして事実、彼を育んだシチリアは当時の地中海世界において最も物語に満ちた土地の一つであり、フェデリコ2世がそこで近現代人に先んじて周囲の環境世界とは隔絶した己の在りようを見出していたとしても何ら不思議はない。

 この王が為した具体的な事績についてはネットを探せばいくらでも拾えるので、主なものを幾つか挙げるに留めておく。イスラムへの深い理解に基づいて、数ある十字軍の歴史のなかで唯一エルサレムを無血開城し[1228]、時のイスラム世界最大の権力者アル・カミールとはアラビア語による自然科学に関する交信によって友情を深めた。フェデリコを反教者と罵り破門すら行ったローマ教皇の勢力を巧妙に抑え、ドイツの諸侯に対しては関税権や裁判権のほか多くの権限を認め[1220]、のち500年に及ぶプロイセン一帯の領邦的性格を決定づけた。中世ヨーロッパで初の国家法典となる‘皇帝の書(Liber Augustalis, シチリア法典)’を定め[1231]、各都市の有力者を集めて帝国議会を開催[1240]。この議会運営の手法はのちにシモン・ド・モンフォールによる英国議会創設のモデルとなる。またパレルモには動物園を持ち、キリンを飼い、鷹の飼育に関する詳細な著作を遺した。ナポリでは今日に続くナポリ大学を創設。彼本人は9ヶ国語を話し、7ヶ国語の読み書きができたという。ごく簡略に述べてもこれだけの量になる。おそるべし。

cefalu

 皇帝フェデリコのゆりかごとなったシチリア島は、先史の時代より異なる集団同士が出遭う文明の交差点であり続けた。のちのローマ文明に連なるエトルリア人が北方からこの島に辿りついた前古代において、そこではすでにフェニキア人とギリシア人が凌ぎを削っていた。その後も西方からゲルマン系のヴァンダル族[→link]、東方からビサンツ帝国、南方からイスラムの流入と支配を受け入れたこの島は、11世紀には遠くバルト海から到来したノルマン人の支配下に入り、フェデリコ2世が玉座についた12世紀末にはまさに異文化混淆の極地といった様相を呈していた。幼少時から市井を歩くのを好んだというこの王は、そこで世に流布された無数の偏見に先んじて各々の文化文明の魅力と欠点を見抜く眼差しをごく自然に獲得したのであろう。皇帝位を得ながらも多くの権限を諸侯に委譲し、教皇に破門されたまま十字軍を起こして稀有の成功を収めるという、一見奇妙でその実巧みなバランス感覚もこの環境下では無自覚のうちに養われたに違いない。

 異なる文化、異なる価値観のせめぎあう場所において、ひとは初めて他者の存在を深く知ることになる。合理的思考とはすなわち客観性への志向を意味するが、他者との葛藤なしにはそもそも客観的視座の獲得など為し得ない。さらに言えばそれなしにはどのような物語も、またいかなる法体系も成立することはない。(その必要がない。) 南仏プロヴァンスの地に11世紀、トルバドゥールと呼ばれる愛を歌いあげる叙情歌の形式が生まれのちのヨーロッパ文学の礎となったことは過去に述べたが[→link]、直接の語源であるオック語の‘trobador’はアラビア語の‘tarrab(歌うこと)’に由来するという説がある。説の当否はともかく南仏のオクシタニア文化圏がイスラムの強い影響下にあったイベリア半島のカタルーニャ文化圏との親縁性をもったことを考えても[→link]、そこで生まれた新たな文化がアラブの色彩を滲ませたであろうことにはほとんど疑いの余地がない。当時のフランスや北イタリアからは、先進的な事物に憧れて多くのカトリック教徒の青年がイベリア半島やシチリアの宮廷やマドラサを訪れ、イスラム教徒やユダヤ教徒、ギリシア正教徒などと共に研鑽に明け暮れてすらいたのである。


 とはいえ愛の詩がアラブ由来というのは少し奇異に映るかもしれない。だがイスラムときけば黒いベールやら禁酒やらといったストイックな心象ばかりを抱くことのほうが恐らく表層的というか、20世紀アメリカ的な見方なのだろう。たとえば11世紀イベリア半島の政治家イブン・ザイドゥーンは詩人としても名を馳せ、ときの王女に宛てた恋歌が原因で投獄されたがのち許されて大臣にまでのぼり詰めた。現代においてもその恋と愛のオンパレードぶりが日本ではほとんど受けることのないインド映画が、ペルシャ湾からアラビア海、アフリカ沿岸のイスラム諸国において巨費と最先端技術を投じたハリウッド映画に劣らない(むしろ勝る)人気を現に誇っていたりもする。そこには現代の日本人が、少なくとも私個人が抱えている根本的な見誤りが恐らくある。

 翻ってヨーロッパ文明の展開については、ヘレニズムとヘブライズムとの相克というような文脈でよく語られる。だがこうみてくるとそれもまた、ひどく狭量な視野に基づく偏見なのではないかと疑わしくなってくる。中世最大のキリスト教神学者の一人で没後は列聖もされたトマス・アクィナスが、スコラ学を大成するにあたってイブン・ルシュドの著作に深く影響を受け、また激しく反駁を加えたことはよく知られているが、実際ダンテにしてもゲーテにしても中近世のヨーロッパにおいて鋭敏な感性を湛えた知識人たちはそのいずれもが、己の創造性の根底にイスラムの思想文化が多分に寄与していることを畏敬をもって自覚していた節がある。だからむしろ近代のある段階で、それらは一度‘なかったこと’にされたと考えるのがきっと妥当なのだとおもう。イブン・スィーナーの『医学典範』はラテン語に翻訳され、ヨーロッパの大学では17世紀まで使用された事実がある。ならば彼の立てた思想がキリスト教世界の誰にも影響しなかったとするのはあまりにも不自然だ。真空に浮遊する人間の感覚を説いたスィーナーの存在一般に関する論理はその実、誰もが知るデカルトの命題を嫌でも想起させるものがある。

siciliasat エルサレムに入城したフェデリコ2世は、彼に配慮したイスラム教徒の住民が定時のアザーンをとりやめたことに気づくと 「この街ではイスラムの祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」 と洩らし、現地の官吏を呼び寄せて 「あなた方がわたしたちの国へ来たとき、教会の鐘が鳴らせなくなってしまう」 と不満を述べたという。 宗教とは彼にとってはじめからそのような斟酌を要するものではなく、純粋にこの世界の輪郭を定める手法の一つとして存在していたのかもしれない。
 世界とはこういうものである、と科学は語る。だがそこで語られるもの、たとえば現代にあっては究極的にその論的基盤とされる分子運動や量子力学の支配する世界を、ひとは自らの肉眼で見、己の手指で触れて感得することはない。科学的観測はその最先鋭の領域ではどこまでも観測の域を出ず、いまだ神は神そのものとしてそこで息を潜めているとも言える。
 シチリアの街角を歩き、幾つもの異なる言葉で異なる神に関する物語を日常的に耳にしていた彼にとって、もしかしたら真の神とは諸事諸物にあまねく偏在するように感じられていたのではないか。それら市井に響く祈りの調べの向こうがわに。あるいは自前の動物園へ集めさせた、異国の珍獣たちの瞳の奥底に。

 
2008.07.26 * 東地中海・黒海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
もう一つの地中海
◆チュニス, Tunis, تونس
portcarthage 歴史を考える意義は無論多様だが、概観的には二つの方向性に集約される。一つは己の立ち位置を明確に意識するべく、筋の通った‘語り’のうちにそのルーツを収めようとする方向性。もう一つはいわゆる学問上の研究対象としてみる方向性。両者は必ずしも相反せず、世上語られる歴史とはおおむねこの2つのベクトルがうまくかみ合う領域で生成されてきた。これによって、その歴史的価値は明瞭であるにも関わらず、どうしても矮小化されて語り継がれる部分が生じることになる。カルタゴはその良い例だろう。
 現代人の視座は西洋近代の急速な発展を一方の基盤に置かざるをえない。その西洋近代が自己のルーツとして参照し確認するのはつねにギリシア・ローマであって、カルタゴがその語りのなかで占める位置は決して低くはないものの、あくまでローマの好敵手としてのみその存在を承認され、保障されていると言って良い。‘語り’は本質的にアンフェアな性格をもつものだから、このこと自体はどうこう言っても仕方がない。
 
 けれどもそのような位置を与えられ続けた結果として今日、カルタゴをめぐる人々にどこか謎めいたニュアンスが付随していることは興味深い。フェニキア人として括られる彼らは、古代の地中海世界においてまずギリシアの興隆に対し、そして続くローマの強勢に対してそれを凌ぐほどの活躍を見せ、そして去った。ヘロドトスの記述を根拠に、彼らが紀元前数百年の段階で喜望峰を回っていたとする学者もいれば、米大陸に渡っていたとする俗説すらあるらしい。
 冒頭にあげた画像はカルタゴに実在した軍港の復元図だけれども、まるで現代建築のコンペ案でも見ているかのようである。というような印象を、この絵を初めてみた人ならたいてい抱くはずだと思う。ネットで拾ったこの画像はチュニス市内の博物館にある図なのだが、そう思わせる風に絵の質感を方向付けられていることがここではポイントとなってくる。カルタゴの存在全体が、要は神秘化されやすいオブジェなのだ。

tombphoenicia

 ポエニ戦争は古代地中海世界の覇権をかけた戦いとして名高いが、‘ポエニ’の名はそれ自体が‘フェニキア(Phoenicia)’に由来する。カルタゴ将軍ハンニバルのアルプス越えによってローマが恐慌に陥ったエピソードは、大ローマ帝国の幻影を追い続けたその後のヨーロッパ人にとっては他者から付与されたトラウマ的な原体験として、その戦役に付された呼称の意味するところとともに、その意識の基底へと深く刻印されたことだろう。対するローマ将軍スキピオのスペイン・北アフリカへの逆襲によって窮地を脱しのちのカルタゴ支配へと到ったプロセスの記憶はまた、これほどに強大な相手をも克服したという記念碑的な役割も果たしてきたはずである。
 そしてそれゆえに、だからこそ、彼らフェニキア人は消え去らねばならなかった。ある時期を境に忽然と姿を消した、というような描かれ方は冷静にみるならどの目にも不自然だけれど、このような‘語り’の整合性の面から考えれば頷けるものがある。シドンやティルスなどを本拠としたフェニキア本国は早くからペルシアやエジプトなどの外来勢力にその主導権を譲り渡し、その政治的衰退がのちの西方カルタゴの隆盛にもつながったのだけれど、このことやカルタゴのローマへの屈伏を以ってフェニキア人は「姿を消した」、「歴史の表舞台から去った」などと表現されるところにその謎めいた印象を明かすヒントの一端はたぶんある。
 フェニキア本土の人々についていえば、もともと交易上の必要性から遠隔の地に無数の拠点を築いていった強靭な人々なのだ。そのしなやかさは、むしろ時々の‘帝国’の支配欲をも巧みに利用することのほうに発揮されたはずである。相次いで勃興し衰退する諸帝国の歴史のみを歴史とみれば彼らは古代のうちに「忽然と姿を消した」ことにもなるが、その発想自体が根本的に貧しいことはもはや言うまでもないだろう。
 
porttunis そのように考えを巡らせつつ、冒頭の画像へと再度立ち戻る。恐竜絶滅以前に棲息した生物種や、いまだ未知領域の広い深海生物を扱った書籍やテレビ番組などではよく、現在地表上で見られる哺乳類等とはまったく異なる体系によって進化した生物たちの姿がCGにより再現されるが、そこに私たちは現在の自分たちを自明の存在としない‘もう一つの世界’の可能性をかいま見る。
 カルタゴの地にかつて実在したガレー船団のための軍港の形態が印象深く映るのは、‘もう一つの地中海’の可能性を鮮やかに想起させるだけの強度がそこに備わっているからだ。彼らが去った表舞台としての歴史より、比較にならないほどの魅力を彼らそのものに覚えてしまう。おそらくそのような姿勢によってのみ、このブログは現在継続されているのだとおもう。これらの文章が大航海時代Onlineというゲームとかろうじて親和性を保つとすれば、その理由もきっとこのあたりにありそうだ。

 
2008.04.14 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
三都物語
◆トリポリ, Tripoli, طرابلس
 セヴァストポリやコンスタンティノープルの回も読んでいる当ブログの熱心な読者がみなそうであるように(いるのか!?)、トリポリの表記から‘Tri(3つの) poli(ポリス)’とその意味を推測するひとの勘はなかなか良いかもしれない。最初にフェニキア人がこの地に建てた街の名はOeaといったが、近隣にレプティス・マグナ、サブラタのあるこの一帯はやがて“トリポリタニア(3つの都市のある場所)”と呼ばれるようになり、それが転じてこの街の名となった。レプティス・マグナはヴァンダル族やベルベル人の破壊によって、サブラタは大地震によって古代のうちにその盛期を終えたのに対し、トリポリはサハラ交易と地中海交易との中継地の役割も果たしつつ、一帯の行政府を抱える街として中世を乗りきり現代へと生き延びた。

tripolis

 三都市の位置関係を上図に。図の西端から東端まではおよそ200km。前に三都物語というJR西日本のCMがあったけれど、経済的な繁栄を続ける大阪をトリポリと見立てると神戸-大阪-京都の相関関係は少し似ている。古都京都に相当するレプティス・マグナは、アフリカ出身で初のローマ皇帝となったセプティミウス・セウェルスの出生地でもある。見ての通り距離的にはもう少し離れていて、大阪を中心にすると姫路-大阪-名古屋くらいの距離になる。関東なら小田原−江戸−水戸くらい。って無理にたとえる必要はないんだけれども。レプティス・マグナ、サブラタともに今日では世界文化遺産に指定されている。
 せっかくなのでこの一帯の地理をまとめて抑えておこう。視点をもう少し上昇させてみる。

tripolitania

 今度の衛星画像は西端から東端まで約2000km。港や国の名は省き、ざっくりと地理上の地域呼称を3つだけ載せてみた。キレナイカの語源はギリシアの植民都市キュレネから。キュレネはティラ(サントリーニ島)の人々によって建てられ、クレタ島の西端を回って南西南へ直進した位置にある。ここの遺跡も現在はユネスコ指定の世界文化遺産。前回扱ったベンガジはキュレネの西約200km、キレナイカ地方の西北端に位置している。フェッザーンはトリポリタニア南部の砂漠地帯を指している。キレナイカ、フェッザーンにトリポリタニアを加えた3つは地理・歴史上の呼称であるとともに、第二次大戦後のリビアでは1970年代まで国を分ける3つの行政区分の名称としても通用した。(現在は34に細分化)
 視点をさらに高度化。

saharasatellite

 西端から東端まで4000km。正直な話、アフリカ北岸というとサハラ砂漠と地中海に挟まれてなんだか砂っぽい街が点在するだけというイメージが一般的なんじゃないかとおもう。情熱のスペインから有閑マダム憧れの南仏プロヴァンス、芸術のイタリア、風光明媚なエーゲ海と個性溢れる表象が列をなす地中海の北岸側に比べると、この扱いは涙なしには語れないものがある(いや、語れる)。この一帯の気候風土はしばしば地中海性気候の名で括られるけれど、その実相は北岸同様、多様である。どうでもいいけどこう書いて思い出したのはNHK-BSとかCNNなどでよく流れる「世界の天気」みたいなコーナーで、おねえさんの一刀両断ぶりには見るたびに感心させられてしまう。きょうの日本は雨っ!、中国は曇りっ>w<、みたいな。

 上図では現リビアを囲む形で地理上の主な呼称を3つ挙げてみた。プレートテクトニクスの観点から言うとアフリカプレートとユーラシアプレートの境界が地中海の南端付近を走っているため、この影響下にある山脈や高地、海溝を北アフリカ沿岸域に集中して見ることができる。アトラス山脈などはまさしくそのもので、リビア砂漠の北、キレナイカ地方の東に伸びるリビア高地もこの類に含まれる。図の下端にのぞくアハガル高原を越えるとそこはもうマリやガーナ、ソンガイなどニジェール水系に勃興した文明群の支配域である。山脈と訳すのは実情にややそぐわないので高原としたが、英語ではAhaggar Mountainsが一般的な様子。
 ‘リビア’はギリシア神話の登場人物リビュエを語源とし、かつてはエジプト文明圏より西のアフリカ北岸全域を指した。リビアの名の付く砂漠や高原が国家としてのリビアの外に広がるのはこのためだ。‘マグレブ’はアラビア語の「日の没するところ」に由来し、北西アフリカのアラブ諸国を指す地域呼称。広義の‘サハラ’にはこれらすべてが含まれる。

tripoliarmy もう一段階広い衛星画像で概念モデルとしてのサヘルやスワヒルまで言及しておくと、歴史上の交易網の観点から北アフリカを概観するうえでは良いだろうけど、何の話なのかわからなくなりそうなのでやめておく。
 代わりに今度は視点を思いきり地上近くへと引き戻し、市街地の部分画像を。現代のトリポリは、一見してそれと分かる軍事関連施設が目立つ要塞都市の趣きを備えている。それもそのはずで、1986年には米軍によるトリポリとベンガジへの突如の空爆が世界を驚かせた。2006年リビア政府が見せた譲歩によってアメリカの「テロ支援国家」指定を外れたことは記憶に新しいところだが、エジプトやイスラエル、フランスなどとの関係も含め緊張状態は依然続いている。いまだリビアにおいて事実上の最高権力者であるカダフィ大佐、実は軍隊での最終階級は大尉で、制度上の公職にはもう30年近く就いたことがない。サイババのねくらバージョンみたいな風貌といい、こういうおじいさんが国際政治上の重鎮としてなおも健在なのだから、世界ってほんと多様よね、っておもう。

 
2008.04.07 * 東地中海・黒海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
砂鏡
◆ベンガジ, Benghazi, بنغازي
 息をとめ、耳を澄ませる。ゆっくりと、深く息を吐きだしていく。まぶたをひらく。まわりには、きのうまでと変わりのない黄土色の海原がどこまでも、どこまでも広がっているだけだ。吹き抜ける風の音は空ぜんたいに染みついている。
 この世界は、わたしのために存在するわけではない。そんなこと、ずっと前からわかっていた。女はまた、そうおもう。わかってはいたけれど、こんなふうに生きねばならないのなら、あなたはなぜわたしを生み落としたというのだろう。いまはただ、とても会いたい。まだか細く、柔らかなあなたの髪の温もりがただ恋しい。すべてが曖昧となった女の意識のなかで、母はいつのまにかわが子となり、また神のような何者かにもその姿を変えていく。夜の砂は青い炎のように冷たく、昼の風は突き刺さるように熱いその場所で、女はそうやってひたすらに白昼夢の流れへと身をゆだねる。旅の始めにはしきりに身を焦がした感情の波も遠のき、手枷が砂を噛む痛みにも、もう翻弄されることはない。

flaminghills

 いつからこうしているのか、覚えていない。生まれてからずっと、ずっとこうしていたのかもしれない。不思議だな、と男はおもう。体力は限界を超え、からだは今にもバラバラに崩れ落ちてしまいそうなのに、この状態が延々と続いている。疲弊して視野の狭くなった瞳には、同じリズムで揺れ続ける仲間の背だけが映っている。耳には波の弾ける音と、木の軋む音だけが入り込んでくる。誰も言葉を発さず、みなが同じ動作をもうずっと続けている。ゆっくりと体を前に倒し、腕を前方へ伸ばしながら背を丸めていく。かかとを踏みしめ、力を込めた両腕とともに上半身を一気に後ろへと引き戻す。世界の果てなどほんとうにあるのだろうか。男はふと、そう考える。いつまでも、どこまでも進んでいける気がしてしまう。
 ほんとうの自分はまだ幼くて、眠る両親の傍らで夢をみているだけならば。もう何千と繰り返したかもわからない少年の日の光景が、動き続ける男の肉体を優しく包み込んでいく。

darkocean

 遠く隔たった土地への文化の伝播や、異なる文明間での交渉において、海や砂漠の果たした役割には絶大なものがある。茫漠と広がってそこに人が生きるのを許すことはまずないが、渡り切る技術さえ手に入れたなら海や砂漠は隔たれた街同士を自在に結びつけるメディウムとなるからだ。そうして開かれた交易の網はやがて、さらなる飛躍を欲して海と砂漠という異なる二つの世界そのものの融合を求めはじめる。荒涼とした砂の海を航行してきたキャラバンと、長大な海路を渡り終えた商船隊は、そうやってある海べりで邂逅を遂げることになる。そして荷を交換した両者はまたここで会おうと約束すると、来た道へと足早に去っていく。大陸奥深くの金や象牙や奴隷はこのようにして、織物や武器やシルクロードを経由した宋の青磁器などと取引された。砂漠の世界と海の世界との接合点が見出されていくこの光景は、実際には長い試行を経てゆっくりと進行したものだろうが、大局的にみるなら啐啄の機の譬えを想わせるほどに鮮やかだ。殻が割られる瞬間はなかば偶然性に拠るようでも、そこに生まれる無数の機縁はいずれ唯一無二の色彩を帯びていく。
 ベンガジはそのようにして成長を遂げた街である。

 
2008.04.04 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
イスカンダール揺空
◆アレクサンドリア, Alexandria, الاسكندرية
 現代の最先端科学へといたる科学史を巡る語り口で、よく古代ギリシア・ローマの叡智がアラビア世界を経由して、ちょうど地中海を一周する形でヨーロッパに再帰しルネサンスとして開花した、というものがある。ヨーロッパやアメリカの白人が自分中心の視点でそう語るのはまあいいとして、日本人でこれを受け売りのまま語ってしまう人がいたらちょっとアレだ。でも昭和に出版された本などを読むとしばしばその手の記述を見かけるから、知識人とされる人々の言動もあまり信用しないほうがいい。こいつらやべー、と未来の少年少女に思われるような物言いを、きっと今の知識人たちも日々大量に生産しているに違いないからだ。テレビで良識を語って世の悪事に憤ってみせるような人物は特に要注意。良識を後ろ盾にした物言いには責任の所在がなく、一見まともだが実態はいつも空疎だ。

alexsealine

 ともかく。中世にレコンキスタ等によってキリスト教勢力が“奪回”したイベリア半島やシチリア島などを経由して、当時における最先端の科学がヨーロッパ世界に流入しルネサンスの興隆とそれに続く近代西洋科学の基礎を準備した、という認識は概ね間違ってないと思う。冒頭の語り口が問題なのは、当時のアラビア世界の科学があたかもギリシア・ローマの知識を保存し発展しただけのような役割を負わされている点で、これはまったくの嘘っこちゃんだと言っていい。アラビアの科学は確かに古代ギリシア語やラテン語の文献翻訳を通じてギリシア・ローマもそのルーツの一つとしたけれどそれは一つに過ぎなくて、ゼロの概念を確立したインドも火薬や羅針盤を発明した中国も平等にそのルーツとした。そもそもアラビア世界そのものがトルコ人やペルシャ人など非アラビア人の活動も含めたイスラム圏全体を地として成立し、その境界線を明確にするものはほとんど何もない。だから近代西洋科学を至上唯一のものとする“その他のもの”への十把一絡的な蔑視観が働かないと、実のところ冒頭のような言い回しにはなかなかならない。ナルシスの坊やなら許されるつぶやきも、アポロンの口にはやはり似合わない。

 などということを長々と述べているのはもちろんこの項目がアレクサンドリアだからなのだけど、そうした面でこの街が特筆されるべきなのは、言うまでもなくアレクサンドリア図書館の存在によってである。この図書館を巡っては世界七不思議に数えられたりして眉唾ものに感じる向きもあるだろうけど、重要なのは図書館単体の存在ではなくて、それを取り巻く“知の雰囲気”のほうである。このかぎりでは一つの巨大な建築物がぽつんと存在したと考えるより、あるエリアに多数の研究機関が集まっていたと考えるほうが妥当だろう。この地で研究に身を入れた科学者・哲学者はアルキメデスやプトレマイオスといった巨星をはじめ数知れず、また書庫充実の目的に特化したとはいえ専門の写本機関を抱えたことが、知の普及の面で後の時代に果たした役割ははかり知れないものがある。

Alhambra

 ある時代にその世界において抜きんでた存在が、後の時代の定型を形作るということはどの分野にもあることだ。たとえばモスクにはドームが付きものという通念の源はハギア・ソフィアだし、プラトンらによる学究的な空間に関する記述はアカデミズムの原型を生みだした。この意味でのアレクサンドリア図書館が為した功績は‘知の集積場’のモデルを具現化したことで、過去の知識や当代の研究成果を目に見える形で集約し大量に蓄積することがどれだけの力を発揮するかということを、これほど鮮やかな形で世に知らしめる存在は当時他になかったはずである。
 だがこの力はあまりにも強大だった。知の発展は既存の諸概念への疑義をその燃料とするゆえに、周囲の社会にとっては本来つねに危険なものである。アレクサンドリア図書館の消失原因は天災による焼失や水没、ローマ皇帝による破壊など様々に言われているが、個人的に最有力だと思えるのはキリスト教徒による大規模な焼き打ち説である。古代エジプトの叡智の結晶とも言えるヒエログリフが、他の文明との交流も密であったにも関わらずある時代を境に誰も読める者がいなくなったという事態も摩訶不思議だけれども、いずれも当時の地中海世界を圧倒する勢いで普及したキリスト教の信者らが地上からの根絶を図ったと考えれば納得できる部分は多い。魔女狩りの歴史や現代のテロリズムをみてもわかるように、狂信的であるときほど人の行為が視野狭窄的に貫徹される例は他にない。たとえばギリシア由来の論理哲学の精緻さやヒエログリフのもつ完成美が、ある種の人々の瞳には撲滅すべき悪魔の呪文に等しく映ったとしても、それもまた社会的存在としての人間の性(さが)だろう。
 ちなみに英語では“The Great Library”という表現が、今日でも固有名詞的にアレキサンドリア図書館を意味している。これは英語に限らず多くのヨーロッパ言語について言えることで、地中海世界とそこから派生的に発展した欧米世界にとって、この街の存在感は日本語で思考する私たちの想像以上のものがある。
 
Romancoin 七不思議といえばアレクサンドリアにはもう一つ、ファロス島の大灯台をめぐる伝説があった。同時代の人々の度肝を抜く規模の灯台が建設される場所としての種々の条件を、技術的にも経済的にも当時この街が満たしていたのは確かだろうから、高さや構造の詳細はともかく流布されている怪しげなイメージに反してその実在可能性はかなり高い。定型とか原型の話に連ねれば、この灯台は一般的なモスクに付随する塔(ミナレット)の形態上のモデルになったとする説もある。よくあるファロス島の大灯台の想像図を見る限りそれもうなずける気はするけれど、伝説や記述やローマ時代のコインを元に描かれた想像図が先にあってそういう説が生まれたのか、そういう説に基づいてこうした想像図が普及したのか、そこらへんの怪しさもまたいかにも七不思議っぽくていい。規模の大きいモスクは多くの場合マドラサと呼ばれる学究施設を付属させたから、ハギア・ソフィア由来のドームにより宗教性を、アレクサンドリア由来のミナレットにより知性を演出したと考えるのも、ちょっと安易な気もするけど抒情としてはまあアリだろう。

 ナイルの河口に位置し、オリエントやエーゲ海との交易にも有利な地勢をもつこの街は、中世にオスマン帝国の支配下に入ったことで一旦はヨーロッパ世界との交易路を閉じてしまう。だがやがて力をつけたヴェネツィアやジェノヴァの商人らによってそれも復活され、この港を中継地とする香辛料等の販路を抑えた彼らによる地中海交易の占有が、西の新興諸国にとっては経済的な圧力となり大航海時代の揺籃期が準備されていく。喜望峰を超え、あるいはアメリカ大陸“発見”へと到る新時代の到来まで、あとは大西洋沿岸諸国の政治状況が整うのを待つばかりである。

alexeven


 
2008.04.02 * 東地中海・黒海編 * CM:4 * TB:0 * top↑
アラビアンナイルに沈む
◆カイロ, Cairo, القاهرة 
theniletoolong カイロはもともと外来のアラブ勢力によって築かれた歴史をもつため、ピラミッドや黄金のマスクに始まるエジプト文明の醸すイメージに相反して、純イスラム色に彩られた街である。したがってルクソールやアスワンなど紀元前数千年にさかのぼる起源をもつ街が並ぶナイル川流域においては、極めて新しい部類に入る。なにしろ古代のギリシアを出発したアレクサンダー大王の軍隊がナイル河口に到達したとき、エジプト文明はすでに三千年以上に渡る王国時代を通過してその盛りを終えようとしていたのである。地球の歴史を24時間に見立てると現生人類の登場は23時59分何十秒になるというようなたとえ話があるけれど、文明史に比重を置くならナイルにおけるカイロはそれと似たイメージを持っても良さそうだ。

 とはいえ三基の巨大ピラミッドやスフィンクスの座すギザの地がカイロの郊外にあることを知っていれば、かなり異なるイメージも描けるだろう。けれどこれは人口移動によって都市が肥大化し近隣の街を呑み込んでいくという近代以降に特徴的な現象の帰結に過ぎない。それゆえカイロとギザに関してナイル川の東岸には日が昇る方角ゆえに生の街があり、日の沈む死の街として西岸にピラミッド群が築かれた、というような豆知識をふりまくおじさんがたまにいるけれど、これはきっとテーベか何かの取り違い。

 古代エジプトの象形文字ヒエログリフは極めて洗練されたデザイン性が特徴的だけれども、周知のごとくロゼッタ・ストーンがシャンポリオンによって解読されるまでの長きにわたりその意味するところは謎だった。神殿の壁面や石版に大量の文書が残されているのに、誰もそれを読めない状態が古代から近代までずっと続いたというストーリーはそれだけでなにやらロマンティックだけれども、それはともかく三種の言語を並べて対訳表記したこと自体は当時すでに異なる文明間での交流が盛んであったことを証明してもいる。

 シャンポリオンは古代ギリシア語を通じてヒエログリフの解読を成し遂げたわけだけど、実際古代エジプト文明がどのようにして、どれほどの規模でヨーロッパの古代に影響を与えたのかについては依然議論の余地が大きいところだと思う。「と思う」と書いたのは自身が研究者でもなければその方面に造詣のある人間でもなく、最新の議論とか学会の常識みたいなものとは凡そ無縁の場所で妄想を繰り広げているだけという自覚があるからだけど、これはギリシア・ローマへの影響なんていう比較的目に見えやすい話ではなくて、どちらかといえばたとえばギリシア・ローマの人々が“蛮族”としたようなガリアやケルト、ゲルマン人などを含むいにしえのヨーロッパ諸民族全体への影響のことを言っている。

 古代エジプトで発展した石造建築の技術は現代の視点からも驚異的な正確さを誇ることで知られているが、たとえば古代ローマ建築第一の特徴といえば石材によるアーチ構造で、ここにエジプト文明の関与がまったくないと考えるのは私見で言うならむしろ無謀だ。なにもストーンヘンジと直接的な影響関係があったなどと言いたいわけではないけれど、そういう教科書には載らない底部を流れるもう一つの歴史の足音に耳を澄ませる試みはけっこう楽しい。単に楽しいだけではなく大事な意味もそこには含まれている気もするけれど、ともあれカイロから話がそれ過ぎた。ただ歴史学上の発見において意外なところに影響関係があったということは現実によくある話なのであって、遙か極東の現代日本にすら古代エジプトの深い影響を見ることも無理はない。一部の若者の日常語として散見される「ギザかわゆす」はその一例。

 とここまで書いて、この記事をどう締めるつもりだったのか急にわからなくなった。ナイルの衛星画像はちょっと綺麗だったので貼ってみた。上流はスーダンまでと思い込んでいる人も多いだろうけど、ナイルの源流をたどるとウガンダやルワンダも通り越し、実は大陸南部のタンザニア・ブルンジにまで達している。
 カイロについてはアラブの勢力がどのように根付いていったかをみるとなかなか面白い。英語での通称‘Cairo’が直接の由来とするアラビア語の‘القاهرة(al-Qāhira, カーヒラ)’とは別に、現地で一般的な街の呼び名の1つに‘مصر(Miṣr, ミスル)’があるが、こちらは軍営地の意。ナイルが最下流で分岐して扇状地を形成する扇の要に当たる部分にこの街が位置することを考えると、外来勢力であるアラブ人の軍事的合理性が窺える。ちなみにアラブ人によってミスルとして建てられ大航海時代Onlineに登場する港として、他にペルシア湾最奥のバスラがある。最初はこうした訪問者としてのアラブ人の動向を中心に書くつもりだったのに、なんだか流れでこうなった。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。こういうことだったんだ。

readinghieroglyph

 『教授是颯爽的解読了聖刻文字者也之図』
 (『けふじふこれさつさふとひへろぐりふをけとくせるものなりのづ』)


 
2008.04.01 * 東地中海・黒海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
神様の銃弾
◆ヤッファ, Jaffa, يَافَا
 なかば瓦礫と化した街をゆく戦車の隊列に向かって、灰色に煤けて裾の長い服を着た少年が道端の石を投げつける。石は弧を描いて飛んでいくが、キャタピラの巻き起こす砂塵にまぎれてどこに当たったかもわからない。戦車上部の銃座から上半身をのぞかせる若い兵士は、前後左右から体を突き刺してくる敵意に満ちた視線をひたすらに耐えている。浴びせられる罵声が、機械音にかき消されて聞こえないことだけがいまは救いだ。こんな状態ではただの住民と敵の兵士との見分けなど到底つかない。目の前にあるのは、徴兵の知らせが届いた日に予想した光景とはまるで違う何かだ。恐怖心が、機関銃のトリガーにかけた指を次第に震わせてゆく。恋人はこんな臆病な自分を見たら笑うだろうか。励ましてくれるだろうか。

tankofsorrow 突然、背後から耳をつんざくような爆発音が襲ってくる。同時に鈍器で殴られたような重たい衝撃をヘルメット後部に感じる。無意識のうちに引き金は引かれ、世界の色合いはがらりと変わる。一瞬あとに彼が気を取り戻すと、目の前の通りはすでに赤黒い海と化している。いや、彼はそのことに気づかない。瞬間的に気づかないふりをしてしまう。銃器は勝手に首を左右に振って一斉掃射を始めている。操作している自分の体が自分の体じゃないみたいだ。頭はなぜかぼんやりとして、幼いころ父親に手を引かれてこの道を歩いたことを思い出している。あれはたしか、何かのお祭りのときだった。ふだんは買ってもらえない砂糖菓子でべとべとになった手を服で拭いて、あとで母さんにしかられたんだよな。そう思い返して、手のひらのぬめりを迷彩服のズボンにこすり付ける。太ももに広がっていくザクロ色の染みが何を意味するのかも、いまの彼にはもうわからなくなっている。

 ヤッファは現在のイスラエルにおける中心都市、テルアビブの郊外にある。というよりも、先史の昔から続くヤッファの街に隣接する丘陵へ20世紀初頭にユダヤ人の集団がやってきて、新たな街を築いた。ノアの息子ヤペテに由来する名をもつ古い街の隣で、‘Aviv(泉)’の‘Tel(丘)’と命名された新しい街は急速な発展を遂げ、元からあった街を呑み込むまでになった。いまやテルアビブの白い街区は、現代建築群としては稀な世界文化遺産の指定を受けている。一方でヤッファの街なかには、新約聖書中でペテロが訪れたと伝えられる石積みの家屋が残っている。あらゆる意味で対照的な二つの街が、同じ土地を分けあっている。ときに混濁し、ときに殺し合ってきた人々の歴史が二つを結びつけている。

 実際のところある集団とある集団が対立状況にあるとき、その構図が維持される最大の要因は自分の身がいつ侵されるかもしれないという恐怖心だろうと思う。宗教や物理的な利害関係はその構図を生む端緒の一つにはなりえても、いざ対立が始まってしまえば継続要因としては虚ろになる。容易に解決されえないのは、それが理屈や理性ではどうにもならない怪物に変容してしまっているからだ。それがどれだけ愚かなことかを皆が知っているのに、なお世界中でやむことがない。目に見えないその怪物に対して一個人ができるのはもう、その魔の手が生み出す流れにこの自分たちだけは呑み込まれずにいられるのを、ただひたすらに膝を屈して祈ることのみのようにも思えてしまう。けれどもそうして自らと自らの家族や友人の平安を願う心持それ自体が、本当は対立を生む一番の原因だとしたら、と最近はよく考える。

christundergrief

 港としてのヤッファの歴史はとても古く、青銅器時代にさかのぼることができるという。古代ローマ帝国や初期キリスト教の時代を、私たちはとても遠いと思う。その古代ローマの皇帝たちやイエス・キリストその人が私たちと同じようにとても遠いと感じただろう遙かな時代に、ヤッファの街は産声をあげたことになる。紀元前二千年の青銅器の時代からやがて鉄器の時代へ。異なるルーツをもつ集団同士があるとき出遭い、時にぶつかり、互いに競いあって今日まで発展を遂げてきた。そうした文明の歴史がそもそも、いつの時代もより効率的に、より多くの他者を傷つけるための技術の進歩をそのバックボーンとしてきたことは、どの目にも抗いようのない一面の事実である。自分がどういうフレームのなかで思考し、感応する存在なのかを忘れた瞬間から、たぶんその人はその人だけに許された殺人の権利を獲得してしまう。もしその許しを与えるのが神ならば、神とは信じる人間の奴隷に過ぎなくなる。そんな馬鹿げたことがあるか、という話である。そして実に、よくある話だ。少しありふれすぎている。

 
2008.03.26 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
フェニキアン、フェニキエ
◆ベイルート, Beirut, بيروت

cloudairstrike 「ここはベイルートか?」

…みたいなセリフを、英米系の映画やドラマでは時折耳にする。それはたいてい、街なかではふつうありえないような爆発や銃撃戦なんかが突発したときに主人公や脇役の口からぽっとでる。無闇なことをしだす他の登場人物に向けて、「ここはベイルートじゃないんだぞ!」 とか。こういう演出は世間の常識とマッチしていないと意味をもたないから、英米制作の劇作物がそのマーケット下とみなす地域には「ベイルートの日常は我々の非日常」という共通観念がある(と脚本家たちは思っている)ということになる。日本は明白にその環境下に入っている。現代では常識やモラルの大部分はメディアを通して日々再生産されるから、モニター内で繰り返されるこうした言葉が受容者間で共有される通念を一層強化するということはあるだろう。

 この手のセリフ、ウィル・スミスやニコラス・ケイジのようにいつもはとぼけているのにアクションシーンへ入ると俄然超人的なパフォーマンスを発揮する役柄の多い俳優がよく口にするけれど、かの人気ドラマ“24”にも確かあったような気がする。ただジャック・バウアーがこれを言ったら「そこがベイルートなのではなく、あんたが全身ベイルートなんだ」と誰でも思うだろう。だいたいCTUなんてテロが起きてくれなかったら食いあげじゃないか。そういえば“ダイ・ハード4.0”にもあったような。 ブルースよ、お前もか。
beirutcity けれどもこのことは現代都市としてのベイルートを重視する認識があることの裏返しにもなっていて、そもそも多くの外国人がそこに滞在する価値を見出していないかぎり、“都会で爆発や銃撃戦に遭遇するリスク” が世界に喧伝されるような素地は生まれ得ない。東地中海の東岸にはトルコ南部からシリア、レバノン、イスラエルと各国の重要都市がずらりと並んでいるけれど、ベイルートがこの一帯の政治経済上の核の一つとなっていることを疑う者は少ないだろう。遠く海の民フェニキア人の交易活動に由来する伝統をもち、かつ現代においても交通の要衝であれば文化活動も盛んになるのは必定で、物理的な制約と人種的な性格の問題から日本人にはあまり人気はないが、アメリカン・エキスプレスの発行する‘Travel + Leisure’誌 [480万部 →link to the official] では2006年の世界ベスト観光都市ランキング9位に選出されている。
 “ユダヤ”のファクターが関わるとこうした英米系メディアによる評価は乱高下するのが常だから、順位の序列自体はあまり信用するに値しない。けれど他の上位都市との比較から観光拠点としての魅力が多いことは憶測しても良いだろう。

 ちなみにこの読者投票は同年夏に行われたイスラエル空軍によるベイルート空爆よりも前に実施されたらしく、翌2007年のランキングでは他の都市がおおむね同じ顔ぶれなのに対し、ベイルートだけは当然のごとくランク外となっている。
 この空爆は国際的な批判を浴びたけれども、そういう世論はふた月としないうちに消え去った。なぜかといえばこれはもうそこが“ベイルート”だからなのであって、報道を通じてテレビモニターに映し出された被空爆地帯は地中海沿岸ならどこにでもあるような都会の一角にしか見えず、“ベイルート”という先入観を外して見るなら完璧に“ならず者国家”の所業に他ならない。だが他であれば即座に制裁手段をとるアメリカ政府もイスラエルに対してだけは「大いに懸念」し時に「強く非難する」だけだから、こうした目に見えない伝家の宝刀も携えて一帯の土地を荒らし回るイスラエルが、パレスチナ周辺のアラブ人から見ればマフィア集団そのものに映るとしても無理はない。この空爆ではクラスター爆弾やウランの使用も報じられているが、そうまでするイスラエル政府も憐れなものである。国家の形成自体が在来住民軽視のごり押しによるものだったから、結局は強気に出続けるしかないのだろう。

bomnedbeirut

 ベイルートの名は古代フェニキア人によって命名されたBêrūt(泉の意)に由来する。近世の西欧列強による植民地戦争においてはフランスとの関係が深く、第一次大戦後のアラブ分割においてもフランスの保護下とされたためフランス語での呼称Beyrouthも一般的。港としての履歴は古代にさかのぼるものの、同様に長い歴史をもつ周辺の諸港から抜け出した役割を担いだすのは近代に入ってから。殊に19世紀前半のイブラヒム・パシャによるシリアにおける近代化政策以降の発展が顕著で、大航海時代を含む中近世はアッコン影響下の一地方港という色合いが強かった。(毎度リンクを貼っているwikipedia日本語版のベイルートの項目は18-9世紀の記述が混乱。まあよくあることだけど。) このイブラヒム・パシャはその後エジプトの総督になったりして、ぜんぜん知らなかったけれどかなり傑出した人物だったらしい。

beirutgame ここらへんの背景をすべてスルーして、ベイルートがこのエリアを代表する港として大航海時代Onlineに登場する理由はよくわからない。ただこの港で手に入る交易品種の周辺での使い勝手の良さは、ゲーム内ではすぐ目の前にあるファマグスタ(ファマガスタ)の交易品がまわりのイスラム港では売れないもの揃いであることと相俟って、ゲーム内設定の良く出来ているところだと思う。初期設定とその後の修正や追加実装の内容とを比べると、スタッフが入れ替わってるんじゃないかというくらい一つ一つの項目がどんどん浅くなっている気がする。最後の画像は2005年夏、ゲーム内ベイルートの沖合にて撮影。当時ゲーム内の東地中海は特定の初心者優遇期間だけ安全海域となっていて、ふだんは海賊の行き交う危険海域だった。襲撃にどぎまぎしながら航行する緊張感、今じゃ微塵もないのは寂しいかぎり。これでも一応、プレイヤーズブログなんである。えっへん。

 
2008.03.24 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
正義海域
◆ファマグスタ, Famagusta, Αμμόχωστος, Gazimağusa
emeraldcyprus キプロスと聞いて多くの人が想起するのは、一般的に言って南北の分断やトルコのEU加盟といった政治問題あたりだろうか。旅行会社の広告を別にすればその関連で報道に登場する以外、日本語圏でこの地名を日常的に目にする機会はあまりない。
 けれども一部の人々にとってキプロスの語は、常夏のビーチとナイトライフ、お酒にダンス、セックスやドラッグといった享楽的な響きをもって迎えられている。プーケットやアムステルダム同様それはある種の傾向をもつ人々による主観的評価でしかないのだけれど、そういうレッテルによってこの島を語る言葉は確かにある。

 もっともそのことを知ったのはつい最近のことなのだけど、ああやっぱりそうだったのかと合点がいった。というのも実は大学に入った次の春に、ある学生組織の企画でキプロスへ行きかけたことがあったのだ。けれども現地に着いて渡されるキットのなかにもれなくコンドームが入っているというような冗談話を聞くにいたり、アホらしくなってやめてしまった。冗談話としたのは私の主観であって、性病予防を意図したまじめな対策だったのかもしれないし、アホかと思ったのはそういうムードに対してというよりそれを渡されても呆けて立ちつくすしかないだろう自分の姿に対してだった。っていったい何の話をしているのだ。ともかく、そういう妙なテンションが発生する場所というのはどこにもやはりそれなりに理由とか事情があって、その理由や事情が独特のものであればあるほど、それらとは表面上無関係に見える方向にすらその土地は一層奇特な光を発することになる。政治上宗教上の緊張を孕んだ場はその典型だけれども、いま思えばキプロスはまさにそういう土地そのものだったのだ。

bluecyprus 古代ローマ帝国崩壊以後の中世ヨーロッパ社会において、キプロス島は敵勢の渦中においた出城のような役割を果たしていた。ビサンツ帝国が衰退を始めてからというもの東地中海の大陸沿岸は総じてイスラム勢力の優勢が続いたから、西欧社会において宗教的な気運が高まり十字軍が組織された折などは、海によって孤立したこの島ほど聖地エルサレム奪回の前線拠点としてふさわしい場所も他になかった。

 厳格な聖域や政治的に張りつめた状態にある地域に隣接して享楽的であったり刹那的であったりする場が広がっているという風景は世にありふれたものだけど、あらためて考えてみると人間社会の営みがもつこうしたバランス機能ってなかなか不思議だなと思う。たとえばヒッピー文化の展開とヴェトナム戦争の長期化をからめる語り口などもそうだけど、そこに生きた当事者たちは何もそうした大局的な視野のもと意識的に行動していたわけではたぶんない。神社の裏手には昔からなんとなく遊女たちと旦那衆のための茶屋街が形成されたし、現代のキプロスの浜辺で快楽に耽る若者の頭のなかはほぼ間違いなく快楽のことだけで一杯だ。にもかかわらず結果として全体をみると、何だかいろいろな側面で次第に帳尻が合っていくように見えるという不思議。例としてキプロスのもう1つの“顔”を挙げるなら、ファマグスタには十字軍の時代に西欧各地からやってきた騎士たちがそれぞれのルーツに従った聖堂を並び立て、そのいくつかは現存して観光名所にもなっている。そうしてこの島が辿ってきた歴史的な経緯とのダイレクトな影響関係という点で、冒頭で例示したようなキプロスを巡る現在の政治課題と享楽的な響きとの間にはどうも通底するものを感じてならない。今回は話の展開がそこかしこで強引かつ飛躍しすぎかもしれないけれど、まあそういう方向にいま連想が進んでいるんだから仕方がない。勝手に帳尻が合ってくれることを期待して、これより歴史ネタに再突入いたす所存。

 ファマグスタはそのキプロス島のなかでも東岸に位置し、陸際の水深も深く良港の条件を備えていたため、13世紀末にアッコンの陥落によってエルサレム周辺の拠点をすべて失ったあとの西欧キリスト教勢力における、ロードス島以東の最重要拠点として繁栄した。しかし前線拠点の宿業ともいうべきか、時に敵対勢力による虐殺を蒙ることになる。何しろ支援してくれるはずの西欧諸国はあまりにも遠く、運良く援軍要請に即応できた国があっても間に合うかは依然わからない。
 レパントの海戦は大航海時代Onlineのプレイヤーにもつとに有名だが、これに先立って一方の主役であるオスマン帝国の軍隊がファマグスタに猛攻をかけていたことを知る人はあまり多くないかもしれない。というよりもレパントの海戦を戦ったヨーロッパ側の艦隊は、元はといえばキプロス救援の必要から組織されたものなのだ。しかし連合艦隊という名の寄せ集めであったことも禍いして、発案されてから実際に編成が整うまでに膨大な時間を要した。その間にキプロス島はもうオスマン帝国の手に陥ちていた。最後までこれに対したファマグスタの防衛隊は、大軍に包囲されて完全に孤立、壊滅の憂き目に遭う。このときヴェネツィアから赴任していた貴族らは5千の兵で10万の大軍に対して1年以上に渡って抗ったのち、全員が戦死を遂げたというから壮絶な話である。絶望的な状況を戦い続け、一人また一人と戦友を失っていくなかで彼らは、目前に群がる異教徒の大軍を遙か西からやってきた味方の艦隊が駆逐していく光景を日に何度となく想い描いたことだろう。

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 ここで少し視点を移してみると、十字軍もオスマン帝国の軍隊もヴェネツィアの防衛隊も、キプロスの外部からやってきたことでは共通する。では島には誰が住んでいたのかというと、十字軍の時代から今日にいたるまでギリシア系の正教徒たちが人口の過半を占めてきた。この点はおそらく誤解が生じやすいところだろうが、彼ら島民からみると必ずしもオスマン帝国の軍隊が完全に“敵”であり、十字軍やヴェネツィア海軍が“味方”ということにはならなかった。確かに後者は同じキリスト教ではあるけれど、十字軍はときに東方正教の聖都コンスタンティノープルやギリシアの正教徒の都市を攻撃したし、ヴェネツィア海軍はエーゲ海に点在するギリシア人の港の多くを武力によって制圧した。
 だから注意しなければいけないのは、現在の分断問題を語る文脈にトルコ側の勢力による“横暴”をオスマン帝国時代の虐殺になぞらえてしまう傾向があることで、こういう語り口は端的にまやかしであると言い切れる。現在のキプロスに住むギリシア系住民から見ると真近に横たわる対岸のトルコ本土から大量の軍隊を現に招き入れたトルコ系勢力は日常的な脅威だろうから、その恐怖心からそういう見立てをしてしまうとしても理解できる部分はある。一方でいまだ解決されずにいるキプロスの分断状況は1974年のトルコ軍侵攻と北部占領に始まるものだが、侵攻のきっかけとなったのは島内のギリシア系勢力の急進派が起こしたクーデターだったから、トルコ系住民がこれに対する恐怖心から独立を捨ててトルコ政府に庇護を求めた経緯も心情的に理解はできる。ここでは少数と多数の構図が互いに入れ子構造になっていて、キプロス島の内側だけを見ればトルコ系住民は少数派だから時にギリシア勢力による“横暴”が脅威となる。片方から見て“横暴”と映る行いが、他方にとってはやむにやまれぬ措置だったという点で両者に善悪の相違はない。

 こうして考えてくると、宗教上の対立は現在の分断状況の解決を図るうえで問題の核心ではないことが見えてくる。無論これはキプロスに限った話ではないし、本当の意味で宗教上の対立を脇に置いてものを考えようと思ったら、それ自体の実相をよりよく知る必要性が当然出てくる。だから現実的な解決を模索する政治家こそが本来最も卓越した歴史観をもつべきなのに、今日の世界はまるでそうはなっていない。大国の指導者を見るにむしろ、教養をもたないことが政治家の美徳にすらなっている。環境問題の解決策を講じる上での一番の障害もそこじゃないかという気がどうもする。ともあれ次回から先もしばらくは、こうしたあたりを嫌でも徘徊することになりそうだ。
 結局キプロスへ行くことをやめたその春休みは、台湾へ行った。それで台湾大学の学生とほのかな恋愛感情を交わすに至ったのだから、いま振り返るにそういう自分の姿はやはりどうみてもアホだった。わーわー。

 
2008.03.21 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
トラブゾン異街譚
◆トレビゾンド (トラブゾン), Trabzon, Τραπεζοῦς
 黒海やエーゲ海一帯には古代ギリシア以前に起源をもつ街が多いことはこれまで書いてきた通りだけれど、実を言うと古代ポリスの時代から一度も途絶えることなく街としての規模を維持しつづけた場所はそれほど多くはない。というよりも、ほとんどない。アテネは中世以降近代まで没落したままだったし、イスタンブールが交易拠点として栄え始めたのはけっこう遅い。トラブゾンはその意味では数少ない“最も歴史のある街”の一つである。

sümela manastırı

 だからもしトルコを一人でゆっくり旅行してみたいという人がいたら、行ったことがないにもかかわらずトラブゾンから内陸へ向かうルートはお薦めできる。その理由をもう少し書くと、1つは今述べたことに加えビサンツ帝国の系譜を引く最後の王朝がここトラブゾンにあったこともあり、情報が少ないのとは相反して隠れた見どころはとても多いはずだから。そしてもう1つの理由はこの街を始めとするトルコ北東部が、ガイドブックにもあまり載ってないエリアだから。
 ガイドブックに載っている場所というのは観光客が多いから、必然的に観光客を当て込んだ現地人たちも多くいる。異邦からの訪問者をまずドル箱として見なすこの種の人々との交流を通してその国を判断するのは危険というよりもったいない話だけれど、逆にそうではなく外国人と話すことなんて普段はまずないような人たちとの出会いとなると、こちらは多くの場合で一生モノの宝になりうるのだ。これは経験したことのない人には信じて実行してもらうしかないのだけれど、特にアジアとされる地域はそうである。殊にイスラームの影響が強い地域の田舎では、歓待の文化が色濃く残っている可能性が高くなおさらそう言える。

 何の説明もなく街の呼称をトラブゾンとして書き始めてしまったけれど、大航海時代Onlineに登場する‘トレビゾント’というカタカナでの呼びかたは実はかなり個性的だったりする。そのためこの語でネット検索しても、ほとんどこのゲームに関するサイトしか出てこない。
suburbtrabzon 先に挙げたビサンツ帝国の系譜を引く王朝の名称がトレビゾンド帝国で、当時の街の名に由来するから最も近い。だがこちらは‘Trebizond(トレビゾンド)’である。トではなくド。細かい話でどうでもいいと感じる人にはこれほど無味乾燥な話もないだろうけど、地名に限らず言葉のもつ響きとかそこに醸成されるニュアンスなどに関心をおく人間としては、やはり気になる。綴りや言語体系によってd音がt音として発音されることはよくあるけれど、この場合はむしろギリシア語での古名‘Τραπεζούντα(トラペズンタ)’から来ていると考えたほうが良さそうだ。ってこういう風にゲーム内設定を扱う時はよく思うのだけれど、ゲーム製作者はべつにそこまで考えちゃいないだろうという懸念は今モニターの前でこれを読むあなただけでなく、書いている本人にもつねにある。とすれば単なる設定ミスとかスペルミスを元にここまで深読みするなんて毎度ごくろうさま、ということになる。どういたしましてなのである。

 ただちょっとだけ自己弁護すると、カタカナでの呼称を即座に丸飲みせず、こうしていったん留保をおくと意外な発見があったりもするものなのだ。たとえばトラブゾンからもう少し東へ行くと、黒海東岸にはキリスト教の古い伝統をもつグルジアという国がある。場所は知らなくても、グルジアという地名を耳にしたことのない人は少ないだろう。アルファベットでの綴りは‘Georgia’である。そう、英語読みすればジョージアなのだ。アメリカ南部のジョージア州やレイ・チャールズの歌う“ジョージア”や缶コーヒーの商品名なんかと同じだなんて、初めて知ったら意外に思う人もいるんじゃないか。いやべつに、いやとくに、とかいま思った人、それなら‘スレイマン’といういかにもオスマンチックな名前がペルシア・アラブ系の文脈ではソロモンと同じ‘Səlayman’の音をもつというのはどうだろう。‘Georgia’はいずれも聖ゲオルギウスに由来し、‘Səlayman’はキリスト教でいう旧約聖書中の王としてユダヤ教でもイスラム教でも極めて重要な人物である。スレイマン大帝として存在することはだから、当時の世界に対して自らをソロモン王になぞらえるニュアンスも含んでいたことになる。それを意外だとする思考やその事実にどういう意味を見出すかは人それぞれだが、「ペットホテルは英語でも犬寝るって言うんだよ、偶然一緒だね!」というような話ではまったくない。
 別個の事象だと思っていたもの同士が、日本人よりずっと多くの別の言語体系で思考している人たちにとってはあらかじめ同じ言葉だったり同じ音だったりすることを知るのは時にかなり面白く、時にけっこう大切という話。今回は話それまくりである。トラブゾンの街そのものに関するネタもいくつか思いついてはいたのだけれど、どういうわけかそういう方向に気が向かない。

misttrabzon ところでトルコ東部はクルド人やアルメニア人などの独立問題を抱えていて、時折外国人旅行者も殺されたりするので行かないほうがいい、と言う人はたぶん多い。でもどうだろう。ニューヨークやロンドンなんてしょっちゅう外国人旅行者も殺されてるわけだけど、そういう人はやっぱり同じことを言うのだろうか。地下鉄で毒ガスが撒かれたり地震で何千人も死んだりするから東京は危険が一杯、と思い込んでいる外国の人ってたまにいるけど、根拠が薄弱な点で同じ水準じゃないかと思う。いずれにしても東京やニューヨークがアジアの片田舎よりも格段に危ないという実感は確かにある。
 念のため付け加えると、一般化した物言いによって多少なりともお薦めできると考えるのは田舎のみだ。都会はどこも頭でっかちゆえに、行かないほうがいいところはたくさんある。人が集まる場所でその国の言葉を話せない外国人旅行者は、時にどうしようもなく弱い立場に置かされるものなので、そこらへんは航海者のバイタリティで。と、この言い回しがいきなり出てきたのには自分でも驚いた。

 
2008.03.14 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
蹄音
◆カッファ (フェオドシヤ), Kefe, Feodosia, Феодосія
 黒海の北岸域は、北からやってくる草原の民族と南からやってくる地中海との民族の交接点であり続けたわけだけど、クリミア半島は比較的‘南’の勢力による影響が大きい地域と言える。少し詳しい世界地図を見るとその理由が明瞭にわかるのだけど、ここは‘半島’といっても大陸との接合点に東西から深く入り江が切れ込んでいて、ほとんど独立した島といっても良いくらいの地勢を備えている。海運に長けた勢力のほうが維持しやすく、北から来る勢力に対する防衛上の利点に秀でていたことは想像に難くない。

 だから古代ギリシアのポリスのうち植民活動に積極的なグループはこぞってこの半島に植民市を建設したし、中世には東ローマ帝国が第4回十字軍によって弱体化したことを好機として、ジェノヴァやヴェネツィアなど地中海交易によって栄華を誇っていたイタリアの海運都市国家がやはりこの地に目をつけた。東方からモンゴルの圧迫を受け、また力をつけたオスマン帝国が北上してくるまでのあいだ、彼らはときに互いの居留地を攻撃するような形で競り合った。のちにスペインやイギリスなど近世の列強諸国が新大陸やアジア・アフリカで繰り広げたような植民地戦争の雛型をこうしたあたりに見ることは、恐らくそう的外れではないと思う。

genoesefort そうしたなかカッファはジェノヴァの植民都市として名を馳せた。この港を近隣の諸港と分けた点を挙げるとすれば、まず13世紀ヨーロッパにおける最大の奴隷市場がこの地に展開されたこと、そしてモンゴル帝国の侵攻時にも破壊をまぬがれて交易活動を続けたことなどがある。‘Caffa’はイタリア語での呼称だが、続くオスマントルコ支配下の時代にもその名は‘Kafe’として受け継がれた。大航海時代Onlineに登場するのはこの頃のことである。現在の名称フェオドシアは、ここにあった古代ギリシアの植民市テオドシアに由来するロシア語名。近隣のヤルタ・ケルチなどとともに近代以降はリゾート地としても知られ、郊外にギリシアの遺跡が点在することでも共通する。画像はクリミア半島に点在するジェノヴァの作った要塞の一つ。

 彼ら地中海からこの地に到った者の視点で見ると、黒海の北岸周辺から先は樹木が生い茂るには適さない草原が、延々と広がる大地の大部分を占めている(ステップ地帯)。それはやがて草すらも育ちがたい荒野となり中央アジアからモンゴル高原へと伸びていて、だから黒海北岸の内陸側の一帯は古代の遊牧系スキタイ人、中世の大モンゴル、その後のロシア帝政やソヴィエト体制のいずれにとっても、その広大な領土を南西端で締める重要拠点にふさわしい場所だった。騎馬を駆ってゲルを移しながら征服活動を行ったハーンたちの軍隊にとってステップや高原などはその大地全体がローマ帝国における道路のようなものだったろうけど、その東端が朝鮮半島の付け根あたりなら、西の限界線がこの周辺ということになる。
 モンゴル帝国がかつてウィーンまで攻め込んでも黒海より西に版図を築くことがなかったのには、帝国の内紛ということの他にこうした境界意識のありかたも影響していたのではないか。少し脇道へ入るがそう考えてみると、鎌倉時代にもし“神風”が吹かず、北九州に襲来した元の軍隊が幕府軍を殲滅していたとして、彼らに日本を統治するつもりがあったのかとても怪しく思えてくる。“いざ鎌倉”の当時の日本社会にとって万を数えるモンゴル軍は大軍だったが、モンゴルの側から見れば威力偵察の一環に過ぎなかったという説があって、確かにそのほうがうなずける部分も多い。勝って駆逐したという意識を持ちえないほどの苦戦であったなら、“神風”は謎の撤退に理由を付けたかった日本側の武士たちが共有する幻想として都合がよかった、ということもありうるだろう。話がそれた。

 ところでこのように長期にわたって異なる文明の交錯地点となった場所を通史的に振り返ろうとすると、どうしても現代社会の枠組みにどこかしら連関の強い歴史のみがクローズアップされ、他は看過されがちになってしまう。この記事で言えば冒頭部に言及した‘北’の勢力による活動がまさにそれで、彼らはこの地域にとって単に交易相手としてのみ存在したわけでも、時々嵐のように襲撃してくるだけの存在でもなかった。
 クリミア半島やアゾフ海沿岸のギリシア植民市群は早くから連携してボスポロス王国という独自の勢力を形成したのだけれど、この王国は領域下のギリシア人たちの王であるとともに、ギリシア人以外の現地人たちの王をも自認した。こうして紀元前5世紀にすでに始まっていた現地人との混合自体が‘北’の勢力の強い影響を示すものだけれども、中世に入るとクリミア半島を含む黒海北岸からカスピ海沿岸にかけての広大な領域を有するハザールという遊牧民による国家が誕生する。彼らが特異なのはユダヤ教を事実上の国教とした点で、これによって東ローマ帝国のキリスト教や急成長するイスラームの諸勢力に長く抗した。

cosaccks 民族の起源ということと別に考えるなら、茫漠と広がるステップ地帯に生きる以上、農耕を糧とする人々とて遊牧的な振舞いを時にせざるを得なくなる。異邦から手を伸ばしてくる大勢力に対する自衛の必要から彼らは黒海やアゾフ海に注ぐ川ごとに連帯し、独自の気風と自治的性格を備えた騎兵集団を育てていく。これが帝政ロシア以降の近現代において精強な兵種として世界に知られることとなる、“コサック兵”の起源である。とはいえ現在のロシア連邦におけるコサックはロシア帝政の時代に新たに組織化されたもので、モデルとされた黒海北岸のコサックとは様相を違えるのだけれど‘集団内の強力な団結と自治’という性格は共通する。
 昨年NHKで彼ら現代のコサックが特集されていたけれど、そこにかつて草原を駆けた騎馬民族の頑強さを想起した人は少なくないのではないか。特にロシアのコサックについては、ロシア帝政への強い忠誠を誓った集団であることから革命後の共産主義政府と各地で激戦を繰り広げた。内戦の終結後も政権にとって決して扱いやすい存在ではなかっただろう。それが今ほとんど崇拝の眼差しでプーチンを見つめチェチェン紛争などに志願して加勢する様を見ると、記述された歴史の裏には忘却された真の歴史が膨大に眠ったままであることを思い知らされる。生の凄味が発する熱に慄然の心地である。


 以下はおまけ。前回書いた黒海の洋上を疾走する輸送船。気になって少し調べてみたところ、本当にあったので画像を転載。時速500kmというのも記憶違いではなかった。[→link]

amphibious

 思った以上に空中に浮いている。それはいいとしてえっと…あの、何か発射してるんですが。
 ……どうみても障害物を発見した際の破壊用な気がします。合掌。

 
2008.03.13 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
女帝と要塞
◆セヴァストポリ, Sevastopol, Севастополь
sevastopolis 街の名前から入ってみよう。エーゲ海以降の記事の流れに乗るなら、セヴァストポリの名は語尾の‘ポリ’がいかにもポリスを想わせずにいられない、ということになるけれど(なるのです)、実際その通りでここにはかつて古代ギリシアの植民都市があり、その遺跡は今も多く残っている。のっけからこう言い切るとあたかも古代から延々と受け継がれてきた名であるかのようだけど、オデッサに続いてここでも登場するのがエカチェリーナ2世である。彼女は時の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世と連れ立ってこの地を訪れると、そこに古代ギリシアの遺跡が散在しているのを目にして、古代ギリシア語の‘sebastos(尊い) polis(街)’からセヴァストポリと命名したという。この女帝、自ら騎乗の人となって軍を率いたり、数百人の男と関係をもったという伝説があったりと破格の女というイメージがあるけれど、オデッサやセヴァストポリの名を自ら付けた(あるいは彼女が付けたということになった)というエピソードにもその片鱗が窺える。 

 人によってはこの街の名から、‘セヴァストポリの戦い’を直ちに連想する向きもあるだろう。世界史の授業か何かを通じて、詳細は知らなくてもそう呼ばれる戦闘があったことは知っているという人も少なくないはずだと思う。これは第二次世界大戦中のナチス・ドイツとソヴィエト連邦との間で戦われたもので、ヒトラー厳命下のドイツ軍による執拗なまでの攻勢に対し、ソヴィエト側は黒海艦隊の要衝としてあらかじめ周到な防備を施していたために、戦史に名を刻む激戦が繰り広げられた。この記事を書く前にネットサーフィンをしていて、このときドイツ軍が使用した列車砲“DORA”の実写映像[→link to You Tube]を見つけたのだけれども、アホかとすら思わせる超弩級のこうした兵器を技術力で実現してしまうあたり、大戦中の日本にも通じているものがある。全体的なバランスを欠くというか。

 余談になるが、ここで黒海についてふとよみがえった記憶がある。それは幼い頃にみたテレビ番組の断片で、まだ偵察衛星に今ほどの精度がなかった冷戦時代、米諜報部が黒海の洋上を時速500kmで移動する謎の存在を確認して騒動になった、というものだ。未確認生物のくくりでネッシーやら宇宙人やらを扱った番組だったのが微笑ましいところだけれど、ゴルバチョフ政権下の情報公開政策(グラスノスチ)によりその正体が初めて西側世界に明かされた、というような筋だった。
 正体は秘密裏に実用化されていた大型輸送船だった。船といっても両翼を備え空気圧によって海原を滑空するタイプのもので、これによって輸送機よりも大量の部隊を揚陸艦よりも格段に早い速度で運ぶことを可能にした。米軍が直ちにそれと理解できなかったとすれば、それは波の穏やかなことで知られる黒海ならではの技術だからで、たしかに外洋を走らせれば沖合で速度に乗ったあたりでド派手に大破してくれそうだ。それにしても500kmも出したら、数km先の波間に現れた漁船なんて到底避けられるものじゃないだろう。接触で地元の漁師が犠牲になるとかきっとごく日常の風景だったのではないか。自衛艦が漁船を沈めて閣僚の辞任まで云々される国から見ると驚異的だけれども、そう考えればこの点も情報統制されたソ連ならではの話である。無論、子供心に時速500kmで両ヒレを広げて洋上を疾走するネッシーの勇姿を想い描いたことは言うまでもない。

 ところで話を戻してセヴァストポリ。ナチス・ドイツの総力を挙げた猛攻を、長期に渡って受け止めるだけの防備がなぜ整っていたのかを考えると、そこでは帝政ロシアの昔から軍事拠点としてこの港が重視されてきた歴史が意味をもってくる。とりわけ19世紀半ばのクリミア戦争におけるこの地での戦闘は、来たる世紀に多くの教訓を残したことだろう。当時南下を意図するロシアはオスマン帝国に宣戦したが、逆にオスマン帝国と手を組んだイギリス・フランス軍の侵攻を招くことになる。英仏軍は当初黒海西岸を北上しオデッサ攻略を目指すも途上オーストリア軍の出現によって行く手を阻まれ、クリミア半島突端のセヴァストポリへと目標変更を余儀なくされる。結果双方にとり予定外の戦闘が繰り広げられる見込みとなり急遽街全体が要塞化、港湾内には黒海艦隊の戦艦が自沈して不動の洋上砲台とされ、化学兵器も投入される死闘となった。

warsevastopol 左画像はこれまたネット上で偶然見つけたのだけど、セヴァストポリの主要港湾部の出口付近に伸びる岬を撮ったもの。左が外洋で右が港湾内部にあたるのだけれど、右端に喫水線を明らかに越えて沈みこんでいる戦艦が写っている。Google Earthで岬の位置を探すとここが通常船舶の停まるポイントではないことがわかるから、街の防御のため意図的に自沈したものだろう。建物の損壊具合が起きた戦闘の熾烈さを生々しく伝えている。

 いつの世も戦争は時の権力者たちの語る論理によって引き起こされてきたけれど、当人たちが退場したのちそこに血を流した意義がどれだけ残されたのかと考えると、すんなりと納得できるケースをほとんど知らない。いまアルファベットでセヴァストポリやオデッサを検索すると現地の海外向け風俗サイトがけっこうかかる。フィリピンやタイの売春街を漁るアメリカや日本のビジネスマンがいるように、ウクライナの若い娘を欧州の中年男が買う構図があるのだろう。中世においてこの一帯で財を為したジェノヴァ商人やヴェネツィア商人たちの主力商品の一つは、性的な使用を主目的とする白人の女奴隷であった。何も変わってないじゃないか、とすら思う。

 
2008.03.11 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
駆ける乳母車の都
◆オデッサ, Odessa, Одеса
 黒海に入った。オデッサまで来ると、その名の響きからして肌を痺れさせるような冷気を予感させ、これまで扱ってきたエーゲ海やアドリア海の諸港とはだいぶ色合いが違って映る。それも無理のない話で、オデッサから北はもう遙かモンゴルへと連なる大草原地帯が広がるのみである。言葉を覚えだしたばかりの子供ならいざ知らず、ある程度の年月を生きていれば日常の様々な場面でオデッサならオデッサの地勢等にまつわるイメージをそれと意識することなしに育ててしまうものなのだろう。

Aivazovsky この港は黒海の北西端に位置するけれど、地中海からやってくる勢力にとって黒海北岸はまずそのようにして草原を介した東方世界との中継点となる意味で価値があった。そのため一帯には古代ギリシアの植民都市も点々と配置され、各々に原住民との混淆も進み独自の発展を遂げていく。これについては同じ黒海北岸の港であるセヴァストポリやカッファの回に譲るとして、オデッサのある場所が地勢的に重視されたもう1つの理由をここでは考えてみる。
 それは黒海に注ぐドニステル川の河口域に位置するというところで、地図帳でこの川に沿って西北西の方角に視線をさかのぼらせていくと分かるのだけれど、源流域ではワルシャワを通過してバルト海へと注ぐヴィスワ川や、無数の支流がバルカン半島全域から中欧まで深く入り込むドナウ川の東側の源流と場所をほぼ同じくする。水路を経由した交通路の豊かさの点で、このことは他の黒海沿岸の諸港に対してかなり有利に働いたことだろう。実際このルートがあるために、古代ギリシアの諸都市は早くからバルト海の品々を手に入れることができたし、中世のある時期オデッサ一帯は遠く北西から延びてきた全盛期ポーランド王国の一部となった時代もある。

 ただし、である。オデッサという港が大航海時代、この場所に存在しなかったことは確かである。もとより大航海時代Onlineにおける港の呼称には一貫性がないのでそこらへんを問題にしてもあまり意味がないのだけれど、今日あるオデッサ港が開かれたのは帝政ロシア下エカチェリーナ2世の時代であって18世紀も暮れのことである。だからここでだけチーク製によるガレアスが造船できるというゲーム内の設定はどの目にも奇妙となる。
 けれどもここにはもう1つの可能性があって、港を開く際にエカチェリーナ2世が命名の由来としたオデッソスという港が黒海西岸に実はある。大航海時代Onlineの地図は細部がかなりデフォルメされているために、ゲーム内に登場するオデッサとは実はこちらのことなのだ、と主張することもできなくはない。もっともオデッソスも語韻から想像できるように古代ギリシアの植民都市に由来し、現在でもヴァルナの名でブルガリアの重要港として通っており大航海時代にも恐らくそれなりの規模を誇っていたはずなのだけど、黒海西岸といっても位置が南すぎるので言い分としてはやはり苦しい。

potemkin 冒頭の画像はIvan Aivazovskyという19世紀クリミア生まれの画家によるオデッサ港の様子。絵の中央、ロシア海軍の戦列艦が半帆を張って徐航している。彼は同時代のオスマン帝国のスルタンにたびたび招聘されてイスタンブールでの仕事も多くこなしていたらしい。
 左の写真はぱっと見で分かった人もいるだろうけど、通称‘ポチョムキンの階段’。エイゼンシュタインの映画“戦艦ポチョムキン”[1925]で赤ちゃんを乗せた乳母車がこの階段を駆け落ちるシーンは‘映画史上最も有名な6分間’とされるけど、オデッサに現存することは今回初めて知った。CGで何でも再現できる今の映画とは異なって、史実の事件を描くのに現地ロケを行うのはごく自然という時代も長くあったのだ。

 ここで白状しておくと、この街の名で個人的にまずイメージするのはオデッサの街そのものではなくて、アメリカなどのロシア系移民街の呼称として一般的な‘リトル・オデッサ’のほうだったりする。特にニューヨーク・ブロンクスのそれは有名だけど、オデッサと名のつく街はアメリカ国内だけでも他に結構ある。なぜモスクワやサンクトペテルブルクではなくオデッサが多いのかといえば、そこには帝国時代から続くユダヤ人排斥運動(ポグロム)の影が落ちていて、オデッサはすでに述べたように商業活動の隆盛する条件を満たしていたからユダヤ系住民も格段に多く、外国船の出入りも多かったから半ば必然的に海外移民の玄関口となった。ロシア革命以降はこの流れにウクライナ人の移民活動も加わって、現代へと連なる大量の人口移動現象が起きる。
 オデッサはウクライナの都市なのにそこから派生した移民街がなぜロシア系移民の街とされるのかというと、この街はもともと帝政ロシアの軍港として開かれ、以後も多数の外国人商人が往き来したことから自然にロシア語が共通語となっていたから。一般のアメリカ人から見れば、ユダヤ人だろうがウクライナ人だろうがロシア語を話すのだからロシア系ということになるのだろう。

lordofwar 以下余談。ニコラス・ケイジ主演の“ロード・オブ・ウォー”[2005]という映画はオデッサ生まれの主人公がニューヨークのリトル・オデッサから武器商人としてのし上がっていくストーリーなのだけど、現代の武器商人の生態をとても面白く見せてくれるので、気になるひとにはお薦め。新聞の国際面の片隅にはよくロシア系の武器商人がバンコクで捕まっただのインドで殺されただのって記事が数行だけ載るけれど、アジアにもアフリカにも南米にも、20世紀後半にアメリカが支援した国や反政府勢力の近くには必ずソ連が支援した国や反政府勢力が存在して、そういう冷戦時代のネットワークが闇ではまだ健在であることがよくわかる。
 “リトル・オデッサ”[1994]というそのまんまの映画もあって、こちらの主演はティム・ロスとエドワード・ファーロング。移民の兄弟が貧しい環境を耐えて生き抜く様がよく描かれているので興味あればどうぞ。エドワード・ファーロングってターミネーターシリーズの主役級の男の子だけど、最近すっかり消えちゃった感あるね。って今回は書くことないぞと思ったけれど、けっこう書けた。

 
2008.03.10 * 東地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
       
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