◆カーボヴェルデ, Cabo Verde, Cape Verde 戦火が近づいている。
海へ出るのは危険だ。すぐに避難してくれ。幾度も言葉を重ね、何通りにも表現を換えて、私は男にその危険を伝えようとした。男は押し黙ったまま小舟の索具を操り、舷側を見回し、漁網を持ち上げて浜へ放り出していく。私の声も耳には届いているのだろう。その意味も理解しているに違いない。だが男は馴れた手つきで漁の後仕事を続けるだけだ。まるで海辺に寄せる波音の他は、何も聞こえてないかのように。
面倒な役回りを引き受けちまったな、と仲間の兵士は憐れみ混じりに言っていた。島への駐留が長い彼によれば、男は近辺でも一番の偏屈者という話だった。妻をなくしてからもう長く、育てあげた一人娘もすでに嫁いで、男の生来の気骨には一層の磨きがかかったという。もとより独り者の漁師、従順な性格であるはずもない。しかしこの事態に対して男の見せる頑迷ぶりに私は、それだけでは収まらない何かを感じた。
こちらの言葉に反応する素振りをまったく見せない男の険しい顔が、ふと空を見上げてわずかに緩む。その表情の意味がはっきりと伝わってくる。男にとっていま重要なのは翌朝の天気であり、島が戦の炎に包まれるか否かは問題ではないのだろう。説得を続ける気力はもう尽きていた。気づけば西陽は最後の輝きを水平線へ灼きつけ、島のすべてを黄金色に染めあげていた。

島を訪れたのは、これが三度目のことになる。カーボヴェルデ諸島に属すこの島には、交易船が補給のために立ち寄る小さな港町があった。地中海や北海から貿易風に乗って南下してきた船は、この海域で大きく三方へと分かれてゆく。カリブへ向かう船は西へ、ブラジルや南米西岸へ向かう船は南へ、そして象牙海岸や遠くインドへ向かう船は南東へ。紛れもなく一帯は海の交通における要衝を占めており、島の人々も外国人の往来には自然と慣れていて、気さくに話しかけてくる者は多かった。
宿で働く娘の利発さは、なかでも初めから目立っていた。二度目にこの島を訪れたとき、娘は私を一目見るなりお帰りなさいと言ってきたし、仕事の空いた時間にはよく旅の話をせがんできた。船乗り達の話を元に世界中の事物へと想像を膨らませることで、娘は変化の少ないこの島での日々を満たしているのかもしれない。三度目となる今回、私は守備隊の臨時要員として島に来た。商船の乗組員であった初訪時や二度目の気軽さはなく、娘もその空気を読み取ってか、印象的ないつもの笑顔は少なめだった。
娘の父親のことを知ったのは、宿での食事のあと娘をまじえ数人で雑談を交わしていた時だ。町の外に住む島民は、軍の勧告に従ってすでに岬の砦へと避難を始めていた。しかしただ一人、この勧告を受け入れない島民がいた。それが彼女の父親である、その漁師の男だった。食後の雑談に加わっていた小隊長がその場で、男を砦に押し込めるよう私に命じた。つまり男への説得を諦めた私は、戦の前から軍務放棄を一つ犯してしまったことになる。だが小隊長は酔いにまかせ、娘の前で格好のつく言葉を吐いてみたかっただけなのだろう。この件についてその後問われたことは一度もなかった。

それから数日後の夜更け、いつもより数刻早く目覚めてしまった私は、何をするでもなく海辺の散策に出た。するとしばらく歩くうちに、埠頭の端で海を眺めてたたずむ娘に出くわした。近づく私に一瞥を向けると、娘は夜の海へ視線を戻して口を開く。 「父さん、何か言ってた?」 私がかぶりを振ると、娘はうつむいてから少し笑った。男が貝のように口を閉ざし、笑顔とも無縁な暮らしに入り込んだのは、娘の母親が死んでからだという。かつてあった海賊による大規模な島への焼き討ちが、男の妻の命を奪い去っていた。戦火の危機に対するあの頑固さは、きっとそれゆえなのだろう。
「ねぇ、船乗りさん。世界って、本当に広いんでしょう?」
何ヶ月もかけて、どうしてこんな小さな島を襲いに来なきゃいけないのかな。娘のその問いかけに、返す言葉は見つからない。娘も返事を期待する風はなく、夜の海に小さく浮かぶ隣島の燈火を見つめていた。
月明かりの反射をさえぎって、沖合の海面に帆船のシルエットが現れたのはその時だ。はじめに気づいたのは娘のほうだった。娘の指差す方角をじっと見据える。流れる薄雲から月が再び姿を出したとき、その影は私の目にも飛び込んできた。一角獣の角のごとく前方に高く伸びるバウスプリット、大張りのスプリットセイル。断言はできない。だが船の形が目に映り込んだ瞬間に脳裡を貫いた悪寒を信じるなら、間違いない。奴らだ。それも考え得る限り世界最悪の相手、フランシス・ドレーク。龍の異名をもつその化物が操る旗艦、“黄金の鹿”。自分の視野の内にそれがいるという現実に、一瞬めまいを覚えずにはいられなかった。
「今すぐ走れ。町の皆に出来る限り避難を呼び掛けるんだ。どこでもいい。町の外へ逃げ出せ。」
「父さんが」
「わかってる。だが君の足では間に合わない。彼のことは私が何とかする。君は一人でも多く、町の人たちを救うんだ。」
暗い船影の横腹が白くきらめいた。一拍遅れて耳をつんざく轟音の雨。港の外れにある丘の頂きから、火柱が立ち昇る。その高台には、防衛用の大砲が設置されていた。誰の予想よりも早かった来襲。島を射程に収めるなり、何のためらいもなく開始された艦砲射撃。それも効果の最も高い標的を狙った、正確無比の第一撃。反吐が出るほどに確かな予感。数日後にはこの島から町が一つ、消えているだろう。

漁師のあばら家へと私は走った。日の出はもう近い。防衛部隊の兵士としてはあるまじき行為だが、娘との約束を違えるわけにはいかなかった。海際のそのあばら家からも、丘の火柱は見えていた。にも関わらず、男は舟を出す準備を始めている。戦闘を気にしている風など微塵もない。束にした銛綱を脇に抱えると、漁網の塊を掴んで桟橋へと歩き出す。男の歩調に合わせ、網裾の沈子がじゃらじゃらと重い金属音を立てている。連続する砲撃音の合間にそれが聞こえる。男の背中が、遠くの砲火を映して薄く茜色に瞬いている。
その後ろ姿に私は、思いもよらぬ深い敗北感を覚えて立ち尽くした。己のすべきことをわきまえ、すべきことだけを淡々とこなす生き物本来の姿がそこにあった。生の在り処を熟知する人間の姿をそこに見た。強い。仲間の兵士の誰よりも、この男は強い。敵も味方もない。人は愚かだ。本国からやって来る軍人も海賊も、ただその愚かさに苦しめられている。それだけのことだ。男は何も言わない。ただ男の偉容がそう訴えかけてきた。ひときわ大きな砲音が、落雷のように夜更けの空へ重く響いた。
戦闘は、たった一日で終わった。海賊たちは港の破壊を十分に済ませると、砦に立て篭もった守備隊を置き去りにして、悠々と島を去った。時代の変化は、襲い来る海賊の質をも変化させる。金銀の仕入れ港が新大陸へと移り、香辛料貿易の主軸がアジアに移った今、金品の強奪を目的にカーボヴェルデを襲う意味はもはやない。いまこの島々を襲う意味があるとすれば、軍事拠点として占領するか、交易網への打撃を狙って焼き尽くすかのいずれかだ。奴らは海賊の仮面を被りはするが実態は紛れもない、かの女王麾下の海軍というわけだ。
漁師の舟はその日、海から帰って来なかった。翌日も帰らなかった。しかし瓦礫と化した港町を前にした島民たちに、男の失踪へ気を払う余裕はなかった。ただ一人、宿の娘を除いて。三日目になって、沖合に釣り舟の姿が現れた。舟の艫には鯨のような大魚が繋がれ、海面にその頭部を覗かせている。男は彼だけの戦いを、人知れず三日三晩戦い抜いていたのだ。舟へ従わせるまでに魚の体力を奪うだけでも、余人の想像を絶する苦闘があったはずだ。人の背丈を優に超えるだろう大魚はゆえに、男が戦いに勝利した証であった。十家族が数週間は食いつなげそうなその獲物は、穀倉を焼かれた島の人々にささやかな希望を与えもするだろう。やがて男の表情がわかる距離に舟が近づいたとき、私はこの父娘に出逢えたことを心から感謝した。その光景の記憶は私の生涯において、今後幾度となく心を温めてくれるに違いない。島へ戻ろうとする舟の姿形を洋上に見とめた娘は岸辺にしゃがみ込み、安堵のあまりか泣きじゃくっていた。舟上の男は憑き物のとれたような、さっぱりとした笑顔を浮かべていた。