Mamma Mia! 教授ブログ!!
so there is no time like the present,
石に音楽の流れる
birdnest

◆ピサ, Pisa
 まず大地があり、そこにひとが現れる。ひとは風をふせぐために壁をたて、雨をしのぐために屋根をわたす。はじめは手近な自然物がその材料にあてられる。樹々の豊富な土地では木造の、加工に向いた石材があれば石造の構造物が、こうして次々と生まれてゆく。鳥が枝を集めて巣を編んでいくように、蟻が土を運んで塚山を築いていくように。だから土地が変われば、建物のカタチも変わる。それを自然のこととして、建築の歴史は長く時を刻んできた。蜘蛛は元形を留めない糸へと素材を転化させ、空中に家をつくる。鉄とガラスによる現代都市とどこか似ている。こちらは地球上のどこであれ、おのずと似通ったものになる。

spidernest

 工業の発展によって街を形作るパーツが日々規格化され、画一化されゆく時代になって、古きものがもつその土地ならではの固有性にひとは初めて価値を見出した。ピサの場合、それはまずロマネスク様式の建築群を指すことになる。なぜゴシック様式でもルネサンス様式でもなくロマネスクなのかというと、この様式の流行した11世紀から12世紀が、ほぼそのまま海運国ピサの最盛期に相当したからだ。
 もともと古代ギリシアの植民市としてスタートしたこの街は堅実な発展を続け、11世紀にはコルシカ・サルディーニャ・バレアレス諸島の各港を領有、中世地中海における四大海洋国家の筆頭に称えられるほどの繁栄を謳歌した。だが1284年にメロリア海戦でジェノヴァに屈して以降往時の勢いが甦ることは二度となく、よってそれまでに築いた遺産を超える建造物を生みだすこともなくなった。1509年、稀代の策謀家マキャヴェッリが組織したフィレンツェの国民軍を前にして、都市国家としてのピサの命脈は終焉を迎えることになる。
 
CampodeiPisa

 さてこうして経済力を背景に昇華したこの街の建築様式は、今日では一般にピサ・ロマネスク様式と通称される。その特徴はファサードに重なる小円柱の列や寄せ木細工による装飾など幾つかあるが、他に主なものとして白と黒の大理石を交互に積むことによる縞状の幾何学模様(polychromia)が挙げられる。材質の違いによってモノクロの縞を生みだすこの手法は、近隣のトスカーナ一帯はもとよりライヴァルの海洋国であったジェノヴァやアマルフィにも浸透し、さらには各国がもつ海運力に乗って遠方の植民市へと伝播した。

polichromia

 上画像は左からフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ、中央がジェノヴァのドーリア家旧宅、右がアマルフィのドゥオーモ正面。建築様式としては左がルネサンスからネオ・ゴシックまでの混合様式、右がアラブ・シチリア様式と幅広いが、明色と暗色の石材を交互に重ねて模様をつくる点で共通している。
 またこのように材質の違いを根拠とした本来の手法から、外観のみが採用されて別のスタイルへと発展した例として、教会同士でロケット花火を打ち合う祭りで有名なエーゲ海・ヒオス島のクシスタ模様(xista, 下画像左)がある。先日放送された長寿TV番組“世界ふしぎ発見”では、この様式が一時期この島を支配下においたジェノヴァから伝来したこと、島では黒の地に白の漆喰を塗り型に沿ってはがす独自の手法が発達したことなどが、職人の実演も併せて紹介されていた。こんな文章をここまで読むくらいであれば、観たひともきっといるだろう。吉村先生のエジプト編などもそうだが、この番組は軽いノリのまま時々無駄にマニアックなところまでカメラを突っ込む。油断できない。

xistasinan

 ところでなぜ縞模様なのかということを考えたとき、即座に思い出されたのがマラガの回で扱ったアンダルアのイスラム建築様式だ[→link]。コルドバのメスキータ内観に覗くアーチ(上画像中央)など、色こそ違え原理はほとんど同じに見える。メスキータにしてもアルハンブラ宮殿にしても、アンダルシアの建造物に赤色が多いのはその土壌が赤土を主としていたからだが、同様に考えればモノクロ縞の様式が発達したのはピサやそれが伝播した土地で白と黒の石材が入手しやすかったからということになる。実際、白色に比べて黒色の石材(正確には黒緑色, セルペンティーノ)は生産地が限られたため、同じピサ・ロマネスク様式の影響下にあるトスカーナ州の街でもたとえば内陸で山がちのヴォルテッラなどでは、暗色部を黒ではなく赤色の煉瓦によって代用した縞模様を見ることができる。この手法においてはその土地土地の固有性に加え、正確に再現するには流通の力がモノを言ったというわけだ。
 上画像の右は現トルコのヨーロッパ側、エディルネにあるセリミエ・ジャーミィ内観。当ブログではすでに幾度か登場している建築家ミマール・スィナンによる、最高傑作との呼び声も高い大モスクの部分写真である。スィナン本人は16世紀のひとだが、彼の建築群はそれまでのギリシア・アラブ・ペルシア域において数千年に渡って蓄積されてきた技術・意匠の集大成といった観がある。そこにもこうして件の意匠が顔をのぞかせているということは恐らく、この≪材質の違いを活かした縞模様のアーチ≫の源泉は思いのほか、深い。

ablaq

 上画像左はシリア・アレッポに現存し、今も現役のハマム(沐浴場)。中央は後述するとして、上画像右はレバノン・トリポリにあるマドラサ(モスクに付随する学究施設)。こちらも見るからに現役だ。いずれもアブラク(ablaq)と呼ばれるイスラム世界固有の装飾様式によるものだが、モノクロ縞のアーチに帰結している点でピサのものとよく似ている。アブラク様式はエジプトからアラブ一帯を支配下としたアイユーブ朝、マムルーク朝のもとで発展したが、その起源は11世紀以前のビサンチン美術に帰すると考えられる。要するに、その発生もピサ・ロマネスク様式とほぼ同時代なのだ。ここで中世前半のイタリア半島がビサンチン帝国の強い影響下にあったことを考え合わせると、これらの発生源はすべて同じとみるほうがどうも自然に思えてくる。だとすればジェノヴァによる支配以前はビサンチン帝国下にあったヒオス島のクシスタ模様に関する“世界ふしぎ発見”の上記説明は、「誤りとは言い切れないが正確でもない」という可能性も出てくる。徹子さん、どうか長生きしてください。
 上画像中央はアナトリア半島北西部・ブルサのエミール・スルタン・ジャーミィに掲げられたセリム三世を称える銘。明暗二色の細工によって極度に抽象化されているが、「アラーの他に神はなし、モハメッドは神の代弁者である」と書かれているらしい。インド人もびっくり。いや別にインドは今回関係ない。縞模様を追いかけて、ピサからやたら遠くまで来てしまった。

 さいごにもう一度トスカーナへ戻って終わろう。下画像はピサ近郊の街ピストイアにあるサン・ジョヴァンニ・フォルチヴィタス教会(Chiesa di S.Giovanni Fuorcivitas)外観。中段の小柱列中央の一本だけが黒緑色の柱とされているあたり、洒落ている。観光ガイド風にそう言って済ますこともできるだろうが、実のところ同一パターンが横方向にのみ反復することで間伸びしがちな全体の印象を、この一本の存在が劇的に締めてもいる。ミラノあたりの高級香水ブランドが泣いて飛びつきそうなくらいモダンで洗練されたデザインだが、これでも12世紀の建築である。

La chiesa di S. Giovanni Fuorcivitas

 薬師寺東塔の律動的なフォルムを“凍れる音楽”と評したのは明治期に来日した美術史家アーネスト・フェノロサだが、もともとこの言葉はゴシックの大聖堂を指してシェリングやゲーテといったドイツの知識人のあいだで稀に使われる表現であったらしい。ともあれ建築も音楽も人間精神の純化された顕れである以上、生まれた土地土地のもつ色彩と無縁でいられるはずもない。ロマネスク建築はいわばゴシック建築の前段階に当たるから、シャルトル大聖堂やパリのノートルダム寺院といったゴシックの傑作群がもつアクセントに富む構築性や、天へと突き抜けるような荘厳さがそこにはまだ欠けている。しかし代わりに緩やかで一層落ち着きのある優美な調べを、訪れた者は等しく聴きとることになるはずだ。ピサの教会広場がそこに居並ぶ建築群のサイズにも関わらず控え目にひそやかに感じられるのは、きっとその優しい響きのせいだろう。ただ一つ、斜塔の危うさをのぞいて。

 
2008.07.03 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ジェノヴァ舞武
◆ジェノヴァ, Genova, Zena
AndreaDoria 巨躯であったと伝えられる。ために老いて肉が削ぎ落されてなお、高みから放たれるその眼光は容易に周囲を圧したという。また、寡黙であった。軍議においては終始目をつむり、数十歳は若い発言者たちの献策に耳を傾けるのが常であったが、結局は最後にこの男の発する一言がすべてを決めた。この寡黙な男が戦場でのみ発する咆哮はだが、会戦海域に浮かぶあらゆる軍船の帆を震わせたともいう。生ける軍神であった。
 アンドレア・ドーリア(Andrea D'Oria)。齢八十を超えてなお自ら艦隊を率い、敵船団に当たり続けた男の名前である。

 のちに一国の趨勢を一人で背負うことになるこの男を、母国ジェノヴァはまず手軽な軍人として遇し、そして動乱のさなかマルセイユへと放逐した。まもなく街はフランス国王フランソワ1世の占領下に置かれる。しかしこれに反発してドーリア麾下12隻のガレー船団がフランスからスペインへと寝返ると、ジェノヴァはほぼ自動的にスペインの領下へと入った。1528年のことである。この男が己の軍事的才能によって、ジェノヴァを単身フランスの圧政から解放した形となった。
 この功績を讃えて共和国ジェノヴァは男にドージェ(Doge, 元首)の地位を用意する。だがドーリアはこれを断り、代わりにケンスル(Censor, 監察官)の官職を要求した。古代ローマに由来するこのやや控え目な響きを備えた役職を自らのためだけに復活させたことは、結果的には男に終身独裁者の座を約束した。このとき齢はすでに還暦をこえていた。しかし彼の存在は以後30年にも渡り、当時地中海の過半を占めていたイスラムの人々を恐れさせることになる。
 スレイマン大帝やカール5世が覇を競い、ヴェネツィア共和国や新興国フランスが凌ぎを削った同時代の地中海においても、‘現実的に’その海の手綱を握ったのはハイレディン・バルバロッサ[→link]とこのアンドレア・ドーリア、ただ二人であったとしても恐らく過言とはならない。

medievalgenova

 海洋都市国家としてのジェノヴァの最盛期を、13〜14世紀周辺とする歴史家は多い。たしかにその世紀、ジェノヴァは海外に最も多くの居留地を抱え、ヴェネツィアやピサなど他国の海軍にも多く勝利した。だが仔細に検討すると、この見方はかなり一面的なものであることがわかってくる。実際たとえばジェノヴァが最大勢力を占めた黒海の諸港は15世紀以降次第に失われていくが、これはジェノヴァの国力そのものの衰退というよりも、東方におけるティムール朝の強勢が黒海北東岸のキプチャク・ハン国を圧迫したために起きたシルクロードの“草原の道”から“砂漠の道”への移行を反映したものという色合いのほうが実は濃い。

 その間、ジェノヴァは交易路を武力によって切り拓くのではなく、既存の勢力へとり入ることによって獲得する、より巧妙な外交戦術を身に付けていく。近世スペイン最大の貿易港セビリアなどは、こうしてただジェノヴァ人の手によって発展したと言っても良いだろう。15世紀末、彼らジェノヴァ人は黒海交易からセビリアを起点とした新大陸交易へと活動の主舞台を切り替える。そして16世紀末カリブ海域の銀山が軒並み枯渇すると、今度は中南米の金銀を交易の主軸としていった。スペインによるインカ・アステカへの侵攻は、こうした経済的背景を抜いては語れない。やがて余りに多くを海外商人の手に委ねたスペイン・ポルトガルは、栄光の歴史を残して静かに没落を始めていく。だがそれもまた多くのジェノヴァ商人にとっては恐らく、交易形態の変化を意味したに過ぎないだろう。遠く21世紀現代においても商港としてジェノヴァがイタリア最大の取扱高を誇っていることは、その何よりの証だと言えるかもしれない。利を尊び、名より実を獲り続けた海洋都市国家の息遣いがそこにある。

Azzurrogenova

 さてまだ無名の若き日、一家の所用を兼ねて男はカスティーリャ地方のある街を訪れた。どうしても訪ねておきたい人物がそこには住んでいたのである。快く面会に応じてくれたその人物もまたジェノヴァ出身であることも手伝って、話は長く続いた。不思議なことを言う。と、率直に男は思った。黒海の港で遥か東方から来たらしい異国人の奇特な居姿をすでに目にしていた男からすれば、あらゆる意味で異質な人間がこの世界にはまだ多く存在することは想像に難くない。しかしこの世が球体であるというこの人物の主張がどういうことなのか、やはりよくわからない。ならばすべてが逆様の遠き海原では、たとえばガレーの櫂はどの向きに漕がれるのか。洋上での白兵戦はどのように行われるというのだろうか。そこでは神もまた逆様なのか。そしてそのことに、いったいどういう意味があるというのか。

 面白い。だが、己にはやはり関わりのないことだ。男はそう結論付けた。目下の敵は我がジェノヴァの内部にある。その敵を克服し遂せても、次には近隣のミラノやフィレンツェ、大国フランスやスペインとの鬩ぎ合いが控えている。そのさらに先では、年を追うごとに勢力を増す異教徒の海賊たちとの抗争が我が人生を埋め尽くすことだろう。そうであってほしいと願う。つまりはその結論が欲しくてここに来たのだと、クリストフォロ・コロンボの居宅を辞して男はようやく気がついた。
 晴れやかな日であった。
 
 
2008.06.28 * 地中海・黒海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
螺旋の海
◆カルヴィ, Calvi
 水はまだひんやりとして、思いのほか暗い。沖合に少し出ただけで水底はぐっと深くなり、己の企みが浅はかなものであることはすぐにわかった。といって水草や錆やフジツボの類に覆われているだろうその痕跡をもし見つけたところで、別段どうしようというわけでもない。1794年、20代半ばにして戦列艦アガメムノンの艦長となったホレーショ・ネルソンは、この街を巡る攻防で右眼の視力を失った。戦闘がどのようなものであったのかはよく知らない。ただ、運がよければその時沈んだカノン砲の一つでも見つかるのではないかと期待して、時間つぶしに潜ってみただけだった。

cannonshipwreck

 早々に諦めて海から上がり古い石堤に沿って歩き始めると、浜辺のほうから数人の若者のはしゃぐ声が聞こえてくる。この島の人間があのように高い喚声をあげることは稀だから、どのみちジェノヴァ界隈からバカンスに訪れた裕福な家の子弟らといったところか。そう当たりをつけて3歩と進まないうちに、リグリア訛りの濃いイタリア語のフレーズが耳に飛び込んできた。ジェノヴァ地方の方言である。
 はっきりそうとわかると、途端に不快な感情が湧き起こってきた。彼らとて、ジェノヴァ人がかつてこの島で行った圧政と搾取を知らないわけではあるまい。だとすればそれにも関わらず抑圧者の言葉で騒ぐ彼らの傲岸さを、自分は不愉快に感じているのだろうか。いや、おそらく違う。彼らは知らないのだ。良家の子弟が己の血に潜む陰の歴史を敢えて教わる理由はない。不快に感じているのは結局、いつも通りこの自分に対してなのだろう。歳の幾つも違わぬだろう彼らのように、自分はあけっぴろげに大きく笑うことがない。いつのまにか、無知であることを罪とすら考え伏し目がちに生きるようになっていた。だがそれが良い道行きであるという確信はいまだにない。そう、だからこそ、ああした笑い声はこの身を不安にさせるのだ。わかってはいる。しかしどうにもしようがない。
 気づくと、すでに街の端へと歩き着いていた。いま宿へ戻ってもすることがないと考え、青年は港の埠頭の方角へと足先を変えた。

FlagCorsica 港湾の事務を取り扱っているのだろう小屋の屋根には、小ぶりなコルシカの旗がささやかに舞っている。元はコルシカ独立戦争を戦った独立政府の旗章で、目隠しをされたムーア人の頭を意味したという。サルディーニャ島の州旗もたしか、これとほぼ同様の由来をもっていたはずだ。このあたりの島の歴史とはどこでも、ムーア人の海賊からジェノヴァの武装商人、フランスの革命政府などと姿を変えて存在し続けた外来の脅威に対する抵抗の歴史そのものなのだろう。
 サルディーニャの独立運動はやがてイタリア統一の枢軸となったが、コルシカのそれは結局フランスの支配下に留まった。何が二つを分けたのかと考えれば、要因は様々にあるだろうが一つには島のもつ規模の差が大きいだろう。この島はサルディーニャに比べ、ただ小さいという以上に耕地面積がずっと少なく、従って人も少ない。人々が徒党を組んで求心力を発揮し、外部の勢力に対するためにはやはり相応の規模と内実が必須の要件とならざるを得ない。組織を司る統制はそれゆえに、実効力をつねに前提において構想される必要があるだろう。従って実態にふさわしい帰結に至った否かで判断するなら、コルシカの独立戦争が失敗に終わったとは一概に言えなくなる。それによって何を得たのか、重要なのはこの一点だ。

corsicaisland そういえばコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官には、かのナポレオンの父親がいたはずだ。父親はのちフランス側に寝返り、それがもとでボナパルト一家はコルシカ島を放逐される。ネルソンがこの地で隻眼となる前年、若き砲兵士官のナポレオンは1年だけこの島に任官していたらしい。トゥーロン包囲戦でその軍事的才能を世に知らしめ、24歳にして少将に昇進するのはコルシカ赴任の直後のことだった。しかしこうしてかえりみると、一家のマルセイユ移住がのちの皇帝ナポレオンの誕生につながり、やがてフランスによるコルシカの支配をより強固なものとする素地を形作ったのだから、何とも皮肉な話ではある。とは言えいかに賢明な指導者であれ、自らの施策がもたらす結果について予めその全てを踏まえることなど不可能な話だろう。失政は政治の本質である、という格言を記したのはモンテスキューだったか。いや、違う。社会思想には自信があるつもりだが、古典がかってくるとどうにも記憶が曖昧になってしまう。まだまだ研鑽が足りないな。

 この島で隻眼となってから数年後、カナリア諸島での戦闘により右腕を切断したネルソンは、イギリス地中海艦隊を率いてトゥーロンのフランス艦隊封鎖を試みるが、物量の差もあって失敗に終わる。この失策によりナポレオンのエジプト侵攻への道が開けたが、ために陸軍のアレクサンドリア入城を支援したフランス艦隊はナイル河口においてネルソンの鬼謀に触れ、殲滅の憂き目に逢う。このとき以降フランス海軍内部には‘ネルソン恐怖症’とでもいうべき神話が生まれ、のちのトラファルガーの海戦へと連なっていくことになる。
 トラファルガー沖海戦でも艦隊を指揮したネルソンは、その洋上で生涯を閉じることとなった。彼の操る旗艦は集中砲火を浴びながら突進しフランスの戦列艦に接弦、白兵戦を行いつつ反対側の舷側ではなおも他の敵艦へ向けて片舷斉射を行っていたという。ネルソンを巡る神話はここで、明瞭な輪郭を帯びた伝説となった。一方トラファルガー沖でのフランス側の敗戦と制海権の喪失はナポレオン帝政によるイギリス本土上陸の野望を粉砕し、以降ナポレオンの食指はヨーロッパ東部へと延びていく。
 歴史はかように人間と人間との予期しえぬ連環により進展してきたが、欧州に覇を唱えた人物を生んだ島民の眼差しは至って冷静なものである。このコルシカではナポレオンその人よりも、島の為に生きそして死んだパスカル・パオリの名声のほうが今でもずっと高い。自分たちに何をもたらしたかこそが意味をもつということだ。帝王となった男より、抵抗者であり続けた男を尊ぶ気風。この島自体がそうであるように人間の本質もおそらくは、中世だろうが近代だろうがそう大きく変わることはないのだろう。

corsicasform

 そこまで思考を巡らせたところで、青年は埠頭の先端へとたどり着いた。島のほうを振り返る。海底から山がそのまませり上がるかのように、波を割る急峻な崖の岩肌が直接に峰々へと繋がり、遠く灰雲に霞む山の頂へと通じている。目指す高みがあの霞む彼方にあるとすれば、己の現在地はまさに母なる海原をようやく抜け出たばかりの今ここということになるだろう。そのどこにでもあるような比喩の凡庸さに可笑しくなって、青年はわずかに口角をゆがめた。ようやく二十歳に届こうという年齢のわりに、その笑みはあまりに大人びたものだった。
 コルシカで短い休暇を過ごしたのちスイスでの出稼ぎを終え、国へ戻った彼が社会運動に身を投じるのはこの日より数年後のことである。それから20年近くを経て、世にいうローマ進軍の先頭に彼は立ち、独裁者への道を歩むことになる。名を、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニといった。

 
2008.05.30 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
逆襲の海洋戦闘部族
◆サッサリ, Sassari, Tathari
flagsardinia サルディーニャ島の先史から古代へ至る歴史の大枠をカリアリの回にまとめたので、その続きという感じで。右の画像は現在のイタリア国サルデーニャ特別自治州の州旗である。今回の記事ではこの旗の紋様を起点としたい。
 さて描かれている4人の人物はいずれも同方向へ視線を揃え、白い鉢巻など絞めていかにも気合いが入った様子である。それゆえここに、サルディーニャ島では史上幾度も起きてきた独立闘争における抵抗の魂を読みとるとしてもあながち誤りとは言い切れない。だが直接の由来はまったくの正反対で、元は目隠しをされたムーア人を表した。赤い十字は11世紀に時のローマ教皇から賜与されたものであり、ムーア人らイスラム教徒による侵略からの加護を願ったものである。
 この時期サルディーニャもまたアフリカ沿岸から北上してくるイスラムの抑圧に抗していたが、イベリア半島東端部に発したアラゴン王国が短い間にサルディーニャやシチリアといった西地中海の島々を支配下に収めていけた理由の一つとしては、こうして同じ抑圧の共有があったと言えるだろう。[→link]

 しかし同様にイスラムとカトリックとの綱引きの場となったイベリア半島やシチリアなどと比べると、サルディーニャにイスラムの痕跡を探すことはかなり至難である。平時には宗教上の別よりも即物的な“利”を優先する商人らによる往来が優先されたのがこの一帯の常であったことを考え併せると、これは少し奇妙にも映る。つまりそこには、何らかのサルディーニャに特有の事情が憶測されることになる。端的に言ってしまうなら、ヴァンダル族による蹂躙の過去がそれである。

ruinsardinia

 ヴァンダル族はもともと4世紀の終わり、フン族に追われてヨーロッパ北方から西方に向けて移動を開始したゲルマン人の一派であった。だがライン川を越えてガリアの地へと侵入したのちも、定住の地を巡る争いにおいて同じゲルマン系のフランク族や西ゴート族、さらには土着の民族に対しても敗れ続け、とうとうイベリア半島の南端部へと到ってしまう。ところがこの先はもう土地がないという、まさに土壇場に来て彼らは意外な躍進を見せることになる。造船技術を身につけ、艦隊をもったのである。そしてイベリア半島を支配下に収めんとする西ゴート族による執拗な圧迫から逃れるべく、西暦429年、部族はついにジブラルタル海峡を渡ることを決意する。それはまさに、時の王ガイセリックに率いられたこの部族が海洋戦闘民族へと進化を遂げた瞬間であった。
 それから10年後の439年、北アフリカ沿岸において急速に力をつけたヴァンダル族は、当時の西地中海世界においてローマと並んで最も繁栄していた街の一つ、カルタゴ(現チュニス)へと侵攻する。455年には西ローマ皇帝の後継者争いに乗じてイタリア半島へ上陸、ローマを占拠。このときヴァンダル王国の版図はすでにカルタゴを含むアフリカ北岸一帯に加え、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島を服属させるに至っていた。468年にはヴァンダル族討伐を目的として派遣された東ローマ帝国艦隊を殲滅。これは時のビサンツ皇帝バシリスクスがわずか在位1年で退位を余儀なくされる要因ともなった。

 ところで数十年に渡って内陸を逃亡し続けた彼らヴァンダル族が、どのようにしてこれだけの短期間に島々を圧し東ローマの艦隊を打ち破るだけの海軍力を身に付けたのかについての言及は、一般にあまり為されていないようだ。個人的に探した範囲では「謎に包まれている」という表現以外は皆無であった。それゆえ以下は憶測になるが、理由の半分は彼らの出生にありそうだ。ヴァンダル族の出身は北欧から東欧北部であることが確認されているが、このことから元来の生活環境がのちの時代にはヴァイキングを生んだような洋上技術の発展との親和性が高い土地柄であったと考えられる。そして理由の残り半分は、彼らが一時を過ごしたイベリア半島南端に恐らくある。海洋民族のフェニキア人がこの地に築いた諸港はその後も概ねカルタゴ、ローマへと引き継がれたが、紀元5世紀の古代末期においてこの一帯に依然高い造船技術が保存されていた可能性は高いだろう。素質のある者たちが、技術のある土地を訪れたという按配。
 さらに彼らは、カルタゴを首都として王国を開いた。この街の軍港[→link]には、カルタゴがローマの支配下となったポエニ戦争以降も地中海最大の艦隊を擁するに充分なキャパシティが維持されていたから、これを得てヴァンダル族の海軍力は最早盤石の態勢を固めるに至ったはずである。

riversardinia

 しかし洋上の力だけでは己の部族はまとめられても、支配下に置かれた他民族の心がなびくはずもない。事実北アフリカ沿岸において外来のヴァンダル族が土着の人々から急速に支持を集めてローマの支配層を駆逐しえたのは、ガイセリックの軍隊が神の御旗を掲げていたからに他ならない。民族大移動を開始した時彼らゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派を信仰していたが、それはアフリカの北岸域でも広く受容されていた宗派だったのだ。そしてヴァンダル族がその土地に至ったとき、アリウス派はカトリック教会から異端視され迫害、追放という受難のさなかにあった。
 したがってヴァンダル王国による軍事活動は、この地域のアリウス派の人々にとっては己の信仰を賭けた聖戦の意味合いをも兼ね備えたということになる。実際彼らの軍隊は侵攻した異宗派の土地では略奪の限りを尽くし、捕らえた民にはアリウス派への改宗を強く迫った。当時の西地中海沿岸部に生活するカトリックの一般民衆にとって、彼らの存在はいつ海からやってくるかわからない異端の暴虐者そのものとして恐れられたことだろう。
 
 ここで話は思い切り前へと戻るが、現実にヴァンダルによる侵攻と支配を受けたサルディーニャの島民にとって、脅威の源が北アフリカ沿岸にある事態は中世に入っても変わらなかった。カルタゴに居座る‘異端の暴虐者’から、アルジェに巣食う‘異教徒の海賊’へとその頭部で見せる表情を変えることはあっても[→link]、現実に襲ってくる兵士は北アフリカ沿岸のムーア人という心象にずっと変化はなかったと推測できる。公(おおやけ)の旗に目隠しをした敵の首を描くという発想は現代の感覚でいえばあまりに生々しすぎるが、それは所詮意識の深層に刻み込まれた血の記憶を持たない部外者の意見でしかないのだろう。
 ちなみにガイセリックらによるイタリア半島侵攻は示威活動のような側面があり、ローマを開城させると支配下に加えることなく即座に退いたが、このとき行われたローマ市街における破壊略奪行為は、現代の日常生活でもよく使われる“vandalism(公共物の損壊行為、ネット上での荒らし行為etc.)”の語源となった。荒らすだけ荒らして所有せずに去るというニュアンスは、少し可笑しいくらいにそのものだ。記事の小見出しがサッサリである必要性をまったく感じさせないこの開き直りぶりは、我ながらさすがである。もう迷いがない。
 
2008.05.16 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ヌラーゲの宇宙
◆カリアリ, Cagliari, Karalis
cagliari 日本語ではカリャリと表現されることも多いこの地には、天然の良港となる条件のほか東西を近距離で湿地に、中距離で山地に挟まれるという防衛に有利な地勢(右図)も備わっていたことから先史時代より人が住み続けた。西地中海の島々に前インド=ヨーロッパ語族による先史文明の名残りが巨石遺跡として点在することは、バレアレス諸島・パルマの回でも述べた通りである。[→link]
 その後西地中海に到達した海洋民族フェニキア人も、この土地にいち早く目をつけた。紀元前7世紀には彼らによる植民市カラリス(Karalis)が築かれる。街の歴史はこのようにして始まった。

 サルディーニャ島に生きた人々の歴史を一語で表すなら、‘島宇宙’という言葉がふさわしいかもしれない。なにしろこの島はミノア文明を育んだクレタよりも、今日二つの国勢力を島内に抱えるキプロスよりも大きく、また北隣のコルシカ島などとも異なり内陸に十分な平野部を有して大人口を養えたため、島自体が一つの広大な歴史展開の舞台となりえたのだ。しかもシチリア島のごとく殆ど地続きといってもよいほどに絶えずイタリア半島や北アフリカの大勢力に脅かされずに済むくらいには、どの近隣他地域からも距離があった。

Bronzetto この結果古くから多様なルーツをもつ人々が島の各地方に混在する状況が生じたが、その痕跡は現代にも散見できる。たとえばフェニキア語の影響も残すとされるサルディーニャ語は今も島の農村部を中心に話されているが、ほかに島北岸の街サッサリ周辺ではコルシカ語の方言、島西岸の街アルゲーロではアラゴン王国の支配に由来するカタルーニャ語方言、さらにジェノヴァ植民市となった複数の地域ではイタリア語北方方言の一つリグリア語の使用が、高齢層を主な話し手として今日なお確認される。
 またヌラーゲ(Nuraghe)と呼ばれる遺跡群を残した先史時代の人々は、フェニキア人の到来後も内陸に退避する形で長く共生し、徐々に混血化していったと考えられている。遺伝学的な裏付けもあり、今日ではヌラーゲ文明の血を引くことが‘サルディーニャ人’のアイデンティティ形成にも寄与しているらしい。

 当初今回の記事は、ゲルマン系部族のなかでも特異の軌跡を描いて古代後期この地に至ったヴァンダル族の興亡を中心としてまとめる予定だったが、文章量的に無理がありそうなので次回に。代わりといっては何だが、ヌラーゲ遺跡群の造形がなかなか面白かったので、いくつか転載。いずれもwikipediaから。興味があればこちらを[→link]。最近この書き方に慣れたせいか、記事一つあたりの文章量が徐々に伸びる傾向を感じていて、日常的な読み物としてはさすがに長すぎるんじゃないかという気もしてきたので、少しコンパクト化にも注意を払っていこうとぞ思うのであった。
 ともあれエーゲ海やオリエントの古代文明に比して、この地域のそれへの一般における関心は極度に薄い。近年ケルトやヴァイキングなどこれまでややマイナー視されてきた文明・文化圏の文物が静かなブームを呼ぶこともまま見られるようになったが、西地中海の前古代へと光が当たるにはまだ少し時間が要りそうだ。
 それにしてもこの数日の冷え込みよう、これはこれで異常というか異様な気がする。風邪もひいた。

Nuraghe

 
2008.05.14 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
ガリア共鳴
◆マルセイユ, Marseille, Μασσαλία
provencegift ‘南仏プロヴァンス’というと、その言葉だけで愛の詩とワインとガーデニングなイメージというか、夢見がちの乙女なムードがムラムラと漂ってくる。日本の場合諸事情により実際に夢見てるのは乙女でなくたいてい有閑マダムなのだけど、昨年には“プロヴァンスの贈り物”(原題“A Good Year”)なんて映画も全国公開されて、目下このブームに衰えはないようだ。この作品など、グロテスクで鳴らしたあの“エイリアン”の監督リドリー・スコットが脳まで筋肉だった“グラディエーター”のラッセル・クロウを主演に迎えて完全無欠のラヴロマンスを撮ったなどというものだから、どうしちゃったのご両人とも首をかしげつつ、恥ずかしげもなく一人で上映館へ出かけたのが何を隠そうこの私なのである(照)。いやまあ、期待していたよりいい映画だったけど。
 で。マルセイユは言うまでもなく、そのプロヴァンスの中心都市である。

 なぜプロヴァンスにこうして鼻につくほどの文化的なニュアンスが付随したのかというと、そこには直接的なきっかけとなった仕掛け人や具体的な文物以前の問題として、幾つかの社会的な要因が考えられる。一つには今も昔も文化立国を標榜してきたフランスにおいて、他にない地中海性の風土が強いアクセントとなったこと。二つ目には中世以前のフランスではプロヴァンス地方が紛れもなく文化の最先端地域に属したため、その遺産が心理的にも物理的にも色濃く現代へ余韻を残したこと。そして三つ目。中世の終わりに起きたローマ教皇のアヴィニョン捕囚によって、ルネサンス盛期に至るまでこの地域が現実的にカトリック文化・芸術の中心地となり、学問発展の核となったこと。

 事例の一つとして今回はキリスト教聖歌の展開に着目してみよう。カトリック教会でのミサといえば信徒ならずとも即座にパイプオルガンの調べにのせたグレゴリオ聖歌の響きをイメージするところだろうが、実をいうとこの聖歌の形式が成立したのは意外に新しく、9世紀から10世紀にかけてのフランク王国においてだとされている。キリスト教世界では古くから地方ごとに独自のスタイルをもつ聖歌が歌われてきたが、フランク王国においてガリアの聖歌様式とローマの聖歌様式とが統合されると、大帝国を築いたシャルルマーニュ(カール大帝)はその様式のみを唯一許された聖歌として帝国下への普及を推し進めた。これにより彼の版図である西ヨーロッパ一帯では各地で独自の発展を遂げていた他の様式があらかた淘汰されてしまう。
 ここで少々脇道にそれるが、わずかに残るグレゴリオ聖歌以外の様式例として、イベリア半島のモザラベ聖歌(動画右上)とミラノのアンブロジオ聖歌(動画右下)がある。モザラベ聖歌は‘Mozarabe’の綴りからも推測できるように、イベリア半島においてはアラブ(含ムーア人)の影響が強くローマの権勢が及びにくかったため、アンブロジオ聖歌はミラノの司教区創始者でもある聖アンブロジウス自身の権威のために、各々の様式が結果的に消失をまぬがれた。ちなみに西ヨーロッパ以外のキリスト教会においては当然ながらローマによるこのような抑圧もなかった(または薄かった)ため、多様な聖歌様式が今日もなお維持されている。アフリカン・アメリカンの陽気な合唱や、フィジーの晴天に突き抜けるような歌声を想起するのもいいだろう。

 ともあれ単旋律、無伴奏のグレゴリオ聖歌は、そのストイックに研ぎ澄まされた形式ゆえにのちのヨーロッパにおける絢爛たるクラシック音楽の展開に絶えず霊感を与え続けたが、その発生源がフランク王国内であったことは必ずしも政治的な事情によるばかりでは恐らくない。というのも続く11世紀にもプロヴァンスではトルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちによる叙情歌の形式が生まれ、12世紀には北フランスをへて広く西ヨーロッパに普及するなど、現代風に言うならばモードの発信地のような役割を果たし続けたからだ。その動力源となったのが、地中海を介した異邦からの文化流入であったことは当ブログでこれまでに述べた通りである。
 トルバドゥールは騎士と貴婦人の禁欲的な愛を歌い新たな宮廷恋愛の作法を生みだしたが、たとえばこのとき育まれた愛のモティーフは東でのちのペトラルカに、またこうして磨かれた騎士道のモデルは西でのちのセルバンテスに影響を与え、やがて北のシェイクスピアらを通じて実り大きなヨーロッパ近世文学の系譜へと連なっていくことになる。

 さて伝説は街としてのマルセイユの発祥をこう伝えている。ある朝、エーゲ海を発したフォカイア人の船団が地中海北西部のとある入り江にたどり着き、土着民の首長を訪問した。折しもその日は首長の娘の婿選びを行う祝祭日であったが、いざ婿を決める段になると娘ジプティスは同族の屈強な男たちには目もくれず、なんとフォカイア人の若きプロティスを指差した。こうして決まった二人の結婚が、マッサリアの街の発端となった、と。
 マッサリア(Massilia, Μασσαλία)はマルセイユの古名だが、伝説の時代から返すがえすもこの街は、地中海とガリアの大地という二つの広大な世界の結節点を演じ続けてきた土地なのだ。

 以下は余談。右の動画は、現代的な手法によりグレゴリオ聖歌を直接の音源として使用した一作例。教授の中の人は中学時代からこの手の音楽ばかりを聴く偏屈者へと道を踏み外し始めたが、とりわけEnigmaに関しては当時付き合っていた恋人をして、BGMにいつもこの曲が流れているような人間と評さしめた過去があるだけに感慨もさらに深い。さらに深いのだが実を言うとこのPVは今回が初見で、そのストーリー性を感じさせる出来映えに少し驚いた。
 執筆中の主人公は夢魔に襲われ、気づくと修道士の姿となって廃墟の教会をさまよっている。そして廃墟の暗がりに地獄の門の存在をみとめると、注意深く門前へと足を踏み入れる。突如脳裡を襲う劣情の翳りにしばし戸惑い、扉を開くべきか否かを逡巡したのち、あらためて軽く門扉へと手を触れる。すると見るからに重たげな鉄扉はいとも簡単に間口を開け、その奥にのぞいたものは。

 この映像の冒頭部における、闇に注ぐ斜め上方からの光の構図は恐らくカラヴァッジョを意識したものだろう。より直截には“執筆する聖ヒエロニムス”[1606,右下図]を強く連想させる。カラヴァッジョを巡ってはその破天荒な生き様に引きずられてどうしてもセンセーショナルなイメージばかりが先行してしまいがちだが、純粋に作品の質的な面からみても、いまだ一般に正当な評価を得るには至っていない画家である。このことはベラスケスやレンブラント、フェルメールといった光と闇の魔術師と畏怖される巨匠たちのいずれもが、彼らのほぼ半世紀前を生きたカラヴァッジョの作品群に少なからぬ影響を直に受けているという一点のみをとっても明白なことだと言える。
girolamocarabaggio PVに映し出される主人公の青年は描かれた聖ヒエロニムスに比べてかなり卑近な煩悩に捉われている観もあるが、己の暗部を突き放すのではなく丸ごと呑み込もうとするそのような態度こそがカラヴァッジョの真髄ともいえ、またこのPVの指し示す結末にもつながるようにどこか思える。こうして考え巡らせるとそれはまた、陽光に溢れてフランス北部とは異なる性質をもったオクシタニアの東端に位置し、ブルゴーニュの森へもイタリア・ロンバルディア地方へもそう遠くないプロヴァンスの土地が必然的に抱え込まざるを得なかっただろう、相矛盾する諸物に対する鷹揚さ、おおらかさにも重なって見えてくる。
 
2008.05.10 * 地中海・黒海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
十字軍、西へ
◆モンペリエ, Montpellier, Montpelhièr
 ヨーロッパという事象を遙か遠方からの眼差しによってとらえる私たちは、えてしてフランスやイギリス、スペイン等といくつかの要素に分けて考えるきらいがある。各要素はそれぞれに固有の色合いと履歴をもち、その実相は互いに相異なる、というように。そしてそのようにみなしたとき、どうしても要素間の差異のみを過大視しがちになってしまう。だがこれが根本的に誤謬であることは、国であればその国の歴史を眺めることにより直ちに了解できる。フランスの場合、南部オクシタニアの歴史ほどそれに相応しい事例はない。

Occitanie 中世フランス南部の中心都市トゥールーズの起源は古代ケルト人にさかのぼる。街のケルト名トロサは、北部パリのフランス王朝による13世紀の実効支配に至るまで公式にも存続した。このトロサを中心として、東はマルセイユ・モンペリエから西はボルドーまでに影響力をもったのがオック語を話す人々による、いわゆるオクシタニア文化圏であった。古代ローマ帝国崩壊後の地中海世界において文化・文明の成熟度が南高北低の状態を長く維持したことはこれまでにも見てきた通りだが、それは現在のフランスに相当する地域内においても同様だった。フランス王朝の首都パリがまだシテ島周辺にようやく城下町を形成しはじめた頃、高度に発達した社会制度を抱えたイベリア半島にほど近いトロサはすでに大規模な交易都市を築いていた。
 オック語はフランス北部のオイル語(現在のフランス語)よりも様々な面でカタルーニャ語に近いとされるから、このことも相対的なオクシタニア繁栄の一因であったろう。殊にモンペリエをはじめとする地中海沿岸部は古来よりアラブ世界との交易も盛んであり、またフランス王国が強勢を誇り始めてからも長くアラゴン王国の支配下であったこともある。それゆえドーバー海峡を隔てたブリテン島勢力との抗争こそが焦眉の課題であり続けたフランス北部に成立した王国とは、気候風土から文化・言語、交易の形態までもすべてが違う‘異国’であった。このことを下地として、13世紀オクシタニアを大規模な戦役が襲うことになる。
 世に言う、アルビジョア十字軍の侵攻である。

 この十字軍はオクシタニアにはびこる異端の徒‘カタリ派’の撲滅を大義とした。しかしたとえば十字軍最初の攻撃対象となったオクシタニア東部モンペリエ近郊の町ペジェにおいては1万人を超える人々が虐殺の犠牲となったが、うちカタリ派信徒はわずかに500名だったとも200名だったとも言われている。またこの戦役を契機としてフランス王朝がオクシタニアを領土に加えたことからも明らかなように、掲げられた大義と実際の思惑との間に相当の距離があったことは疑いようがない。
 フランス王家を実力的に凌ぐとも見られたトロサ伯家はこの戦役によって没落を余儀なくされるが、その過程では当時ボルドーを支配下に置いていたイングランドや東のドイツ神聖ローマ帝国、南のアラゴン王国と連携し対フランス大同盟の結成をも画策した。これはフランス王家にとって異端撲滅が、到来しうる窮地に備えローマ教皇を味方につけるための餌に他ならなかったとする所以でもある。

Cathars_expelled たしかにカタリ派は存在した。だがローマを頂点とするカトリックの教会組織にとって彼らが異端の徒であったのとまさに同じ意味で、カタリ派の論理によれば腐敗したカトリックの教会組織こそが悪魔の象徴そのものだった。今日では悪名高いカトリック世界における異端審問官の制度はカタリ派との抗争のなかで登場したものだが、そもそもカタリ派自体がカトリック聖職者の汚職や堕落への反対運動として興隆した経緯も見過ごされてはならないだろう。この面ではのちのプロテスタントによる宗教改革にも直に通じるものがある。
 そういえば来たる大航海時代において、カトリック教会はプロテスタント運動による失地を中南米やアジアへの布教活動によって回復しようと試みたが、この時最前線の一翼を説教者修道会、通称ドミニコ会が担っていた。そのドミニコ会の創始者ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセスは、まさにアルビジョア十字軍が到来する直前のオクシタニアにおいて孤高の足跡を残した修道士であった。堕落した教会組織とは一線を画したカトリックの本領を説く者として、一人街角に立ったのである。

 現在のモンペリエは、カトリックの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のスタート地点としても知られているが、ピレネー山脈を抜けて長く東西に横たわる巡礼路の歴史は遠く10世紀までさかのぼる。巡礼路の整備がイベリア半島においてはレコンキスタの展開と、ピレネー山脈以北においてはカタリ派との抗争と連動して進められたことは想像に難くない。
 サンティアゴ・デ・コンポステーラに祀られる十二使徒の一人聖ヤコブは、レコンキスタの気運高まるなかで‘ムーア人殺しのヤコブ(Santiago matamoros)’の異名で呼ばれたという。異端審問官の任に就くことの多かったドミニコ会士が庶民から恐れられ、‘イエスの番犬(Domini canis)’と名指されたのにどこか似ている。いずれにしてもなんと皮肉な呼び名だろう、と思えるのは気のせいか。
 
2008.05.07 * 地中海・黒海編 * CM:2 * TB:0 * top↑
反骨
◆バルセロナ, Barcelona, Barkeno
sagradafamilia ‘反骨’の二文字ほど、カタルーニャ地方の歴史を一語で表現するのにふさわしい言葉はないだろう。外来の支配者に対する叛乱が頻発したからというばかりではなく、戦時において反逆の英雄を幾人か輩出したからというばかりでもない。そこに生きる人々が今なおその精神を色濃く息づかせているという点で、現に反骨の気風に満ち充ちた土地なのだ。
 バルセロナはその歴史の始めから、カタルーニャの中心都市であり続けた。街の起源はカルタゴの英雄ハンニバルの父、ハミルカル・バルカにさかのぼる。名将として鳴らしたバルカは自らの地歩を固めるべくイベリア半島東岸に幾つかの拠点を築いたが、その一つとしてこの街の歩みは始まった。フェニキア語の古名バルケーノ(Barkeno)に由来する名をもつこの街は、ゆえにバルカの家名そのものを纏い続けているとも言える。記事の流れをこのままに、フランク王国との相克やバルセロナ伯の巧みな外交戦略、アラゴン王国基幹港としての繁栄やスペイン継承戦争後の相対的な没落、そして内戦をへて現代の復興へと至る歴史を概観するのもいいが、今回は趣向を変えていきなり21世紀現在へ突入する。

 さて「バルセロナ」の語を日常耳にする機会としては、世界的に著名なFCバルセロナ関連の報道をまず思い浮かべるひとも多いだろう。ロナウジーニョを始めとするスター選手たちはもとより、FCバルセロナの本拠地スタジアム‘カンプ・ノウ(Camp Nou)’の名ですらも、スポーツをあまり観ない人々にも広く知れ渡っている。
 このスタジアム、“カンプ・ノウの奇跡”のような形でサッカー史に残る試合を数知れず演出してきたのは言うまでもないこととして、その枠を超え出て世界史におけるカタルーニャの展開を巡っても鮮烈な一幕を演じたことがある。この地方ではスペイン語とは異なるカタルーニャ語が話されていることはよく知られているところだが、前世紀の半ば30年に及んだ将軍フランコによる軍事独裁政権下にあって、公的な場でのカタルーニャ語の使用は激しい弾圧の対象となっていた。ところが、である。カタルーニャ地方においてそれが許された唯一の場所がある。そう、カンプ・ノウの中なのだ。1957年に完成しヨーロッパ最大の収容人数を誇るこのスタジアムは、FIFAの規定により現在はその数を9万人台に抑えているが、かつてワールドカップ開催時には12万人を収容する能力を公表してもいた。それだけの集団が精神を昇ぶらせ得る場所で、下手に抑圧など加えられないというのが恐らく政権側の本音だったろう。つまりカンプ・ノウがカタルーニャ叛乱の震源地になりかねないという認識があったことになる。
 またフランコはレアル・マドリードを支援して、アスレティック・ビルバオやFCバルセロナといった当時の強力チームから有力選手を奪うなどの強権を行使した逸話をもつ。そうした背景を踏まえてみると、今日でも伝統の一戦として名高いレアル・マドリードvsFCバルセロナの試合“エル・クラシコ(El Clásico)”を包む尋常でない空気の出処も推測できようというものだ。

Toros-SANAA

 話変わって上画像の左はバルセロナ市内の闘牛場。かつてスペイン国内の各都市において闘牛場は観光資源の柱であったが、旅行者の趣向の変化もあって今では下火となり、ことに闘牛はもともとカタルーニャの文化ではないという心情的忌避も働いて同州議会によりバルセロナでは廃止が決定されている。こんなところにもプチ反骨の萌芽あり。サッカーだってべつにカタルーニャ発祥の文化じゃないんだけど、なんていうツッコミはたぶんしないほうがいい。カタルーニャ2千年の反骨心があなたに対して発動する恐れがある。
 上画像の右は昨年催されたカンプ・ノウの改築コンペにおける決定案。設計者は30セント・メリー・アクス[ロンドン:→link]や香港上海銀行本店ビル[香港:→link]などで知られるノーマン・フォスター卿。闘牛場もサッカー場も、必要以上に光っている。目下進行中の情報革命により現代社会は多くの面で生理の感触定かならぬヴァーチャルの世界へと重心を移しつつあるが、見世物の世界でも闘牛における命の奪り合いというリアルから、代理戦争とも表現される象徴上の戦いへの移行が起きたとすることもできそうだ。

FCBarca ともあれこんな記事になったのは、昨夜ゲーム内の知り合いにつられて夜更けまでFCバルセロナvsマンチェスター・ユナイテッドの試合を観戦してしまったからで、それにしてもUEFAのチャンピオンズリーグってちょっと派手すぎやしないかと思う。なにこの世界選抜vsなんという世界選抜、みたいな試合ばかりじゃないか。豪華絢爛への道をゆくスタジアムの外観にしても、観客に死者が出たというようなありがちな騒動にしても、もはや単なるスポーツ興行の域ではない。演劇性も祭儀性も政治性までをも飲み込んだ、虚実定かならぬ幻影装置と化している。
 考えてみるとカタルーニャを代表する芸術家として即座に思いつくアントニ・ガウディやジョアン・ミロ、サルバドール・ダリなどはいずれもその作品世界に底知れない謎を感じさせる人物ばかりである。同じスペイン出身でもピカソやガルシア・ロルカのように個人の内面を深く掘り下げた帰結として開示される‘個の感性’による俊敏な表現とは明確に異なる、個人の底を割った先に蠢く集団的な夢幻とでもいうべき異様なムードを彼らはともに湛えている。とすれば紀元前の時代から今日まで連綿と受け継がれてきたカタルーニャ精神の基底では、個を無化させてしまう種の強い感染力が息を潜めているのかもしれない。ちょうどカンプ・ノウがそうであるように。
 
2008.05.01 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
東進するアラゴン
◆パルマ, Palma de Mallorca, بالما دي مايوركا
La Seu ジブラルタル海峡からシチリア島へと伸びる西地中海において、バレアレス諸島はそのほぼ中央に位置し古来より航路上の中継地として栄えてきた。同諸島の中ほどにあって最大の面積を誇るのがマヨルカ島(スペイン語方言によってマジョルカ/マリョルカとも)で、パルマはマヨルカ島の中心都市である。イタリアのパルマと区別する意味で一般にパルマ・デ・マヨルカとされる。古代ローマ時代の名称はパルマリア(Palmaria)。
 この港も例によってフェニキア人を起源とするが、その後の支配者変遷の軌跡はそのまま西地中海における制海権の所在を示すバロメーターともなっている。紀元前2世紀のローマによる征服後は4世紀にアフリカ北岸に拠点を置くヴァンダル王国、6世紀にローマ世界の再構築を目指したユスティニアヌス帝のビサンツ帝国、8世紀以降はイスラム諸王朝へとバトンが渡され、13世紀にレコンキスタの機運高まるアラゴン王国の支配を受け、数度に及ぶ隣国との合体を経てスペイン王国となり現在へと至る。なおマヨルカ島や隣のメノルカ島には‘Talaiot’と呼ばれる青銅器時代の巨石遺跡が残っていて、コルシカ・サルディニアといった西地中海の他の島に残る遺跡との連関が考えられている。また島の南西岸に位置するパルマがフェニキアやイスラムの影響を残すのに対し、北東岸に位置する港町アルクディア(Alcúdia)が円形闘技場など古代ローマの面影をより強くもつことは興味深い。この点でも、地中海の勢力図がそのまま島の地勢に縮図となって反映されている観がある。

 ところで観光関連のサイトやガイドブックの類をあたると、マヨルカの見どころとして筆頭にあがるのは大抵パルマのカテドラル‘La Seu’である。近代以降のヨーロッパ世界でこの島が観光地として注目された理由は本来その気候と海にあるのだけれど、そこは浜辺で何日も過ごすことができない日本人向けに書かれているからだろう。
 この大聖堂、元はモスクのあった場所に、マヨルカを征服したアラゴン王ハイメ1世が建造を開始した。着工は島の征服と同じ1229年である。そして最初の完成がなんと1601年。この気長さ、即座にバルセロナのサグラダ・ファミリアを思い起こすところだが、その設計者であるアントニ・ガウディはパルマのカテドラルの改築プロジェクトにも携わっていた。彼が加わったのは1901年で、1914年に教会側と口論になって手を引いている。頓挫したとはいえ14年も関わったのだから今に残るその影響いかばかりかと期待も膨らむが、プロジェクトそのものは彼が参与する半世紀前から進んでいたらしい。とにかく時間のスケールがでかいのだ。というわけでこの聖堂におけるガウディの遺産はごく一部となるのだが、それでも一見してガウディ然とした異様を湛えて建築内全体のムードを変調させてしまうのがやはり彼の彼たる所以だろう。
 ちなみにこのカテドラルの身廊部分(nave)の天井高(44m)はヨーロッパ全体でもトップクラスに入っている。[→link:6位にランク] 冒頭画像(上右)はその身廊天井を見上げたもの。下図はガウディによる変更部分、天蓋装飾と聖歌隊席。

laseudegaudi

 ハイメ1世率いるアラゴン王国が、イベリア半島内のレコンキスタ完了より数世紀も早くバレアレス諸島の支配に動いた理由としては、本土バレンシア以南のイスラム勢力に比べて駆逐が容易だったということも無論あるだろうが、カスティーリャ王国など同じ半島内のキリスト教諸勢力との軋轢も大きかっただろうと推測される。そのあたりはポルトガル王国によるセウタ進出とも似た背景を窺わせるが、セウタ進出がのちのポルトガルによる大西洋航路開拓の先鞭となったように、この早い段階でのバレアレス諸島征服は、のちのスペインによるサルディーニャ、シチリア、そしてナポリ王国の南イタリア、アテネ周辺のギリシア支配へと至る版図拡大の歴史にとって必要不可欠の意味をもった。「スペインによる支配」と一口にまとめると見えにくくなってしまうが、こうして地中海に版図を広げたのは実質的にアラゴン王家の勢力で、ハイメ1世の時代すでに王国における公用語の一つであったカタルーニャ語はバレアレス諸島はもとより、イタリア支配の長いサルディーニャ島の一部でも今なお使用されているようだ。この点は中南米に浸透したスペイン語が“カスティーリャ語”であることと実に対照的なところで、イベリア半島各地方の自治的な性格は近代以降のスペイン・ポルトガル没落の一因ともされているが、こう考えてくるとそうした性格に由来する競合的な動機付けがなかったら、そもそもスペイン・ポルトガルによる大航海時代が到来したかも怪しくなる。

 この「身近に競合者をもつことの強さ」は今日でも新自由主義(ネオリベラリズム)のような形でしばしば世に喧伝されるが、個人的には大嫌いな思想の一つである。卑近なところでは「ライヴァルを意識しろ」とか、「つねに目標をもて」とかね。そうした底の浅い発想ばかりを重視するというのは、それはそれで確実にある種の病気だと思う。今のスペインみたいにそういうことを基本的に全て放棄してまったりと停滞をかこつというのも人間の営みとして当然アリだろうと思うけど、いま日本社会でそれができるのは老後に入った団塊世代かニート・引きこもりの若者たちだけだ。それができずに苦悩する人々が行動に出た結果としての、トップクラスの自殺大国の姿がここにある。この国ではふつう停滞即困窮を意味するから、一度首をもたげただけで救いのない八方塞がりの闇へとたやすく陥ることになる。
 と、心が荒みはじめた頃合いを見計らって、さいごにこのサイト[→link]を紹介して締めとしたい。マヨルカ島に嫁いだ日本人のかたによるブログなのだけど、文章と写真のバランス、生活者視点と訪問者視点の按配がとてもいい感じで、う〜ん。 なごめる。
 
2008.04.29 * 地中海・黒海編 * CM:0 * TB:0 * top↑
魂深きラ・マンチャ
◆バレンシア, València, فالنسية
fellasvalencia ありのままの人生というものを、私はこれまで嫌というほど見てきた。息を引きとる仲間を両の腕に抱いたこともある。彼らはみな虚ろな目をして、俺はなぜこうして死んでいくのかと私に聞いていたのではない。こんな人生のために今まで生きてきたのかと私に聞いていたのだ。ああ人生自体が気違いじみているとしたら、では一体、本当の狂気とは何か。本当の狂気とは。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。だが、最も憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折り合いをつけてしまい、あるべき姿のために戦わないことなのだ。 

 舞台“ラ・マンチャの男”のクライマックスにおける、劇中劇の主人公アロンソ・キハーナの台詞を冒頭に挙げてみた。アロンソ・キハーナ、愛馬ロシナンテを駆る稀代の騎士、自称ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ。‘ラ・マンチャ’とはイベリア半島南東部の内陸に広がる高原部をさす地方名。海への出口としてはバレンシアが最も近い。‘マンチャ’は‘乾いた土地’を意味するアラビア語に由来し、その名の通り乾燥して風が強い。風車のよく似合う土地である。
 『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスもまた、ラ・マンチャの空気を存分に吸って育った。彼がレパントの海戦に自ら出向き奮戦のあげく片腕の自由を失ったエピソードはよく知られているが、帰還中バルバリア海賊に捕らわれたことはあまり知られていないかもしれない。このとき、捕虜として5年間をアルジェで過ごした。また入隊する以前は、20代前半の数年間をローマで過ごし書物を読み漁っている。このローマとアルジェでの体験はのちの創作に活きるところ大だったろうが、とりあえずアルジェから解放されたあとの30代における彼の暮らしはあまりパッとしない。アルマダの海戦時、彼はスペイン国内にいて戦時物資の徴発を生業としていたが、徴発元の教会から恨みを買って投獄される。敗戦後は徴税官の職を得るも、税金を保管した銀行が破産、残った負債を支払えずに再入獄。この時すでに40代。ようやく『ドン・キホーテ』の前篇が出版された年には齢58に達していた。その波瀾万丈ぶり、ある意味ドン・キホーテ以上に壮絶なものがある。

delamancha 『存在の耐えられない軽さ』の作家ミラン・クンデラは、『ドン・キホーテ』を評してこう述べている。

 ‘かつて宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、事物に個別の意味を与えていた神が、その地位からいまやゆっくりと姿を消そうとしている。ドン・キホーテが自らの家を後にしたのはまさにこのときだったが、すでに辺りは名状識別しがたいものとなっていた。至高の「審判者」の不在のもと、世界は恐るべき両義性のうちにその身を横たえていたのである。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになった。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある小説が誕生したのである。’ 
≪評論「軽視されたセルバンテスの遺産」より抜粋、要約≫

 狂気と正気、夢と現実、ありのままの人生とあるべき姿。ドン・キホーテに限らず、セルバンテスに限らず、近代を通過して人々は誰しもがそのはざまにあって引き裂かれまいとする不安と苦しみを背に負わされるようになった。こと現代にいたっては、社会全体がより一層の孤独感を個々人に植え付ける装置と化した観すらある。新訳の出版でドストエフスキーが若い世代に静かなブームを呼んでいるというニュースを最近目にしたが、彼もまた『ドン・キホーテ』を‘人間の魂の最も深い、最も不思議な一面’をえぐりだした、‘人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物’≪『作家の日記』≫と絶賛している。‘最も偉大’で‘最ももの悲しい’、とここにも覗く両極性。頑強に独立を貫いたバスクやカスティーリャを北に、800年の長きに渡って栄えたイスラムの都を南に抱え続けたラ・マンチャやバレンシアなどイベリア半島中部の風土が、そこに深く影響したことは疑いのないところだろう。

Albacete 画像1枚目は有名なバレンシアの火祭り(Las Fallas)における一場面。2枚目はギュスターヴ・ドレによる『ドン・キホーテ』挿絵。3枚目(右)はラ・マンチャ地方で撮られた落日の光景。
 実をいうとマラガの項目を書きあげ、次はバレンシアか何書こうとぼんやり思い巡らせていたまさにその時、唐突に日比谷の帝国劇場で興行中の“ラ・マンチャの男”[→link]のS席チケットをもらってしまった。前日になって当人に急用ができたという理由らしいが、これなんてマンガ?的展開だった。というわけで、観てきた結果がこの記事の態である。主演の松本幸四郎、“ラ・マンチャの男”を演じて1100回というだけあって、色眼鏡なしで凄かった。松たか子も年齢の割に年季の入った演技を見せてくれたし、何より声の張りが予想外に強く驚いた。テレビへの露出度が高い役者の舞台はチケットも無駄に高くなるので自腹を切ることはまずないが、たまには行くといいかもねなんて思いを新たにした次第。役柄とはいえのっけからリアル父が娘に求愛するシーンがあり、皇居の隣でこれをやるってこの国まだまだイケるかもとか支離滅裂な恍惚感に一瞬襲われた。ブルジョア劇場も捨てたものではありませぬ。とか。
 
2008.04.26 * 地中海・黒海編 * CM:1 * TB:0 * top↑
       
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レイニーハート准教授

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Notes: 大航海時代Online Notosサーバにて航海中の学者見習いによる日誌。准なのに教授と呼ばれていることから、安易に“教授ブログ!”と名づけました。リンクフリー、コメント・TB大歓迎
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